#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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近況について
このブログ、もう再開しない気がする。

別に何か起きたわけでもなく、別のブログ更新に
夢中になって、このブログは放置プレイ城態。

別のブログも主テーマは「城」。
そっちのほうが、自分にはあってるらしく、
90日毎日更新が続いている。

自分に不可なく、そして楽しく、何より読みやすく
そんな城ブログを目指して日々奮闘中です。

以上

2013年6月

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


松江城-29/×××
松江城-29/××× 【松江編 #31】

※食事中、閲覧するにふさわしくない内容が含まれています。ご注意ください。※

江戸時代、城下町とその郊外を区別するために郊外への
出入り口には番所が置かれていた。

松江城とその城下には、全部で33箇所の番所があったと言われる。

その内の1つが、城内の二の丸にあった。

今は公衆便所として、外観だけは瓦が葺かれた城郭建築物のようで、
周囲の復元櫓の中に溶け込んでいるが、本来はここに番所があったと、
文献や絵図などから分かっている。

松江城二の丸トイレ
[Photo]松江城二の丸番所跡、現在は便所になっている

その番所跡を発掘調査した後に、便所が建てられた。

平成4年の発掘調査で絵図に記載された通りの番所だったことが
確認された以外にも面白いことが分かっている。

この番所跡の南側に、直径1.1メートル、深さ1.6メートルの丸い穴が見つかった。
発掘調査の担当者は、当初井戸跡と思っていたところ、ある時通りすがりの
観光客のおじさんから「これは最近までうちらでも使っていた“かわや”だろう。
板を2枚通せばしゃがむことができる。」と言われて、“目からウロコ”だったそうな。
この話は、『島根日日新聞』に掲載されている。

写真が手元にないので、掲載出来ないんだけど、地中に穴の大きさの風呂桶の
ようなものがあって、中に木が散乱している状態。こんな“かわや”を使っていた
んですか…。

底に堆積していた土を奈良の専門家へ送り、分析を依頼したところ、
結果、確かに糞便の堆積土と断定され、野菜の生食による虫などが
確認された。

■分析結果から想像した当時のメニュー、
梅干、味瓜、白米、麦、そば、油菜のおひたし、鯉のお刺身、
鮎の塩焼き、白魚の酢味噌和えに野菜類


意外と豪華な料理。

出来たてのウンコから、体の健康状態とかが分かるというのはよく
あるけど、100年以上も前のウンコからこんなにも色々分かるとは…。
文献史料では分からない考古学の素晴らしさを感じる。

そして、通りすがりの観光客の一言で解明されることがスゴい!!
この一言がなければ、金隠しでも出土しない限り、10年くらいはトイレと
断言しなかったんじゃないだろうか。一乗谷遺跡のように。まぁ、一乗谷の時
は今みたいに科学的な判定方法がなかったからこれだけ時間を要したんだけど…
※一乗谷のトイレは、考古学で初めて確認された事例。この数年後、トイレの
考古学の基礎が固められていくことになる。

ちなみに、ウンコから当時の様子を想像するというのは、松江城だけに
限らず、各地でも同じようにウンコから色々と推測されている。その中の
1つに首里城がある。

首里城にはトイレが見当たらないことから、トイレ事情はよく分かっていない。
最近の発掘調査で、淑順門という内郭の城門裏に円形の石組みのような遺構が
地下から見つかった。中の土のおかしさから井戸ではなくゴミ箱なんじゃ…と
考えられた。

ところが、内部の土を分析したところ、ウンコの化石が発見された。
また、解析結果では松江城と同じ寄生虫卵が見つかっている。
調べようとしたキッカケは違うものの、ほぼ松江城と同じ流れ。

首里城ではこの遺構をトイレとは断定せず、史料には「糞箱」や「小便筒」
という言葉が出てくることから、“おまる”などで排泄したものをここに
捨てていたんじゃないかと考えられている。

ウンコを運んで捨てる運(ウン)用を行っていた。

話は松江城に戻って…
何気なく使用していた便所が、実は江戸時代にも同じようにが用を
足していたので、この便所を利用することで同じ感覚を味わえる。

松江城のトイレはこの二の丸以降、本丸にはない。
(正確には、天守に便所の痕跡があったが、もう失われている。)

首里城では往時、働く役人は登城する前に、あらかじめトイレを済ませていて、
城内でトイレに行きたくなっても、なるべく我慢していたという話がある。
なので、松江城でも同じように、本丸へ登城する前には、二の丸のトイレで
済ませてから登城してみてはいかがでしょうか?

以上

今回はここまで。また次回。



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備中松山城-1/城の管理体制
備中松山城-1/城の管理体制

天守が現存する備中松山城

備中松山20121121_備中松山城天守17
[Photo]備中松山城天守

解体修理される前の古写真を見ると、それはもう廃墟同然。
松江城と同様、昭和に修理され、今では綺麗な天守になっているけど、
整備される前は見るに耐えない姿だった。

現存12天守という枠にハマったのは奇跡に近い。

天守が残った要因はいくつかの事象が重なりあったことから今に
至ると考えられるけど、今回はその要因と思う1つを紹介したい。

備中松山城は幾度となく城主が変るけど、その中で
幕末まで城主に至った板倉氏に注目する。

■松山藩、城の管理体制(板倉氏時代)

小松山城(備中松山城)は江戸時代、「山城」と呼ばれていた。
松山藩では、麓にある藩主居館・御根古屋を「」と呼び、“登城する”と
いうと、この御根古屋に出仕することを指していた。これは他の城でも見られ、
姫路城の場合は、絵図や文献史料において、三の丸御殿とその曲輪にだけ
本城」という言葉が使われている。藩士の感覚では、“城=三の丸御殿”
であったことが分かる。

平常、山城と呼ばれる小松山城には、山城番人4人が城内三の丸の足軽番所
に常駐し、城内の警備と施設の管理に当たった。

山城の大手御番所宛に出された「定」によると、

①番人は5日交替で詰切り、交替の時には諸道具を念入りに改めて引き渡すこと。
②本丸曲輸を朝夕1度ずつ見廻り、変わったことがあれば御番衆へ連絡し、
 惣御門日行司まで伝えること。
③火の元に気をつけること。


などを申渡している。
※朝夕1度ずつ見廻る本丸曲輸は山城の本丸という意昧ではなく、板倉家では
旧領の亀山城の呼び方にならって御根小屋(城主居館)を二の丸、山城(小松山城)
全体を本丸と呼んでいた。


また、山城の登城口にある坂口御門番所にも番人が常駐していた。

上の「定」と同じタイミングで、この登り口御番所(坂口御門番所)宛にも「定」が
出され、それでは、

交替の刻限の厳守、道具改め、火の用心のほか、御番衆や目付役の
発行した許可書を持っていないものは登城させてはならないこと


などを申し渡している。

さらに、城下や山城の治安維持・警備状況を視察して廻る目付役がおかれ、
山城の見廻りは遠廻りといって日を定めずに月1回行なっていた。
(日を定めてなかったっていうのは、ほぼ抜き打ちに近いのかな。
会社でも抜き打ちの2Sチェックがあるので、それに近い感じがした。)

目付役は大手門から三の丸・二の丸を見廻り、本丸東門を通って天守に
入り、三階の御社壇を開けて御神体の宝剣を確かめた後、水の手門ヘ廻って
封印改めを行ない、上番所ヘ立寄って武具改めをすましたうえ、番人に
諸注意を行なって下山した。

幕末の混乱期には山城警備が強化され、文久3年(1863年)9月からは5倍の20名が
詰切り、交替で昼夜警備にあたるほか、取次役歩目付役各1人も常駐した。
これらの番人の食事は、火の用心や城内に調理施設がなかったため、山城では
調理出来ず、武家奉公人の中間に弁当をもたせて登らせていた。

以上が、松山藩(板倉氏時代)での城の管理体制の一部で、「定」は板倉氏が
伊勢国亀山から入封した年に出されている。

このような管理体制が運用され、家臣が粉骨砕身、務めたおかげで失火もなく
今日まで天守が残った。松山藩の前に板倉氏が治めていた亀山でも同じ「定」
があったと思う。昨年末、その亀山城多門櫓で火災が起こったのは残念で
仕様がない。

さて、今の松山城はどうだろうか?

備中松山20121121_備中松山城二の丸にある喫煙場所
[Photo]備中松山城、二の丸休憩所にあるタバコの吸殻入れ

現在、松山城の二の丸には、タバコを吸うことが出来るように吸殻入れが
置かれている。城に興味がない人だったら、そりゃタバコを吸いたくなる
だろうし、ここまでキツい登り坂を登ってきたら一息つきたくなる気持ち
も分かる。

でも、これ矛盾してんだよね。

大手門跡から5メートル下の場所には、『禁煙』の看板がある。
最初にこの看板を見て登ってきたので、喫煙所があることに驚いた。
何のための“禁煙”という看板なのか。意味を失っている。

備中松山20121121_備中松山城禁煙の看板
[Photo]大手門跡下の『禁煙』の看板

本丸に近い二の丸でタバコが吸えて、本丸より遠い大手門跡の下で
禁煙になっているのはおかしい。単なる置き忘れか?この看板。

江戸時代、管理体制を貫徹して守ってきた城。今まで残ってきた天守が
何かのキッカケで焼失することは考えられないのだろうか?

タバコの不始末から火災へと繋がることは絶対ないと言い切れるのか。
「いやいやいや、ちゃんと火の用心していれば大丈夫でしょ。」という声が
上がるだろうけど、万が一・億が一の可能性はある。気づかないうちに服が
焦げていた、なんてことはよくある。

入城券を発券する窓口が本丸に入る所にあるけど、ここ以外に管理している
ような施設はなく、監視の目がそんなにないことから、正直火をつけようと
思えば簡単につけられると思った。

また、消防車等の緊急車両が駆けつけられるように、中太鼓櫓跡の脇には
国庫補助で作られた防災道路(管理用道路)が通っているが、本格的に出火
してしまうと、実際間に合うかどうか分からない。空中部隊も。

別にタバコを吸うのが悪いとは言っていない。

でも、別に二の丸で吸わなくてもいいと思う。分煙とかでうるさい世の中だけど、
吸うところはここ以外にいくらでもある。ふいご峠の駐車場に戻ってからでも、
麓に降りてからでもいくらでもタバコを吸って休憩することが出来る。

「灰皿を置いてあるのが悪い。」という意見もあるだろうけど、置いてあっても、
“吸わないように心がける”のが本当の“城好き”だと思う。

“城を守る”防御施設を見ていくのは楽しい。なので、どうしてもこういったこと
を考えずにいるけど、文化財として“城を守っていく”ことにも心配りすることが
大事だと思う。城に限らず、他の文化財も同じ。

“たばこ1本吸わない”努力が、城の保全に繋がる。

以上

今回はここまで。また次回。



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食べ歩記01/松江藩お抱え蕎麦屋
食べ歩記01/松江藩お抱え蕎麦屋 【松江編 #30】

松江城外郭より南側、以前勢溜の記事で書いた京橋川から南にある
大橋川の間を“末次地区”と言って、ここには商工業者が居住していた。

今も茶町・末次本町・苧町など、当時の町名が残っている。


大きな地図で見る
[Map]末次地区と白潟地区

京橋の近くには、“京店”という地名が残っているけど、これは
末次本町の別名で、京都の商品を売る関係から生まれた。
※上の地図で“+”を1クリックすると、末次本町の上に『京店』と
出てきます。


大橋川を南下すると、以前記事に書いた鉤型路が5ヵ所も集中している
寺町白潟本町がある。前述した商工地区だった末次から徐々にこの
白潟へと移り、幕末頃には末次を凌ぐものになった。

松本そば』という蕎麦屋も、幕末に白潟地区の寺町に進出してきた。

末次からの移転ではなく、郊外の楽山という場所からやってきた。
以前、水の都の記事で触れたけど、楽山は松江藩主の別荘があった場所で、
不昧公の茶会がよくここで開かれた。この楽山に推恵神社があり、その境内
に不昧公お抱えそば屋で明治まで代々藩御用の家があった。

幕末、そのそば屋の次男が寺町に出て、木村から松本に姓を変え、
そば屋を開業。それがこの『松本そば』の原点。

このお店の2代目の娘さんがご主人と、出雲そばの伝統を守っていたけど、
その夫婦も高齢となって、跡を継ぐ人もなく、平成11年に暖簾を下ろした…

今は、そのお店の暖簾を引き継いだ店を平成22年再開。
住所は白潟本町だけど、寺町の隣町で開業当時とほぼ同じ位置にある。

松江20121129_松本そば店入口02
[Photo]松本そば入口

松江の老舗蕎麦屋は閉まるのが早い。

最初、松本そばに来た時は、すでに閉まった後だった…
なので、このときはリベンジ。

アバウトな性格なので、行ったら開いてるだろー感覚。
松本そばの歴史は調べていたけど、肝心な営業時間・定休日などは
全く調べていなかった…

店内に入ると、スーツ姿が多かった。その辺のサラリーマンが来てるのかな?
観光客は自分1人のようだったので、あまり知られていないのかもしれない。
場所が場所なのと、あと平日だったことも理由かな。

やはり、この地方のそばと言えば“出雲そば”。
というわけで、『三味割子そば』を注文した。

松江20121129_松本そば店三味割子そば02
[Photo]三味割子そば

松江では、“”と呼ばれる集団によって「割子」が作られた。

写真を見て分かるように、割子そばは左に見える三段の丸い漆器に盛られた
そばに、右に見える薬味を好みの量入れて、それにそばつゆをかけて食べる。
出雲のそばつゆは濃いので、最初の器に入れたつゆを次の器にかけていく
食べ方を老舗蕎麦屋では教えてくれる。

松本そばに来る前に、『神代そば』という松江の老舗蕎麦屋に
行っていたので、その食べ方は知っていたが、ここでも丁寧に
教えてくれた。

連が作った割子は弁当箱としたのが始まりだったけど、幕末の頃には
割子そばが定着していたそうだ。今は、容器が丸いけど昔は長方形や
小判型の形がメジャーだった。

江戸時代、長方形の割子を使った「拍子木喰い」という食べ方があり、
長方形の割子を2つ両手にそれぞれ拍子木のように持って、パン!!
と打ち鳴らして、下の隅のほうを口へ近づけて、すするように食べて
いたんだとか。

(こぼしたりしなかったんだろうか。ポテチの袋を逆さにして
食べるような感覚に近い?つゆとかどうしたんだろ。)

さすがにそんな食べ方は出来なかった。
周りが引くかもしれないし…そんなことしだしたら。

11月末の松江は少し寒く、この時期に冷たい割子を食べるのは
どうかなぁ~と思ったけど、温かい蕎麦湯が体を温めてくれた。
気持ちだけ。

古来から出雲地方では、蹈鞴製鉄と共に蕎麦栽培は盛んで、松江に「蕎麦切り
が伝わったのは、松平直政が信州松本から移封された時だと言われている。
松本そばの前身、楽山の木村氏は信州でそばを学んで来ていた。

その後不昧公により、それまで庶民の食べ物と言われていた蕎麦が茶懐石の
一品として用いられ、大名貴人にまで食べられるようになった。

そばアレルギーの人にはオススメできないけど、もしアレルギーじゃなく
そばが好きな人は是非松江に行ったら、足を運んでもらいたいと思う場所
の1つ。

楽山にあった木村姓の蕎麦屋はその後どうなったんだろうか…
現在、推恵神社の横に『木村楽山園』という造園業を営む家がある。

以上

今回はここまで。また次回。



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松江城-28/整形疑惑
松江城-28/整形疑惑 【松江編 #29】

正保城絵図が描かれた時期、大名の数は230~240家あり、この内
陣屋などを除いた城の城主格は130家程度だったと言われる。

その諸大名が提出した正保城下町絵図は、紅葉山文庫に収蔵され、
同文庫の最後の蔵書目録である『増補御書籍目録』には幕末まで
131点が伝わっていたことが分かっている。

戊辰戦争時に薩長軍が奥羽の諸藩を攻撃するのにいくつか城絵図
持ち出され、今では国立公文書館に63点しか残存していない。
自分たちが提出した絵図で攻撃されて町が破壊されるだけでなく、
絵図もなくなるとは…

実は国立公文書館に引き継がれた絵図以外に、もう1つ松江城下町
正保城絵図がある。

正保期、松平家松江藩を拝領していたので、2つある正保城絵図の内、
1つは松平家家老の乙部家に「松江城正保年間絵図」が伝わり、松江に
残った。

以前、正保城絵図から建造物石垣について詳細な情報が描かれている
と書いたけど、それ以外にも絵図から面白い事が分かってくる。

現在松江に行くと、この絵図に現在の地図を重ねたものが城郭の違い等が
確認出来るように、下のような案内図が設置されている。

松江20121127_179
[Photo]松江城正保年間絵図、現在の地図を重ねている
※写真は、松江城三之門跡脇にあったものですが、カラコロ広場にも
設置されています。


城下町時代MAP○○編』の本とまではいかないけど、今自分が立っている
場所が絵図でどこの場所だというのが分かって、絵図で松江の城下町を
歩くことができる。

まぁ、今スマホとかあるから、デジタル・アーカイブを見ながら…という
手もあるが、残念ながらそれには現在の地図がトレースされていない。

正保期絵図以外の絵図も見ながら歩きたいという人には、松江城下町絵図を
まとめた絵図集が出ているのでそれをオススメしたいけど、すでに絶版に
なっていて、今入手するのは困難。
(これ、現時点Amazonで中古品が1点、定価の2倍で出品されてる…)

ちなみに、以前外郭の防衛体制で紹介した「堀尾期松江城下町図」は、東京の
古地図店のカタログに360万円で掲載されていたものを島根大学が数多所掛け
あって購入した経緯がある。詳しくはいつか別の記事で取り上げたい。

話の脱線ついでに、もう1つ余談。
島根大学附属図書館では、“マルチメディアテーブル”というシステムの画面上で
江戸初期・後期の絵図、明治後期の松江市街地図、現代の空中写真の4段階の
景観変化を確認することができる。

景観変化だけじゃなく、主要な部分に関する解説や音声付なため、学習も可能。
残念ながら見たことはないけど、こんなのをスマホのアプリとかで販売したら
一儲けできそうなんじゃないかと考えてしまった。

で、話を元に戻すと、

松江城天守が描かれた絵図として今のところ最も古いと
されているのが、この「松江城正保年間絵図」。

正保松江城絵図_天守
[Photo]松江城正保年間絵図から天守部分を抜粋(左が南面、右が東面)
※現地解説板から転用しているので、分かりづらい部分有。
今後、ちゃんとした写真が手に入れば差し替えようと思うが、今回はこれで
勘弁してほしい。今ちゃんと見たいという方は、下のデジタルアーカイブを
開いて見てください。(↓クリックすると、別ウィンドウで開きます。)

http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000268

この天守。屋根を見ると、1階の東面と2階の南面に2つの三角形(△)屋根が
並んでいる。三角形の屋根は千鳥破風と言い、さらにこのように2つ並んだ
形(△△)を比翼千鳥破風(2連千鳥破風)と呼ぶ。

ちなみに、それらの上階にも破風があり、上層1つ下層に2つある3つの千鳥破風が
組み合わせられた形を、城郭建造物意匠を専門に調査研究している阿部和彦氏が
組千鳥”と命名している。

ちょっと上の拡大写真では松江城と書かれた文字でちょうど重なって見えないけど、
東面の組千鳥の上階の屋根(松の字の上辺り)は唐破風と呼ばれるカーブを描いた
形になっている。唐の字があるけど、中国にはない日本特有の屋根形式。専門用語
で多少話が難しくなっているけど、要は全体的に装飾性が強い形式ということ。

では、現在の松江城天守がどうなっているか?を見ていくと、

松江20121202_松江城天守243
[Photo]松江城天守西面

写真を見て分かる通り、絵図とは違い、東面と西面は入母屋破風になっている。

組千鳥どころか、破風が2連している比翼千鳥破風すらない。
北面、南面にも。

昭和30年に天守は修理されているけど、組千鳥から入母屋破風へ全く
異なった形に変更したなんていうのは報告書に記載されていない。

それに今は望楼型天守なのに、絵図の天守は層塔型天守に見える。

信州松本から松江に入封した松平家は、最初松江城の建造物を調査している。
松平家の大工頭だった竹内右兵衛が『かきつけ』と呼ばれ、今でも復元史料
として用いられる本丸・二ノ丸・二ノ丸下ノ段の諸施設を書き記したものを
残している(実際は孫の竹内宇兵衛が書いたとされている)が、その右兵衛
が天守の雛形模型を造っている。それは松平家が入封時に天守の高低を
見つけ、その修築方法研究のために造られた。今では天守内に展示されて
いるけど、それを見る限り今の屋根の意匠と変わらない。

実態とかけ離れた天守が描かれた正保城絵図

原城島原の乱が起こった後、徹底的に各地の城郭を破城したりするために
幕府から巡見使が派遣され、各国を査察してまわったりするけど、なぜ違う
絵を描いちゃったのか。そいつらが来たらバレちゃうのに。
(巡見使を接待してうまくやり過ごした、なんて話も聞いたことあるけど…)

こういった絵図を描くのは藩のお抱え絵師だったりするので、もしかしたら
天守を見たことがなくて、藩士などから聞き取りしながら書いたとすれば、
実物と違ったものになった可能性はある。

ところで、描かれた天守東面は名古屋城天守の東面によく似ていると言われている。
名古屋城天守に似せて描くことで強権をふるう幕府にへつらったと憶測されているけど、
だったら江戸城天守にしたらダメだったのか、名古屋城天守を見たことがあったのか
などと色々疑問がわいてくる。

名古屋20101121_名古屋城891
[Photo]名古屋城大天守東面

で、自分が1番可能性高いとして考えているのが松本城の天守。
今、松本城を見ると破風が少なく、それは実戦を意識して作られたから
だと解釈されているけど、本当はもっとあったかもしれないということが
分かっていることも確か。

松本20130105_松本城天守群西南面160
[Photo]松本城天守群

松本城も松江城同様、昭和に大修理が行われている。
この昭和の大修理で十分な痕跡が認められかったため、復元されなかった破風がある。

それは“大天守4階北側の千鳥破風”と“大天守4階南側の比翼千鳥破風”。

前述したけど松平家は松江に来る前、松本を治めていた。
松本城の月見櫓は、3代将軍家光の立寄りに合わせて直政が築造し、
今見る連結式の天守になったのはこの時。

松江城の正保絵図を描いた人は、この松本城天守が頭にあったんじゃないだろうか。
残念ながら組破風ではないし、1階じゃなくて4階に比翼千鳥破風があることから、
絵図の屋根とは破風の位置が異なっている。

松本城の外観を今見る限り、層塔型天守で唐破風の下に千鳥破風がある。そして、
比翼千鳥破風という2連の千鳥破風があったのなら、別の天守を描いた候補に
松本城を挙げてもいんじゃないだろうか。
※松本城は、Wikiでは望楼型と書かれているが、三浦正幸氏等の建築史家からは
層塔型天守と言われている。正確には、外観は層塔型で内部は望楼型。元々は
望楼型で建てられていた天守だけど、松平直政が入封して前述した月見櫓を増築
する際に、天守を改装している。


最後に、自分たちが今目にしている松江城天守は創建当時からのものではないかも?
と言われている。それは開府以後400年間の間で改修されたことが否定できないから
だそうだ。上で書いてきた“絵図の天守が今と違う”というのも理由の1つ。

絵図に計画図があるように、模型にも計画のために造られたものがあったかもしれない。
前述した天守の雛形模型も、前の天守からこの模型のように改修するという意味で
造られていたら確かに否定できない。今見る天守の前は、組破風や唐破風など
装飾性豊かな天守だったのか?などと想像を掻き立てられる。

普段見慣れた顔が、実は昔に整形したものかもしれない。
テレビ番組でも、昔の写真を出して、整形しただろーなんて
突っ込んだりされる場面をよく見る。

あなたの側にいる人も、もしかしたら…

以上

今回はここまで。また次回。



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