#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-29/×××
松江城-29/××× 【松江編 #31】

※食事中、閲覧するにふさわしくない内容が含まれています。ご注意ください。※

江戸時代、城下町とその郊外を区別するために郊外への
出入り口には番所が置かれていた。

松江城とその城下には、全部で33箇所の番所があったと言われる。

その内の1つが、城内の二の丸にあった。

今は公衆便所として、外観だけは瓦が葺かれた城郭建築物のようで、
周囲の復元櫓の中に溶け込んでいるが、本来はここに番所があったと、
文献や絵図などから分かっている。

松江城二の丸トイレ
[Photo]松江城二の丸番所跡、現在は便所になっている

その番所跡を発掘調査した後に、便所が建てられた。

平成4年の発掘調査で絵図に記載された通りの番所だったことが
確認された以外にも面白いことが分かっている。

この番所跡の南側に、直径1.1メートル、深さ1.6メートルの丸い穴が見つかった。
発掘調査の担当者は、当初井戸跡と思っていたところ、ある時通りすがりの
観光客のおじさんから「これは最近までうちらでも使っていた“かわや”だろう。
板を2枚通せばしゃがむことができる。」と言われて、“目からウロコ”だったそうな。
この話は、『島根日日新聞』に掲載されている。

写真が手元にないので、掲載出来ないんだけど、地中に穴の大きさの風呂桶の
ようなものがあって、中に木が散乱している状態。こんな“かわや”を使っていた
んですか…。

底に堆積していた土を奈良の専門家へ送り、分析を依頼したところ、
結果、確かに糞便の堆積土と断定され、野菜の生食による虫などが
確認された。

■分析結果から想像した当時のメニュー、
梅干、味瓜、白米、麦、そば、油菜のおひたし、鯉のお刺身、
鮎の塩焼き、白魚の酢味噌和えに野菜類


意外と豪華な料理。

出来たてのウンコから、体の健康状態とかが分かるというのはよく
あるけど、100年以上も前のウンコからこんなにも色々分かるとは…。
文献史料では分からない考古学の素晴らしさを感じる。

そして、通りすがりの観光客の一言で解明されることがスゴい!!
この一言がなければ、金隠しでも出土しない限り、10年くらいはトイレと
断言しなかったんじゃないだろうか。一乗谷遺跡のように。まぁ、一乗谷の時
は今みたいに科学的な判定方法がなかったからこれだけ時間を要したんだけど…
※一乗谷のトイレは、考古学で初めて確認された事例。この数年後、トイレの
考古学の基礎が固められていくことになる。

ちなみに、ウンコから当時の様子を想像するというのは、松江城だけに
限らず、各地でも同じようにウンコから色々と推測されている。その中の
1つに首里城がある。

首里城にはトイレが見当たらないことから、トイレ事情はよく分かっていない。
最近の発掘調査で、淑順門という内郭の城門裏に円形の石組みのような遺構が
地下から見つかった。中の土のおかしさから井戸ではなくゴミ箱なんじゃ…と
考えられた。

ところが、内部の土を分析したところ、ウンコの化石が発見された。
また、解析結果では松江城と同じ寄生虫卵が見つかっている。
調べようとしたキッカケは違うものの、ほぼ松江城と同じ流れ。

首里城ではこの遺構をトイレとは断定せず、史料には「糞箱」や「小便筒」
という言葉が出てくることから、“おまる”などで排泄したものをここに
捨てていたんじゃないかと考えられている。

ウンコを運んで捨てる運(ウン)用を行っていた。

話は松江城に戻って…
何気なく使用していた便所が、実は江戸時代にも同じようにが用を
足していたので、この便所を利用することで同じ感覚を味わえる。

松江城のトイレはこの二の丸以降、本丸にはない。
(正確には、天守に便所の痕跡があったが、もう失われている。)

首里城では往時、働く役人は登城する前に、あらかじめトイレを済ませていて、
城内でトイレに行きたくなっても、なるべく我慢していたという話がある。
なので、松江城でも同じように、本丸へ登城する前には、二の丸のトイレで
済ませてから登城してみてはいかがでしょうか?

以上

今回はここまで。また次回。



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備中松山城-1/城の管理体制
備中松山城-1/城の管理体制

天守が現存する備中松山城

備中松山20121121_備中松山城天守17
[Photo]備中松山城天守

解体修理される前の古写真を見ると、それはもう廃墟同然。
松江城と同様、昭和に修理され、今では綺麗な天守になっているけど、
整備される前は見るに耐えない姿だった。

現存12天守という枠にハマったのは奇跡に近い。

天守が残った要因はいくつかの事象が重なりあったことから今に
至ると考えられるけど、今回はその要因と思う1つを紹介したい。

備中松山城は幾度となく城主が変るけど、その中で
幕末まで城主に至った板倉氏に注目する。

■松山藩、城の管理体制(板倉氏時代)

小松山城(備中松山城)は江戸時代、「山城」と呼ばれていた。
松山藩では、麓にある藩主居館・御根古屋を「」と呼び、“登城する”と
いうと、この御根古屋に出仕することを指していた。これは他の城でも見られ、
姫路城の場合は、絵図や文献史料において、三の丸御殿とその曲輪にだけ
本城」という言葉が使われている。藩士の感覚では、“城=三の丸御殿”
であったことが分かる。

平常、山城と呼ばれる小松山城には、山城番人4人が城内三の丸の足軽番所
に常駐し、城内の警備と施設の管理に当たった。

山城の大手御番所宛に出された「定」によると、

①番人は5日交替で詰切り、交替の時には諸道具を念入りに改めて引き渡すこと。
②本丸曲輸を朝夕1度ずつ見廻り、変わったことがあれば御番衆へ連絡し、
 惣御門日行司まで伝えること。
③火の元に気をつけること。


などを申渡している。
※朝夕1度ずつ見廻る本丸曲輸は山城の本丸という意昧ではなく、板倉家では
旧領の亀山城の呼び方にならって御根小屋(城主居館)を二の丸、山城(小松山城)
全体を本丸と呼んでいた。


また、山城の登城口にある坂口御門番所にも番人が常駐していた。

上の「定」と同じタイミングで、この登り口御番所(坂口御門番所)宛にも「定」が
出され、それでは、

交替の刻限の厳守、道具改め、火の用心のほか、御番衆や目付役の
発行した許可書を持っていないものは登城させてはならないこと


などを申し渡している。

さらに、城下や山城の治安維持・警備状況を視察して廻る目付役がおかれ、
山城の見廻りは遠廻りといって日を定めずに月1回行なっていた。
(日を定めてなかったっていうのは、ほぼ抜き打ちに近いのかな。
会社でも抜き打ちの2Sチェックがあるので、それに近い感じがした。)

目付役は大手門から三の丸・二の丸を見廻り、本丸東門を通って天守に
入り、三階の御社壇を開けて御神体の宝剣を確かめた後、水の手門ヘ廻って
封印改めを行ない、上番所ヘ立寄って武具改めをすましたうえ、番人に
諸注意を行なって下山した。

幕末の混乱期には山城警備が強化され、文久3年(1863年)9月からは5倍の20名が
詰切り、交替で昼夜警備にあたるほか、取次役歩目付役各1人も常駐した。
これらの番人の食事は、火の用心や城内に調理施設がなかったため、山城では
調理出来ず、武家奉公人の中間に弁当をもたせて登らせていた。

以上が、松山藩(板倉氏時代)での城の管理体制の一部で、「定」は板倉氏が
伊勢国亀山から入封した年に出されている。

このような管理体制が運用され、家臣が粉骨砕身、務めたおかげで失火もなく
今日まで天守が残った。松山藩の前に板倉氏が治めていた亀山でも同じ「定」
があったと思う。昨年末、その亀山城多門櫓で火災が起こったのは残念で
仕様がない。

さて、今の松山城はどうだろうか?

備中松山20121121_備中松山城二の丸にある喫煙場所
[Photo]備中松山城、二の丸休憩所にあるタバコの吸殻入れ

現在、松山城の二の丸には、タバコを吸うことが出来るように吸殻入れが
置かれている。城に興味がない人だったら、そりゃタバコを吸いたくなる
だろうし、ここまでキツい登り坂を登ってきたら一息つきたくなる気持ち
も分かる。

でも、これ矛盾してんだよね。

大手門跡から5メートル下の場所には、『禁煙』の看板がある。
最初にこの看板を見て登ってきたので、喫煙所があることに驚いた。
何のための“禁煙”という看板なのか。意味を失っている。

備中松山20121121_備中松山城禁煙の看板
[Photo]大手門跡下の『禁煙』の看板

本丸に近い二の丸でタバコが吸えて、本丸より遠い大手門跡の下で
禁煙になっているのはおかしい。単なる置き忘れか?この看板。

江戸時代、管理体制を貫徹して守ってきた城。今まで残ってきた天守が
何かのキッカケで焼失することは考えられないのだろうか?

タバコの不始末から火災へと繋がることは絶対ないと言い切れるのか。
「いやいやいや、ちゃんと火の用心していれば大丈夫でしょ。」という声が
上がるだろうけど、万が一・億が一の可能性はある。気づかないうちに服が
焦げていた、なんてことはよくある。

入城券を発券する窓口が本丸に入る所にあるけど、ここ以外に管理している
ような施設はなく、監視の目がそんなにないことから、正直火をつけようと
思えば簡単につけられると思った。

また、消防車等の緊急車両が駆けつけられるように、中太鼓櫓跡の脇には
国庫補助で作られた防災道路(管理用道路)が通っているが、本格的に出火
してしまうと、実際間に合うかどうか分からない。空中部隊も。

別にタバコを吸うのが悪いとは言っていない。

でも、別に二の丸で吸わなくてもいいと思う。分煙とかでうるさい世の中だけど、
吸うところはここ以外にいくらでもある。ふいご峠の駐車場に戻ってからでも、
麓に降りてからでもいくらでもタバコを吸って休憩することが出来る。

「灰皿を置いてあるのが悪い。」という意見もあるだろうけど、置いてあっても、
“吸わないように心がける”のが本当の“城好き”だと思う。

“城を守る”防御施設を見ていくのは楽しい。なので、どうしてもこういったこと
を考えずにいるけど、文化財として“城を守っていく”ことにも心配りすることが
大事だと思う。城に限らず、他の文化財も同じ。

“たばこ1本吸わない”努力が、城の保全に繋がる。

以上

今回はここまで。また次回。



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松江城-28/整形疑惑
松江城-28/整形疑惑 【松江編 #29】

正保城絵図が描かれた時期、大名の数は230~240家あり、この内
陣屋などを除いた城の城主格は130家程度だったと言われる。

その諸大名が提出した正保城下町絵図は、紅葉山文庫に収蔵され、
同文庫の最後の蔵書目録である『増補御書籍目録』には幕末まで
131点が伝わっていたことが分かっている。

戊辰戦争時に薩長軍が奥羽の諸藩を攻撃するのにいくつか城絵図
持ち出され、今では国立公文書館に63点しか残存していない。
自分たちが提出した絵図で攻撃されて町が破壊されるだけでなく、
絵図もなくなるとは…

実は国立公文書館に引き継がれた絵図以外に、もう1つ松江城下町
正保城絵図がある。

正保期、松平家松江藩を拝領していたので、2つある正保城絵図の内、
1つは松平家家老の乙部家に「松江城正保年間絵図」が伝わり、松江に
残った。

以前、正保城絵図から建造物石垣について詳細な情報が描かれている
と書いたけど、それ以外にも絵図から面白い事が分かってくる。

現在松江に行くと、この絵図に現在の地図を重ねたものが城郭の違い等が
確認出来るように、下のような案内図が設置されている。

松江20121127_179
[Photo]松江城正保年間絵図、現在の地図を重ねている
※写真は、松江城三之門跡脇にあったものですが、カラコロ広場にも
設置されています。


城下町時代MAP○○編』の本とまではいかないけど、今自分が立っている
場所が絵図でどこの場所だというのが分かって、絵図で松江の城下町を
歩くことができる。

まぁ、今スマホとかあるから、デジタル・アーカイブを見ながら…という
手もあるが、残念ながらそれには現在の地図がトレースされていない。

正保期絵図以外の絵図も見ながら歩きたいという人には、松江城下町絵図を
まとめた絵図集が出ているのでそれをオススメしたいけど、すでに絶版に
なっていて、今入手するのは困難。
(これ、現時点Amazonで中古品が1点、定価の2倍で出品されてる…)

ちなみに、以前外郭の防衛体制で紹介した「堀尾期松江城下町図」は、東京の
古地図店のカタログに360万円で掲載されていたものを島根大学が数多所掛け
あって購入した経緯がある。詳しくはいつか別の記事で取り上げたい。

話の脱線ついでに、もう1つ余談。
島根大学附属図書館では、“マルチメディアテーブル”というシステムの画面上で
江戸初期・後期の絵図、明治後期の松江市街地図、現代の空中写真の4段階の
景観変化を確認することができる。

景観変化だけじゃなく、主要な部分に関する解説や音声付なため、学習も可能。
残念ながら見たことはないけど、こんなのをスマホのアプリとかで販売したら
一儲けできそうなんじゃないかと考えてしまった。

で、話を元に戻すと、

松江城天守が描かれた絵図として今のところ最も古いと
されているのが、この「松江城正保年間絵図」。

正保松江城絵図_天守
[Photo]松江城正保年間絵図から天守部分を抜粋(左が南面、右が東面)
※現地解説板から転用しているので、分かりづらい部分有。
今後、ちゃんとした写真が手に入れば差し替えようと思うが、今回はこれで
勘弁してほしい。今ちゃんと見たいという方は、下のデジタルアーカイブを
開いて見てください。(↓クリックすると、別ウィンドウで開きます。)

http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000268

この天守。屋根を見ると、1階の東面と2階の南面に2つの三角形(△)屋根が
並んでいる。三角形の屋根は千鳥破風と言い、さらにこのように2つ並んだ
形(△△)を比翼千鳥破風(2連千鳥破風)と呼ぶ。

ちなみに、それらの上階にも破風があり、上層1つ下層に2つある3つの千鳥破風が
組み合わせられた形を、城郭建造物意匠を専門に調査研究している阿部和彦氏が
組千鳥”と命名している。

ちょっと上の拡大写真では松江城と書かれた文字でちょうど重なって見えないけど、
東面の組千鳥の上階の屋根(松の字の上辺り)は唐破風と呼ばれるカーブを描いた
形になっている。唐の字があるけど、中国にはない日本特有の屋根形式。専門用語
で多少話が難しくなっているけど、要は全体的に装飾性が強い形式ということ。

では、現在の松江城天守がどうなっているか?を見ていくと、

松江20121202_松江城天守243
[Photo]松江城天守西面

写真を見て分かる通り、絵図とは違い、東面と西面は入母屋破風になっている。

組千鳥どころか、破風が2連している比翼千鳥破風すらない。
北面、南面にも。

昭和30年に天守は修理されているけど、組千鳥から入母屋破風へ全く
異なった形に変更したなんていうのは報告書に記載されていない。

それに今は望楼型天守なのに、絵図の天守は層塔型天守に見える。

信州松本から松江に入封した松平家は、最初松江城の建造物を調査している。
松平家の大工頭だった竹内右兵衛が『かきつけ』と呼ばれ、今でも復元史料
として用いられる本丸・二ノ丸・二ノ丸下ノ段の諸施設を書き記したものを
残している(実際は孫の竹内宇兵衛が書いたとされている)が、その右兵衛
が天守の雛形模型を造っている。それは松平家が入封時に天守の高低を
見つけ、その修築方法研究のために造られた。今では天守内に展示されて
いるけど、それを見る限り今の屋根の意匠と変わらない。

実態とかけ離れた天守が描かれた正保城絵図

原城島原の乱が起こった後、徹底的に各地の城郭を破城したりするために
幕府から巡見使が派遣され、各国を査察してまわったりするけど、なぜ違う
絵を描いちゃったのか。そいつらが来たらバレちゃうのに。
(巡見使を接待してうまくやり過ごした、なんて話も聞いたことあるけど…)

こういった絵図を描くのは藩のお抱え絵師だったりするので、もしかしたら
天守を見たことがなくて、藩士などから聞き取りしながら書いたとすれば、
実物と違ったものになった可能性はある。

ところで、描かれた天守東面は名古屋城天守の東面によく似ていると言われている。
名古屋城天守に似せて描くことで強権をふるう幕府にへつらったと憶測されているけど、
だったら江戸城天守にしたらダメだったのか、名古屋城天守を見たことがあったのか
などと色々疑問がわいてくる。

名古屋20101121_名古屋城891
[Photo]名古屋城大天守東面

で、自分が1番可能性高いとして考えているのが松本城の天守。
今、松本城を見ると破風が少なく、それは実戦を意識して作られたから
だと解釈されているけど、本当はもっとあったかもしれないということが
分かっていることも確か。

松本20130105_松本城天守群西南面160
[Photo]松本城天守群

松本城も松江城同様、昭和に大修理が行われている。
この昭和の大修理で十分な痕跡が認められかったため、復元されなかった破風がある。

それは“大天守4階北側の千鳥破風”と“大天守4階南側の比翼千鳥破風”。

前述したけど松平家は松江に来る前、松本を治めていた。
松本城の月見櫓は、3代将軍家光の立寄りに合わせて直政が築造し、
今見る連結式の天守になったのはこの時。

松江城の正保絵図を描いた人は、この松本城天守が頭にあったんじゃないだろうか。
残念ながら組破風ではないし、1階じゃなくて4階に比翼千鳥破風があることから、
絵図の屋根とは破風の位置が異なっている。

松本城の外観を今見る限り、層塔型天守で唐破風の下に千鳥破風がある。そして、
比翼千鳥破風という2連の千鳥破風があったのなら、別の天守を描いた候補に
松本城を挙げてもいんじゃないだろうか。
※松本城は、Wikiでは望楼型と書かれているが、三浦正幸氏等の建築史家からは
層塔型天守と言われている。正確には、外観は層塔型で内部は望楼型。元々は
望楼型で建てられていた天守だけど、松平直政が入封して前述した月見櫓を増築
する際に、天守を改装している。


最後に、自分たちが今目にしている松江城天守は創建当時からのものではないかも?
と言われている。それは開府以後400年間の間で改修されたことが否定できないから
だそうだ。上で書いてきた“絵図の天守が今と違う”というのも理由の1つ。

絵図に計画図があるように、模型にも計画のために造られたものがあったかもしれない。
前述した天守の雛形模型も、前の天守からこの模型のように改修するという意味で
造られていたら確かに否定できない。今見る天守の前は、組破風や唐破風など
装飾性豊かな天守だったのか?などと想像を掻き立てられる。

普段見慣れた顔が、実は昔に整形したものかもしれない。
テレビ番組でも、昔の写真を出して、整形しただろーなんて
突っ込んだりされる場面をよく見る。

あなたの側にいる人も、もしかしたら…

以上

今回はここまで。また次回。



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松江城-27/本質
松江城-27/本質 【松江編 #28】

松江城が描かれた絵図は複数残されていて、今まで書いてきた記事で
いくつか紹介してきた。これらの絵図のおかげで、現在の復元や研究が
進んでいるのは城好きにとって嬉しい話。

『絵図』というのは江戸時代に作られた(古)地図のことで、
多種多様な絵図がこの時代作られた。幕府、藩庁、町人地、村などで。

その中に上で挙げた『城下町絵図』が含まれている。
城下町絵図には、大きく“公用図として描かれたもの”と
私用図として描かれた絵図”の2種類に分かれる。

公用図には、“幕府へ献上する用”と“藩庁用”にまた分かれる。
前者は、これまでに記述した石垣などの修復願い時に添付する絵図や
他には正保期に幕府が提出させた絵図などが挙げられ、後者は築城
際しての計画図・記録図作戦図屋敷割図都市改造計画用図
などがある。

築城の際の計画図や記録図、作戦用図が描かれるのは稀だと言われている。
もしかしたら見つかってない・公表されてないだけかもしれないけど、秘密裏に
事を進めるために作らなかったのかもしれない。

私用図は、まぁコピーの類い。
自分たちが図書館で市史や貸出禁止のものをコピーするように、
武士の間や町人の間でコピーされたもの。

松江藩では、開祖の堀尾氏から京極氏、幕末まで続く松平氏へと3家の
領主交替があるけど、こういった領主の交替の時は、城内に置かれた武具・
年貢
だけでなく、城の請取時に国絵図や郷町などの行政資料が引き継がれる。

現在、国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることが出来る正保城絵図は、
正保年間(1644~48)の国絵図作成にあわせて、諸藩に命じて作成させ徴収
した「城絵図」。この絵図の特徴として、城門などの防御施設、石垣(高さ)、
(幅や水深)などの軍事情報を細かく描かせており、城下町の様子・山や川の
配置なども描かれている。

正保松江城絵図_詳細
[Photo]松江城正保年間絵図から馬溜南部分抜粋、詳細情報が描かれている

松江で販売されている書籍では、堀の水深や幅などの軍事機密を正保城絵図
などに細かく記載した理由を幕府の権力に怯えて描かざるを得なかったと紹介
している。

だけど、武家諸法度による城郭修理の幕府許可制、幕府による転封・改易・断絶
による領主交替、城請取時に幕府の上使が派遣されるなど、これらのことから城郭は
藩主の私用物ではなく、幕府の管理するものであったと言われている。
この解釈を知ったときは、頭を金槌で打たれたような感覚に襲われた。
(言い過ぎか…)

諸藩は地方行政に過ぎないというと言い過ぎかもしれないけど、城の修復を
勝手に行うとお家取り潰し・城郭の修復は控えられることになったと、幕府の
強権性がよく取り上げられる。でも、それは武家諸法度発布後も各城郭で
修復が行われている事例があることからも、許可さえ取れれば修復可能
だったので、幕府怖さに修復を遠慮したと誇張するのは時代遅れな気が
している。

前置き?が長くなったけど、松江城下町絵図も各藩主時代のものがあり
研究が進んでいる。

松江に『雑賀町』という町がある。
これは江戸時代からある町で、名前からピンと来るかもしれないが、
雑賀衆(鉄砲足軽)という松江藩の下級家臣が団地のように
家族住まいで暮らしていた町。

堀尾期、京極期にはまだこの町は整備されておらず、松平氏の
治世になってから配置されたと最近の研究で示されている。

松平期の松江城下町絵図と整合する碁盤目状の町割りが今も残っている。


大きな地図で見る
[Map]松江市雑賀町、碁盤の目がよく分かる

松江は水の都として、今も昔も堀川が生活に密着していた。
松平氏の時代、この堀川を維持するために、主に雑賀町に住む御小人
呼ばれる末端の家臣が毎年5月中旬~8月始めに、堀底の「泥さらえ」など
掃除を行っていた。

泥さらえ以外にも、石垣がない堀の土手の「藪」を結び直したり、
土手筋の竹を伐採せずに留めておくなど、水際の土手の保全も
努めていた。これは外郭の防衛体制で書いた“藪の丁”という
場所辺りのことかもしれない。

自分が社会人になって、今でも思い出す言葉に「人がやりたがらない
仕事にこそ、その会社の本質がある。」というのがある。

実際、自分がこの雑賀町の人たちの仕事を同じように「やれ!」と
命令されたら正直やりたくないというのが本音。だって、5月中旬~
8月始めって一番水が汚くなる時期じゃん。そんな時期に堀掃除って…
だからと言って寒い時期にやるとなると水が冷たいし…

でも、誰かやらなければ堀川に堆積物が溜まってしまい舟の運行に
支障をきたし、また防御機能も弱まってしまう。雑賀町の人たちの
仕事は、まさに城の本質・水運の本質と言える。

京極期・松平期の絵図には幕府に提出されたもの以外でも細かい情報が
描かれている。それは以前外郭の防衛体制で四十間堀川の幅が京極期と
松平期で違っていたと書いた。もしかしたら、それらは城郭の維持管理で
描いていたかもしれない。そこに書かれている幅や水深を維持するよう
堀掃除し、藩に設置されていた城代組が見て回っていたんじゃないか?
と自分は考えてしまった。
※松江藩の家臣団構成の中に“城代組”という城内に居住し、樹木の
手入れ、掃除などの役目を勤め、小人(人夫)を使用する組があると
島根県史にある。


そんな雑賀町から維新後、若槻礼次郎岸清一が世に出た。
若槻礼次郎は首相になり、岸清一は政治家で、また日本スポーツ界の発展に
尽くした人物で、今では松江城三の丸(元藩庁があった場所)跡地にある
島根県庁に銅像が建立されている。

堀掃除とは直接関係ないだろうけど、雑賀町から輩出されたところが
何か思わせる。パナソニックの松下幸之助が研修でトイレ掃除を
させていたのも今では納得できる。

以上

今回はここまで。また次回。



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浜松城-1/歴史学の趨勢
浜松城-1/歴史学の趨勢

人生で嫌なことなんていくらでもある。
440年前の今日、徳川家康も嫌な思いをした。

浜松で。

今、浜松駅に降り立つと『出世大名家康くん』がロータリーで
出迎えてくれる。昨年?だったかな、浜松のゆるキャラとして
誕生した。

そして、浜松城と言えば『出世城』として売り出し中。
天下統一した家康公にあやかって…というのもあるが、江戸時代浜松城
から老中大坂城代など幕府の要職に就くものが多く出たことにも由来する。
水野忠邦なんか自ら進んで浜松城主になったと言われる。

そんな浜松城のHPをググると、『徳川300年の歴史を刻む出世城。浜松城』が
まず目に飛び込んでくる。歴史のページには、ほとんど家康の事ばかり書かれ、
他の城主については、最後に年表で紹介されるくらい。

まぁどこぞの城サイトよりはマシだろう。どんな事情があるか知らないが、
そのサイトでは城主1家しか書かれていない。年表からも築城者などは
全て省かれている。これでは、Wikiを読むほうが勉強になる。

話が逸れたが、とにかく浜松城は“家康色”が強い。

でも昨年面白い企画展が行われた。
浜松市博物館で10/20~11/25の間、『浜松城主 堀尾吉晴』という
特別展が開催された。実はこれに行ってきたわけではないのだが、
松江で堀尾氏菩提寺の圓成寺に行った時、ポスターが貼ってあって、
それで知った。

さて、浜松城に初めて天守を建てたのは誰か?

家康だと思う人がいるかもしれないが、答えは「堀尾吉晴」。
今、歴史学の趨勢では、この堀尾吉晴が浜松城に石垣を築き、
天守を建てたことになっている。

書籍によっては、石垣の増築と表現されているが、近年進められている発掘調査で、
吉晴が本丸と周辺の石垣を築いたことが決定的になった。現地ではまだ「これは、
四百年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。(以下、略)」と案内板が
置かれている。

これが「堀尾吉晴」となるのはそう遠くないと思うけど、
家康推しの今の浜松城では何だか想像し難い。

IMG_4811.jpg
[Photo]浜松城模擬天守のライトアップ

松江城の石垣同様、浜松城の天守台も後年の積み直しがかなりされている。
現在見る天守台石垣は約5メートルだけど、堀尾期にはこれよりも低く、約3
メートルと推測されている。

ここ数年、「天守門跡」「富士見櫓跡」等の発掘調査が行われた。
天守門跡の発掘調査では、石垣の上から礎石が出てきたことから
二階建ての構造、つまり櫓門であることが分かった。ここで出てきた瓦
には堀尾期のものと思われる軒平瓦が出てきたので、堀尾氏時代まで
遡ることが出来る。

そして、昨年の調査では雨落溝と排水溝の接続部分の解明が行われた。
そう、これは今日松江城の記事にも書いた排水溝。

この雨落溝というのは、復元時に大変貴重なデータになる。

もし、消失した門を復元しようと思った時、指図などに正確な寸法が示されて
いないとき、礎石と雨落溝の位置関係から門の軒の長さが推定される。現在、
浜松城ではこのような発掘調査の成果や現存資料を基にして、先日家相学の
記事で紹介した三浦正幸先生の検証及び復元図から、天守門の復元が去年
10月から約2ヵ年計画で進められている


明治初年に撮影された天守門は、櫓門形式ではない普通の城門に見えるんだけど、
今回復元されるものは、それ以前に建てられていたものってことになりそう。

吉晴が築いた松江城、その原点を見ることが出来る浜松城。
松江城同様に、天守台には穴蔵があり井戸があったことが分かっている。
この井戸は復興天守が建てられた今も、地下で見ることが出来、松江城
との共通性を確認できる。

浜松城の前に支配していた居城は佐和山城で、ここも別の武将
イメージがあまりにも強すぎる。

安土城築城に携わった堀尾吉晴が、石垣・礎石建築物・瓦の
築城技術三点セット
を最初に導入したのはどこだったのか。

浜松城より前の佐和山城だったかもしれない。
佐和山城の本格的な発掘調査は行われていないので、
今後の調査研究に期待したい。

以上

今回はここまで。また次回。



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