#oshiro/城郭記
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#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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三川港・丸山古墳跡
#36 三川港・丸山古墳跡 【小谷編】

世々開長者の井戸跡?から田川沿いに東へと進んでいくと、
虎御前山城への登り口が見えてくる。

そこはまだまだ後回しにし、とりあえず虎姫時遊館へ向かう。

途中、田川の上に架かる橋を渡ることになるが、『小谷城と城下をゆく』を
見る限り、この辺は港跡と呼ばれていた場所に当たるんだけどなぁ~なんて
考えながら、何か現説みたいなものないかなぁ~と物色していたら、橋の
近くで見つけることが出来た。

IMG_0677_20120413203017.jpg
▲田川近くにある三川港解説碑

>三川港について
>かつて田川は、屈曲の多い河川であったため、水の流れが大変緩やかで
>舟の運行には好都合でした。交通運輸の便がまだ発達せず、人馬に頼る
>しかなかった時代、ここ田川は浅井郡の人々にとって重要な交通機関と
>なっていました。口伝によると、江戸時代、各藩の村々から集まった年貢米
>や諸物資が三川港から積み出され、姉川を経て、南浜(現びわ町)で大船
>に積み替えられて大津まで運ばれたといいます。三川港は貨客の集散地
>として賑わい、舟の出入りも盛んだったようです。しかし、後世の田川改修
>工事や鉄道の発達により、田川は交通手段としての役割を終え、今はその
>面影を知ることはできません。

そうそう前回まで出てきた虎御前伝説などの川や湖がある場所での蛇や龍
などの伝説は、こういった“屈曲(蛇行)”してた河川が“蛇”のように見えると
ことからもきていたんじゃないかっていう人の意見を聞いて、ほぉ~なるほど
と思ったことがある。

まぁ知ってると思うけど、河川は昔から重要視されてたんだよね。
滋賀の近江八幡城、よく観光ガイドで目にするあの八幡堀と商家のセット。
あれに写る八幡堀と呼ばれる水堀は防御の役目も果たしたが、大きな効果を
果たしたのが水運としての役目。琵琶湖を往来する商船を寄航させるために
設けられ、城下町が栄えていった。

また、秀吉が建てた伏見城も城の近くまで商船が来れる様に水を引き入れ、
伏見港を開くなど、水路交通の要衝となった。江戸時代は大坂とつながる水運
の都として栄えてくんだけど、司馬先生の「竜馬が行く」では剣術修行で土佐を
出た龍馬が大坂まで行き、そこから三十石船を利用して伏見まで移動している
ことが描かれており、フィクションものとは言えども、水運の栄えているぶりを
想像するのに役立つ。

今いる虎姫(小谷)もこの田川を利用して水運が発達していたのは
容易に想像が出来る。

実際、小谷城に詰めていた浅井氏のこういった琵琶湖や河川の水運で
利益を得ていたという話を目にしたことがある。

世々開長者はこの港で舟問屋を営んでいたとの伝説もあるらしいので、
やはりここもその時代、積荷の上げ下ろしで賑わってたんだろうなぁ~
なんて想像してみた。

渡川すると、姉川地区と餅の井地区が合同で建立したと思われる碑がある。
特にこれと言って、「へぇ~」と思うようなことは書かれていなかった。
(餅の井っていうのは、前回記事に書いた井口氏・世々開長者ゆかりの地
で後述予定のため、ここでは省略)

その脇にポコンと小さな丘があった。

IMG_0682.jpg

これが何かを見てビックリ!!
これ古墳だ、と?超ちっちゃいじゃん!!

これまで古墳を…少ししか見たことがないな。
最近で覚えてるとしたら、今年2012年秋に映画公開される『のぼうの城』。
あれの舞台である埼玉県行田市の忍城、そこを攻める際に、石田三成公が
陣を敷いたあの丸墓山古墳。あそこは2010年に行ったことあるけど、あそこに
比べたら全然小さい。何100分の1だよ!!って、突っ込みたくなってくる。

見た目の感想だけが、先行してしまったけど、
自分が立つ道路側に、この古墳に関する解説があった。

>丸山古墳跡
>丸山古墳は虎御前山の最南端に位する独立丘陵通称丸山の頂上に
>古墳時代初期(約1600年)前に築造された日本最古の古墳であり、
>墳形は円墳といわれるものである。内部は粘土槨と思われ、木棺
>の周りを粘土と朱で固めたものと推定されている。多数の土器片と
>ともに発掘された青銅製の唐草紋縁細線式獸帯鏡は日本最初の
>発掘物であり、国の重要文化財に匹敵するものである。
>想うに、こゝに先人が住して以来幾星霜時移り世変り、この地も
>時代とともに農業構造改造事業により変貌しようとする時先人の
>生活を偲び元の地に古墳の形を造り、聊か碑を建て末永く後世に
>これを伝えんとするものである。

日本最古の古墳がこんなところにあんの?
ウソでしょ。古墳に詳しくないから分からないけど、
古墳ってもしや築造年代がはっきりとしていないのかな。
だから古いタイプは最古とかうたっちゃうんだろうか…

国の重要文化財なんだぁ~って読み進めようとしたら
「匹敵するものである」なんて書かれてるし。

紛らわしい。

これはこの地に残っていたわけではなく、碑にもあるように“跡”なんだな。
てことは、この大きさではなかったかもしれないのか。

よくよく考えてみたら、滋賀県ってやたら古墳が多い気がする。
以前にも祠が多いっていうような内容を書いて、さらには今回古墳の話。
ちなみにこの後に行く虎御前山城は古墳を利用して築城されている。
いや、利用という言葉が正しいかどうか分からないけど。

こーゆー平地にあるケースは滋賀では今回が初めてだったけど、
小谷城がある小谷山に古墳群があったり、志賀の陣朝倉方が陣を敷いた
壺阪山城は縄張からも古墳を利用したのがモロに分かる様相。
山本山城にも古墳がある。山本山城から賤ヶ岳までの間の尾根上には
古墳群があって、近年まではそこが滋賀県で多く密集した古墳群だった
なんていうことが有名だったらしいけど、今はね別の場所…ゴニョゴニョ
これについても後述予定。

てなわけで、“滋賀県の城跡歩けば古墳に当たる”ってゆーくらい
古墳多いから、是非気にしながら歩いてみては?なんてこと思う。

あぁ、古墳を利用した有名なお城忘れてた。
あの大坂城も古墳が元になってるって言うしね。
古墳を利用して城を築くのは常套だったのかも。
もしくは建てようとするところに古墳ありってことなのかな。

そーこーするうちに、ようやく本来の目的地・虎姫時遊館にたどり着く。



To Be Continued...



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大木本神社・世々開長者
#35 大木本神社・世々開長者 【小谷編】

虎姫駅から北東へと歩を進めると、何か神社が見えてきた。

この日は虎御前山城、その他浅井氏支城以外はほぼノープランだったので、
道中にある寺社仏閣には寄るかどうか悩んだが見過ごすのも何か嫌な感じが
したので立ち寄ることに。

ふと、ここどこだろうと思って、虎姫駅前にあった案内図を撮った写真を
見てみたが、これらしきものは載っていない。

IMG_0655.jpg

大木本神社」とある。
特に現説というか解説の類いは見つけられなかったので、
そのまま参道を奥へ歩いていった。

IMG_0657.jpg

こちらが拝殿かな?と思いながら、一応参拝しておいた。
よく東照宮などに行くと石燈籠に奉納した武将などが名前を入れているけど
ここの燈籠にそれらしい名前などはなかった。(ちなみにこの後小谷編で出て
くる寺・神社には脇坂片桐など元浅井氏家臣だった人たちの遠戚っぽい人
たちの名前が現れてくるが、まだまだ先のこと。後述予定)

奥へ廻ってみると、この拝殿につながって本殿が見えてくる。

IMG_0658.jpg

予想外だったんだけど、規模が大きい。
鳥居前の石碑には“村社”と書かれていたんだけどな。

後日ネットで検索して知るんだけど、この神社・大木本神社所蔵で浅井久政
奉納した鰐口<わにぐち>があるらしい。小谷城北にある和泉神社に浅井氏が
奉納した鰐口があるのは知っていた。ここについては後述予定だが、そこに奉納
された鰐口がここにもあるということはこの神社、浅井氏にはかなり手厚く保護
されていたんじゃなかろうか。

見学終了後、目的地へと進んでいく。

そこから、てくてく歩くこと10~15分。
川が見えてくる。

IMG_0659.jpg

田川”という川で、虎御前山の東から南を流れている。
現在いる場所は虎御前山の南に位置する場所で、虎御前山には小谷城攻めの時、
信長が築いた虎御前山城が今も遺構を残しており、ここからさらに南下していくと、
元亀元年、信長・家康連合軍と朝倉・浅井連合軍が戦闘を繰り広げた姉川がある。
また、琵琶湖東を走る北陸本線に沿って、大きい高時川が南北に流れている。

姉川・高時川・田川と河川が多いこの地は、前回の記事・虎姫で書いたように
虎御前伝説のような大蛇に関する昔話や言い伝えが数多く残っているらしい。

蛇と聞くとマイナスイメージ(真夏の山城の天敵)があるけど、一方池や沼などの
水辺に生息することから、水の精霊・水界からの使者とされ、川や湖などの水の
守る神として古来から尊ばれている。大きな川や湖、池がある地域では蛇や龍に
関する伝説が多いんだとか。

出雲大社なんかがそうかな。行ったことないけど、あそこも蛇や龍を信仰している。
近くには、宍道湖や日本海が近いっていうのが理由の1つなのかな。

で、話逸れたけど、この川を渡ると、虎姫1つ目の史跡がお出迎えしてくれる。
と言っても、石碑onlyだけどね。

IMG_0663.jpg

この写真サイズだと何て書いてあるか分からないかな。
えぇ~っと、石碑には“世々開長者疏水偉功碑”と書いてある。
あれ?世々開長者って聞いたことが…と思った人、そう前回の虎姫の記事で
出てきた虎御前の旦那さん。

えっ?じゃあ実在の人物?と思うかもしれないけど、まだ実在の人物かどうかは
分かっていない。じゃあ、この人何した人なの?と思うよね。

これも伝説なんだけど「世々開長者伝説」っていうのが、この地には残されている。
虎御前伝説が伝わるこの虎姫町中野(今いる場所)は、虎御前山の麓に位置し、
古くは水の便が悪く、大変悩まされたらしい。これを憂いた世々開長者は、
自らの資金を提供して灌漑のための水路を掘削し、前述した高時川から水を
引くという大事業を行った人だと知られている。

この時、高時川を支配していたのが井口越前守弾正で、
浅井氏と婚姻関係を結んでいる浅井氏家臣。詳しくは、
この井口氏館跡の記事で書くので、ここでは省く。

世々開長者はこの井口氏に綾・錦・絹をそれぞれ千駄ずつ贈って
水利権を獲得したと伝わっているらしい。“千駄”とは、牛や馬1000頭分
の量で、もはや伝説の域…でも、それだけ莫大な資材を投じたことが伺える
話だと地元では親しまれている。

ちなみにこの碑がある横にはお寺(専宗寺)があったけど、そこの見学はしなかった。
脇には中野区の住宅案内図があって、世帯主の名前が書かれているんだけど、こういうの
書いていて大丈夫なのかな。郵便配達には便利だろうけど、防犯にはねぇ…

これで見るものもないかなぁ~って思い、虎姫時遊館へ向かって行くと、
たまたま民家の庭先に目がいった。何故だかは分からないが、ただならぬ
ものを感じた。

IMG_0667.jpg

行ってみれば、石積みで囲われたただの井戸。
特に水も溜まっておらず、静岡の諏訪原城にあったカンカン井戸
思わせる。と言っても、深さはあっちのほうが全然深いけど。

写真の上あたりに石碑がちょこんとあるの見えるよね?
拡大してみると、

IMG_0668_20120411214033.jpg

文字全ては読めないが、○×△開長□※渇水☆と読めなくもない。

ということは、これも世々開長者絡みの史跡の1つとでも
思っていいのだろうか…

ただならぬものと言う割には、こんな井戸でゴメンナサイ。
もしかして虎御前が身を投げた女性ヶ淵っていうのはここ?

なわけないか。



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虎姫
#34 虎姫 【小谷編】

2012/3/8―

虎御前山城へ行くのに、休日の晴れた日で考えていたが、
平日に行かなけらばならない理由を見つけたので、急遽
平日へ行くことに。(理由は後述予定)

青春18切符の期間ということもあり、鈍行にて名古屋から虎姫へと乗り継いでいく。
ちょうど岐阜を過ぎ、関ヶ原に近づいた時、事件は起こった。そう腹痛。
昔からよく腹痛を起こし、トイレへ駆け込むことが多いが、まさかのまさかで
関ヶ原途中下車。

合戦には間に合った。もう少し遅ければ今日の遠征がおじゃんに
なるところで、東照公のように手遅れになることは防げた。
まぁ冷汗はかいたが無事勝ちを得ると、次の電車まで待ち時間が少し
あったので、外に出てみた。

駅を出ると、関ヶ原合戦の陣所跡の案内図があり、それを見て
駅からほど近い井伊直政陣所跡・東首塚を廻り駅へと戻っていった。
話が脱線するわけではなく、本当に脱線してしまった。

で、目的地の虎姫駅に着くと、駅構内をウロつき何かないか物色した。
すると、駅によくあるチラシの中に虎御前山城に関する資料が
2種類あったので、頂戴していった。(2種類あると言っても、
書かれている内容は同じ。紙の色とサイズが異なる。小さい方は
縮小に失敗したのか、パワポで作られたもののせいか文字が全部
入りきっていない。)

その脇には虎御前山城の鳥瞰図があり、信長を始めとする各武将の陣地が
表記されていて、これを見てそのまま登山することも可能だが、自分はこれだけ
では物足りず、虎姫時遊館へ向かうことにした。

鳥瞰図の上には、

P1050407.jpg

これがある。えぇ~と、『虎』つながりでタイガース?
それとも駅長が好きとか?ここ虎姫は滋賀にあるので、一応近畿。
だから、この辺も野球は阪神ファンが多いんだろうか…
いや甲子園へとあるから、この辺の高校球児のためのものかな?

よく分からないまま駅を出ると、周辺案内図がある。
その場所に大きな看板があり、何やらこの地の名物的なものが
あるらしい。

P1050415.jpg

近づいてみると、“おみくじの元祖 元三大師<がんざんだいし>良源御誕生の地
と書かれている。その下には、これについての詳しい説明が書かれていた。

>良源<りょうげん>【延喜12年(912)~永観3年(985)】
>近江国浅井郡三川村(現滋賀県長浜市三川町)に生まれる。母が土地の
>名刹・大吉寺(現長浜市)の観音菩薩に祈願して授かったことから幼名を
>“観音丸"と名付けられた。父母については、諸説あり。12歳で比叡山に
>のぼり、17歳で受戒。藤原氏の庇護を受け、荒廃していた延暦寺の再建に
>努めた。康保3年(966)、第18第天台座主に就任。天台教学の振興、諸堂の
>復興、延暦寺の諸制度を改革するなど、比叡山を学問的にも教団的にも
>かつてないほどに発展させたことから「比叡山中興の祖」と敬われ、奈良
>時代も高僧・行基以来はじめて、「大僧正」の位が与えられた。
>永観3年(985)74歳で没。没後、朝廷から「慈恵」の諡名を受ける、また
>正月3日に亡くなったことから、広く「元三大師」の名で親しまれる。
>「おみくじの元祖」として知られ、今も日本各地で「元三大師みくじ」
>をひくことができる。

ふむ。

「おみくじ」なんて滅多にやらないからなぁ~
「元三大師みくじ」っていうのが、多いのかどうかが全く分からない。
へぇ~そうなんだって思うくらい。

でも、「慈恵大師」の名をもらうっていうのがスゴいってことは分かる。
大師号つって、徳の高い高僧に天皇から贈られる名で、メチャメチャ栄誉
あるものなんだよね。ちなみに昨年2011年が800年大遠忌だった法然上人
この大師号を今までに8つ贈られている。(50年に1度加諡されている)

ちなみにこの良源という人。元三大師でピンと来なかったけど、
厄除け大師”とも言われると聞いて、あぁ~と思った。

よく年末年始に川崎大師のCMがテレビで流れる。あれでは
厄除け大師・川崎大師で初詣をしませんかぁ~みたいな文句が流れる。
だから聞いたことあるっちゃーあるんだけど、川崎大師の厄除け大師は、
“良源”を指さない。大師は大師でも弘法大師を指す。
う~ん、仏の世界は複雑…

現説の脇には、おみくじの解説があり、よくある振ったら
大吉とか凶が出てくるタイプが描かれている。

なんか色々と決まりがあるんだねぇ~
箱の書付は、「大慈大悲観世音菩薩」あるいは「元三大師」と書くべし
なんて命令形になってるし、みくじには100本、第1から第100まで書付るなり
なんて書かれている。というか、みくじ100本も入ってるの?というのが疑問
だったけど…

案内図に従って、先に進みたかったけど、この周辺には面白いものがあって
中々離れられない。普通の人なら、さっさと行っちゃうんだろうけど。

おみくじ元祖の人生誕地だけあって、そういった類のオブジェ?的なものが
多い。“勝利の女神 虎姫"なんて書かれた顔を出す置物や、名水“虎の力水"
などがある。

P1050420.jpg

そのまんまやん。この2人は何が違うのよ。
大吉はおみくじからきたんやね。では、虎吉は…
あ、そうかこの子。生粋の阪神ファンなんだ。だから虎吉なんだ。
うまい事しよる。やっぱりこの辺は野球では阪神の応援をしている
人が多いんかなぁ~だとしたら敵なんだけど。
(自分、巨人ファンなもんで。)

ここから左に行けば、虎御前山城や虎姫時遊館の方向へ行くのだが、
ふと逆方向(右)見ると、像が立っており何かなぁ~って覗いてみたら
虎姫の由来に関するものだった。

IMG_0653_20120411190124.jpg

>虎姫の由来
>むかし、長尾山のふもと、桃酢谷の井筒という泉のほとりに虎御前という
>美女が住んでいました。ある日、道に迷って助けられたのが縁で、土地の
>水利に力を尽くした長者世々開と一緒に暮らすようになりました。やがて
>15人の子どもをもうけますが、生まれてきたのは顔以外がすべてウロコに
>おおわれた子蛇でした。虎御前は嘆き悲しみ女性ヶ淵に身を投げてしまい
>ます。その後、子どもたちは立派に育ち成人する頃には人間と同じ容姿に
>なり近辺の村を治めることになるのです。このころから長尾山を虎御前姫
>にちなんで虎御前山と呼ぶようになり、町の名「虎姫」もこれを由来して
>います。

なんだか切ない内容だった…
御前は女性を指してたんだね。常盤御前巴御前と同じだ。

この話は『近江輿地志略』に書かれた昔話の1つで、「虎御前伝説」と呼ばれている。
日本昔話大成』には、人間と人間以外の動物・精霊・妖怪などと結婚生活を送る
パターンの話が多く見られ、それらを総称して「異類婚姻譚」と呼ぶが、この伝説も
虎御前が人間ではなく蛇の化身であったことをイメージさせるという異類婚姻譚の
1つと考えられるんだとか。(この話まだまだ続きます。)

で、行軍開始っ!!なわけだけど、

IMG_0654.jpg

今回は、マンホールでお別れ。

この町の鳥・セキレイと花・スイセンなんだってさぁ~

あ、さっきの虎御前の笛にとまってた鳥、あれセキレイだったんかな…



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小谷城和りんご
#04 小谷城和りんご 【小谷編】

―前回まであらすじ―
河毛駅からレンタサイクルで小谷寺、片桐且元出生地まで巡った。[あらすじ終了]

片桐且元出生地から自転車で小谷城方面へと走る。
小谷城攻めしようと思い、自転車を置きに「ふるさと館」へと向かう。

ふるさと館へ行く途中、また石碑があった。

IMG_0577.jpg

血原跡
持ってきていた城下町図には確かに、この付近は血原と書かれているが、
特に由来や、何があった場所かまでは調べられていなかった。
石碑があるくらいだから、何かしら由緒ある場所なのかもしれないが、石碑以外の
現説板等がなかったので、詳しくは分からない。
(姉川古戦場跡にも血原跡・血川跡とあるが、それとは別物)

道を進むと、ふるさと館の入り口にたどり着く。
ちょうど湖国バスが着いたところで、大勢の観光客が下車してきた。
タイミング悪いなぁ~と思って、自転車を置きに入場する。

IMG_0592.jpg
▲ふるさと館入場ゲート

冠木門風に作られてる。ここを入って、すぐ左側が
自転車やバイクなどが停められる場所だったので、停めて
ふるさと館の敷地をブラブラした。

IMG_0590.jpg

うへぇ~
小谷城まで行くバスには長蛇の列が…
番所跡までは、このバスで行くことは分かっていたけど、混んでいるし、
元から徒歩で登城する予定だったから通り過ぎた。

甲冑体験コーナーもあったんだけど、甲冑よりも、
その受付の下にあった小谷城図と周辺の史跡の地図に目を奪われた。
浅井家発祥地の他に大嶽城跡奥の焼尾丸跡までの行き方は
貴重だなぁ~と思って、写真を撮っておいた。

トイレに立ち寄ろうとするんだけど、メチャクチャ混んでいて、
外の仮設トイレで済ました。

お土産屋もあったが、中には入らなかった。
その建物には“三つ盛亀甲”がデカデカとあしらわれている。
足軽体験用ということで小谷城と家紋が書かれた笠があったが、かぶりはしなかった。

それよりも壁に貼られていたものに興味が湧いた。

IMG_0594.jpg

何?浅井長政と和りんごって?

読んでみると、
>小谷城三代城主・浅井長政がまだ「賢政」と名乗っていた少年の頃
>領内の寺院、三珠院からりんごがとどけられました
>長政はたいそう喜び寺院宛に礼状を送っています
>この時代のりんごとは一体どのようなものだったのでしょうか
と書かれている。

脇には上記文章に出てくる礼状・浅井長政文書が掲示されている。

>林檎一籠被懸御
>意候、祝着之至候、誠
>被寄思食、御懇儀難
>申尽候、猶以賞翫申
>事候、委曲北庄源七郎、
>可申入候、恐惶謹言

>六月十九日 賢政(花押)

>三珠院御同宿中
>     浅井新九郎

家臣の北庄源七郎を使わして述べていると解説してある。
日付(ここでは年号のことを言っている)がありませんが、「賢政」とあることから、
「長政」と改名した永禄四年(1561)以前のものであるとわかるとも記載されていた。

六角義賢が一字“賢”を与えて、長政に「賢政(かたまさ)」と名乗らせていた時代か…

浅井長政は、元服前は新九郎と称していて、元服した永禄二年(1559)正月に六角氏から一字を
得ていた。ということは、この書状も永禄二年(1559)~永禄三年(1560)ぐらいのものって範囲が
せばめられるんではないだろうか。

ちなみに、『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』という本の後ろには、
浅井氏三代の花押一覧が掲載されている。長政の項目では、8個の花押があり、その中で
一番古い永禄三年(1560)のものは、「賢政」とあるが、それ以外の7個は永禄四年(1561)以降のもので、
全て花押が「長政」となっている。

だから、改名のタイミングが永禄四年(1561)と考えられているのだろうか......

「賢政」から「長政」への改名が、六角氏への宣戦布告といくつかの書籍には解説されている。
“賢”を下賜された際に、六角氏の家臣・平井定武の娘を妻に迎えている。
まぁ、迎えたというよりは、与えられたor婚儀を結ばされたという一方的な話。
(六角氏と戦い続けた初代・亮政に対して、二代・久政は六角氏と主従関係になり、
領内政治に力を注ごうとしたという背景がある。)

その、平井定武の娘を早々に離縁し、送り返すことになるのだが、これが永禄二年四月。
ということは、実際元服時(婚儀を結んだ)から四ヵ月くらいしか夫婦生活を送っていないことになる。

この後、六角氏と野良田で戦い、長政は勝利を収めている。(野良田合戦)
改名するまでの約二年、六角氏に対して、こうした態度を取ったことから宣戦布告として
扱われているのだろうか。

また、この改名が信長の一字「長」と解すことが出来るとも考えられているらしい。
(何を今更、と思う人多いと思うけど、自分は調べていて初めて知った)
さらにはこの時、信長の妹・お市の方を妻に迎えている。
以上により、浅井と織田の同盟が成ったとされているが、この同盟にも諸説あるらしく、
これより後とも考えられている。

下には、三珠院の解説もある。
>三珠院は伊香郡木之本町古橋村(現長浜市木之本町古橋)にあった天台宗法華寺十坊の一つで、
>石田三成が幼少期を過ごしたとも言われる場所です。長政の父である久政が永禄三年(1560)に
>三珠院の僧が雨乞いを行う際に人足を徴発していることから、浅井家と縁がある寺院で
>あったことがわかります。

石田三成好きなら、ゆかりの地を一つ発見と喜ぶんだろうけど、自分は三成好きではないので、
そこには感動せず、浅井家ゆかりの寺を一つ知ったのが思わぬ収穫になった。

さらに解説には、和りんごに触れられていく。

>●ゼロからのスタート
>接木をしている様子。小谷城下に現存している和りんごはなく、近隣で和りんご栽培を
>行なっている彦根市や旧山東町(現米原市)の農場の協力・指導のもと、ほとんどゼロからの
>スタートでした。

>●可憐な白い花
>開花時期は毎年5月頃。白く可憐な花が咲きます。現在は小谷城登山口などに
>苗が植えられており、この時期になると小谷城下は和りんごの花の華やかな
>雰囲気に包まれます。

>●復活した小谷城和りんご
>平成19年、有志によって「小谷城和りんごを復活する会」が発足し、
>現在残る品種を接木するなどして小谷城和りんごの復活が図られました。
>毎年7月頃になると可愛らしい和りんごの実がたわわに実ります。
>美の大きさはピンポン玉くらい。樹木は背丈ほどの高さです。

ピンポン玉ぁ~?超小さいじゃん。
和りんごって品種知らない。よくお店で見つける拳大程度の林檎とはどう違うの?
小谷城和りんごの復活って何?お寺からもらっただけなのに小谷城和りんごと名付けているの?
小谷城下に和りんごが栽培されていたなんて、前半記述されていなかったけど…

まぁいいや、細かいことは。
三珠院で栽培されていたんだったら、ここ小谷城下でも栽培されていたであろう。という
想像で復活させたのかな?と思うことにした。

お土産屋の隅に、ある機械を見つける。

IMG_0595.jpg

そう、プリクラ機。
小谷城をバックに撮れたりするから、記念にと思って、最後に
また立ち寄ろうと考え、後回しにした。
(結局、戻ってきたのがふるさと館閉館後で、プリクラが出来なかった。
この失敗が二条城につながる。)

自転車を駐車し終わっていたので、ここから徒歩で小谷城登山口へと向かう。

が、

IMG_0602.jpg

通行止め......orz
警備員さんから、ここからは博覧会期間中は登城禁止なんです。と言われた。
なんだってぇ~聞いてないよぉ~
このことをレンタサイクルを借りた時においちゃんが説明してくれていたのかなぁ…
ちゃんと聞いておけばよかったと後悔。

でも、まぁこの脇に「小谷城址」碑があったので、それを撮影だけ出来ただけでも
よしとしよう。

IMG_0601.jpg

しかたないので、別の登城口へ行くことに。
小谷城戦国歴史資料館側に登城口があったはず、と思って自転車を取りに行き、
そこから資料館方面へ走り出す。

ふるさと館と山の間を少し走ると…

IMG_0604.jpg

あっ!小谷城和りんご!!

こんな所にあんのかぁ~
ふるさと館の敷地内にあったんだ…

木ちっさ!!実ちっさ!!

少しだけ実がなっていた。
本当にピンポン玉サイズなんだなぁ~
というか、なぜ一本!?

さて、和りんごを後にし、道なりに少し進むと、
資料館へ行く途中に小谷城跡への登城口を見つける......


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小谷寺
#02 小谷寺 【小谷編】

小谷寺

小谷城へ行くにあたって、山王丸(小谷城にある曲輪の一つ)にあった山王社
このお寺にあると知ったので行きたいなと思った。

それが始まり。

西へ旅するときは滋賀で乗り換えることが多いので、駅構内で
頂戴した観光ガイドや本などで、小谷寺は事前予約が必要と書いてあった。
なので、数日前に電話したら、よくある事なのか、またかといった感じで対応された。

「ご開帳の時しか、中には入れないんです。ご開帳は先日終わりました。
なので現在予約は受け付けていません。外観は自由に見てもらって結構です。」だって。
(参拝自由って書いてあって、要予約と書いてあることに疑問を持つべきだった…)

まぁ、そう言われたら、しゃーないやね。
外観だけ見学しようと思い、今回行くことに。

博覧会から東本町跡、西本町跡の石碑を経由して少し走ると、小谷寺へと続く道に着く。
道の入り口にはちゃんと案内板があった。

IMG_0489.jpg

この案内通り、道をまっすぐ進んでいく。
(奥に行けば行くほど紅葉していた)

IMG_0490.jpg

奥へ行くと、駐車場がある。
そこに自転車を泊め、見学していくことに。
駐車場の敷地に隣接、というか駐車場内にあると言っても過言ではない位置に
小谷神社がある。

IMG_0491.jpg

この小谷神社は、元々小谷城山王丸にあったもの。
曲輪中央に、この山王社(山王権現)が祭られていたが、
現在は小谷寺の一角へ遷座している。

天正十九年(1591)の「称名寺文書」で、山王の存在は確認できるとのこと。

現説版には、
>小谷城落城後、北谷に遷座した。その後幾度か場所が変わり
>昭和四十九年に当地に移された。
とある。

写真を見ても分かるように、規模はそんなに大きくない。
6畳もない大きさだったかな。最初見た時は、「ちっさ!!」と思った。
現存というわけでもなさそうな感じ。外観は明らかに材料が真新しい。

で、社殿の裏側に回ると、石積みが存在する。

IMG_0494.jpg

さて、駐車場は小谷寺へと続く道脇にあったことから、
元の参道へと戻ることに。

ちょうど駐車場入口に『小谷山森林公園』の案内板があった。
>(前略)
>小谷寺は寺伝によると、泰澄上人の開基で初め常勝寺と称しましたが、
>初代浅井亮政の帰依により祈願所となり、小谷寺と改称いたしました。
(現地説明板より)

さらにその脇に、『如意輪山小谷寺境内之図』という図があった。
こちらは解説がさらに詳しく書かれている。
開基したのは、神亀五年(728)とある。古っ!!結構昔からあんだなぁ~
さらに続けて、
>もと北谷にあり、落城の際全焼。その後、豊臣秀吉、徳川家康より寺領四十四石の
>朱印を受け再興した。古様を有して名高い本尊如意輪観音、孔雀紋馨(重文)、両界曼荼羅
>などすぐれた寺宝が多い。

山王社と書かれた建物は、先ほど駐車場で見た小谷神社とは
別の場所(北谷)に建っている。

先ほどから何回か出てきている北谷地区とは、
この小谷寺がある場所からさらに小谷山へと近づいた場所(小谷寺から北)になる。
ちょうど小谷城主要部曲輪郡がある尾根東の谷あたり。
(博覧会期間中、ふるさと館が置かれていた場所の奥にあたる)

プリントアウトしてきた小谷城下町(最終段階)の図には、北谷地区から小谷城に向かって
延びている常勝寺坂の字が見つけられる。

寺宝はこの前、ご開帳したときに見られるのだろうか…
(後で知るんだけど、本尊如意輪観音は作家のみうらじゅん氏が
自書の中で観音信仰の中でもっともチャーミングな仏様であると書かれていると
小谷寺のパンフにあった。みうらじゅん氏って御朱印集めでも有名な人じゃん。
このお寺さんにも来たのか。)

絵図を見ていて思うのが規模が大きいということ。
先ほど通ってきた参道脇にも寺院が存在していたらしい。いくつかは跡ってあるけど、
それでも成就院・身性院跡・明蔵院跡・円蔵院跡・普門院跡がある。

すると、車を駐車場に泊める人がいた。その人は小谷神社へ挨拶し、続けて
参道から小谷寺へ向かって一礼して小谷城方面へ歩いていく。よく見てみると、
その方はボランティアガイドの人だった。

なるほど、ボランティアガイドの人たちは、ここに車を泊めて行かれるのか。
小谷寺への挨拶は毎日かかしていないんだろうなぁ~

さて、話が逸れてしまったので、元に戻ると、

IMG_0499.jpg

説明板の後ろに梵鐘があった。下は石積みが築かれている。

>(前略)
>江戸時代初期・承応四年(1655)の年号と願主の盛教をはじめとする
>多くの僧俗血縁者、作者である蒲生郡八日市釜座の大塚善左衛門、
>藤原重正の名が記されている。
>八日市釜座は中世以来の伝統を有する近江の代表的な鋳物師集団である。
>鋳上がりが良く、県内でも比較的少ない近世初期の梵鐘楼として貴重である。
(現地説明版参照。)

へぇ~石垣集団・鉄砲集団以外に鋳物集団が近江には存在するのか。

梵鐘脇には、門がある。

IMG_0503.jpg

山門脇の大きな松の切り株は、お市の方お手植えのものと伝えられていると
調べていたが、

IMG_0504.jpg

これ、切り株じゃないじゃん。
というのも、見学していた時は、『切り株』っていうことをすっかり忘れていて、
間違って、切株じゃない別のものを撮ってしまった。

が、幸か不幸か、切り株が上の写真左下隅にかろうじて写っている。
これであってんのかなぁ~

IMG_0508.jpg

浅井氏三代の祈願寺・小谷寺。

合掌後、パンフレットと先程見た絵図が描かれた紙が本堂に置かれていたので、頂くことにした。
御朱印やっています。とあったが、人の気配がしないので、諦めることに。

パンフには、
>大永四年(1524)ごろ、浅井亮政が小谷山の上に城を築きました。この時、寺領交換が行われ、
>六坊一山全部北谷地区に降りてきたようです。(中略)
>天正元年(1573)、小谷落城の時、お寺も本尊以外はことごとく焼かれてなくなってしまいました。

おっ、六坊って小谷城跡にもあるよねぇ~
でも、小谷城六坊跡って、(下調べの段階では)むしろ逆に寺院を集めたってあるから、
ここで言う六坊とちょっち違うのかな。

さて、小谷寺には浅井長政の墓が裏にあると調べていたので、
本堂の裏手に行った。

しかし、多くの墓があり、どれか分からない。
スマホで検索してみたが、サッパリ分からない。

これも諦めて、元来た道を戻り、絵図に見られる鎮守(稲荷)まで登った。
こっちの方にお墓があるかも?と期待したが、それらしいものは見つからなかった。

帰りがけ先程の絵図を再度見てみると、“墓”ではなく“塚”と書かれている。
あぁ~そうなのか。徳勝寺のお墓一つだけで、ここは塚なのかぁ…
しかも場所が山上を指しているので、諦めた。
(小谷山森林公園の案内板には塚と思われる絵の場所までのルートが書かれていた。
行くとしたら、結構な山歩きになるかもしれないので行かれる方はご注意を)

次回、再チャレンジしたいことだらけの小谷寺見学が終了♪

小谷寺を後にし、次なる目的地へ

■後日追記--------------------------------------------------------------

この小谷寺の記事をUPして数日後、『長浜みーな』を
読んでいたら、大事な内容が書かれていたので、早急にこの場に
追記することにした。

上の本文最後の方にある“お市の方お手植えのもの”について。

『長浜みーな』の大事な内容は何かというと、
山門脇にある“お市の方お手植えの松の切り株”とされるものは、
全く史実と相反するものだということ。不正確な情報がインターネット
などを通じて広まっており、史実と後年の創作とが混同されたまま全国
に発信されていて困惑していると本の中で語られていた。

理由はというと、まず年輪の数を数えても時代が合わないということ。
また、小谷寺が北谷から当地に移って再建されたのは、お市の方が北ノ庄
で亡くなって10年後の文禄2年(1593)のことで、お市が訪れたのはあり得ない
ことだとある。

あぁ~なんでこんな単純なことに気づかなかったんだろう。

マズった…
自分も間違った情報を全国へ発信する一役を買ってしまった。

何でもかんでも鵜呑みにするのはよくないな。

手植えの類の話は他の場所でもよく聞くけど、
おおかた後世の創作話だと思ったほうがいいのかな。

というわけで、“お市の方お手植えの松の切り株”というのは
創作です。お気をつけください。

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