#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



カテゴリ



最新記事



Link

このブログをリンクに追加する



検索フォーム



RSSリンクの表示



カウンター



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


松江城-29/×××
松江城-29/××× 【松江編 #31】

※食事中、閲覧するにふさわしくない内容が含まれています。ご注意ください。※

江戸時代、城下町とその郊外を区別するために郊外への
出入り口には番所が置かれていた。

松江城とその城下には、全部で33箇所の番所があったと言われる。

その内の1つが、城内の二の丸にあった。

今は公衆便所として、外観だけは瓦が葺かれた城郭建築物のようで、
周囲の復元櫓の中に溶け込んでいるが、本来はここに番所があったと、
文献や絵図などから分かっている。

松江城二の丸トイレ
[Photo]松江城二の丸番所跡、現在は便所になっている

その番所跡を発掘調査した後に、便所が建てられた。

平成4年の発掘調査で絵図に記載された通りの番所だったことが
確認された以外にも面白いことが分かっている。

この番所跡の南側に、直径1.1メートル、深さ1.6メートルの丸い穴が見つかった。
発掘調査の担当者は、当初井戸跡と思っていたところ、ある時通りすがりの
観光客のおじさんから「これは最近までうちらでも使っていた“かわや”だろう。
板を2枚通せばしゃがむことができる。」と言われて、“目からウロコ”だったそうな。
この話は、『島根日日新聞』に掲載されている。

写真が手元にないので、掲載出来ないんだけど、地中に穴の大きさの風呂桶の
ようなものがあって、中に木が散乱している状態。こんな“かわや”を使っていた
んですか…。

底に堆積していた土を奈良の専門家へ送り、分析を依頼したところ、
結果、確かに糞便の堆積土と断定され、野菜の生食による虫などが
確認された。

■分析結果から想像した当時のメニュー、
梅干、味瓜、白米、麦、そば、油菜のおひたし、鯉のお刺身、
鮎の塩焼き、白魚の酢味噌和えに野菜類


意外と豪華な料理。

出来たてのウンコから、体の健康状態とかが分かるというのはよく
あるけど、100年以上も前のウンコからこんなにも色々分かるとは…。
文献史料では分からない考古学の素晴らしさを感じる。

そして、通りすがりの観光客の一言で解明されることがスゴい!!
この一言がなければ、金隠しでも出土しない限り、10年くらいはトイレと
断言しなかったんじゃないだろうか。一乗谷遺跡のように。まぁ、一乗谷の時
は今みたいに科学的な判定方法がなかったからこれだけ時間を要したんだけど…
※一乗谷のトイレは、考古学で初めて確認された事例。この数年後、トイレの
考古学の基礎が固められていくことになる。

ちなみに、ウンコから当時の様子を想像するというのは、松江城だけに
限らず、各地でも同じようにウンコから色々と推測されている。その中の
1つに首里城がある。

首里城にはトイレが見当たらないことから、トイレ事情はよく分かっていない。
最近の発掘調査で、淑順門という内郭の城門裏に円形の石組みのような遺構が
地下から見つかった。中の土のおかしさから井戸ではなくゴミ箱なんじゃ…と
考えられた。

ところが、内部の土を分析したところ、ウンコの化石が発見された。
また、解析結果では松江城と同じ寄生虫卵が見つかっている。
調べようとしたキッカケは違うものの、ほぼ松江城と同じ流れ。

首里城ではこの遺構をトイレとは断定せず、史料には「糞箱」や「小便筒」
という言葉が出てくることから、“おまる”などで排泄したものをここに
捨てていたんじゃないかと考えられている。

ウンコを運んで捨てる運(ウン)用を行っていた。

話は松江城に戻って…
何気なく使用していた便所が、実は江戸時代にも同じようにが用を
足していたので、この便所を利用することで同じ感覚を味わえる。

松江城のトイレはこの二の丸以降、本丸にはない。
(正確には、天守に便所の痕跡があったが、もう失われている。)

首里城では往時、働く役人は登城する前に、あらかじめトイレを済ませていて、
城内でトイレに行きたくなっても、なるべく我慢していたという話がある。
なので、松江城でも同じように、本丸へ登城する前には、二の丸のトイレで
済ませてから登城してみてはいかがでしょうか?

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
スポンサーサイト

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


備中松山城-1/城の管理体制
備中松山城-1/城の管理体制

天守が現存する備中松山城

備中松山20121121_備中松山城天守17
[Photo]備中松山城天守

解体修理される前の古写真を見ると、それはもう廃墟同然。
松江城と同様、昭和に修理され、今では綺麗な天守になっているけど、
整備される前は見るに耐えない姿だった。

現存12天守という枠にハマったのは奇跡に近い。

天守が残った要因はいくつかの事象が重なりあったことから今に
至ると考えられるけど、今回はその要因と思う1つを紹介したい。

備中松山城は幾度となく城主が変るけど、その中で
幕末まで城主に至った板倉氏に注目する。

■松山藩、城の管理体制(板倉氏時代)

小松山城(備中松山城)は江戸時代、「山城」と呼ばれていた。
松山藩では、麓にある藩主居館・御根古屋を「」と呼び、“登城する”と
いうと、この御根古屋に出仕することを指していた。これは他の城でも見られ、
姫路城の場合は、絵図や文献史料において、三の丸御殿とその曲輪にだけ
本城」という言葉が使われている。藩士の感覚では、“城=三の丸御殿”
であったことが分かる。

平常、山城と呼ばれる小松山城には、山城番人4人が城内三の丸の足軽番所
に常駐し、城内の警備と施設の管理に当たった。

山城の大手御番所宛に出された「定」によると、

①番人は5日交替で詰切り、交替の時には諸道具を念入りに改めて引き渡すこと。
②本丸曲輸を朝夕1度ずつ見廻り、変わったことがあれば御番衆へ連絡し、
 惣御門日行司まで伝えること。
③火の元に気をつけること。


などを申渡している。
※朝夕1度ずつ見廻る本丸曲輸は山城の本丸という意昧ではなく、板倉家では
旧領の亀山城の呼び方にならって御根小屋(城主居館)を二の丸、山城(小松山城)
全体を本丸と呼んでいた。


また、山城の登城口にある坂口御門番所にも番人が常駐していた。

上の「定」と同じタイミングで、この登り口御番所(坂口御門番所)宛にも「定」が
出され、それでは、

交替の刻限の厳守、道具改め、火の用心のほか、御番衆や目付役の
発行した許可書を持っていないものは登城させてはならないこと


などを申し渡している。

さらに、城下や山城の治安維持・警備状況を視察して廻る目付役がおかれ、
山城の見廻りは遠廻りといって日を定めずに月1回行なっていた。
(日を定めてなかったっていうのは、ほぼ抜き打ちに近いのかな。
会社でも抜き打ちの2Sチェックがあるので、それに近い感じがした。)

目付役は大手門から三の丸・二の丸を見廻り、本丸東門を通って天守に
入り、三階の御社壇を開けて御神体の宝剣を確かめた後、水の手門ヘ廻って
封印改めを行ない、上番所ヘ立寄って武具改めをすましたうえ、番人に
諸注意を行なって下山した。

幕末の混乱期には山城警備が強化され、文久3年(1863年)9月からは5倍の20名が
詰切り、交替で昼夜警備にあたるほか、取次役歩目付役各1人も常駐した。
これらの番人の食事は、火の用心や城内に調理施設がなかったため、山城では
調理出来ず、武家奉公人の中間に弁当をもたせて登らせていた。

以上が、松山藩(板倉氏時代)での城の管理体制の一部で、「定」は板倉氏が
伊勢国亀山から入封した年に出されている。

このような管理体制が運用され、家臣が粉骨砕身、務めたおかげで失火もなく
今日まで天守が残った。松山藩の前に板倉氏が治めていた亀山でも同じ「定」
があったと思う。昨年末、その亀山城多門櫓で火災が起こったのは残念で
仕様がない。

さて、今の松山城はどうだろうか?

備中松山20121121_備中松山城二の丸にある喫煙場所
[Photo]備中松山城、二の丸休憩所にあるタバコの吸殻入れ

現在、松山城の二の丸には、タバコを吸うことが出来るように吸殻入れが
置かれている。城に興味がない人だったら、そりゃタバコを吸いたくなる
だろうし、ここまでキツい登り坂を登ってきたら一息つきたくなる気持ち
も分かる。

でも、これ矛盾してんだよね。

大手門跡から5メートル下の場所には、『禁煙』の看板がある。
最初にこの看板を見て登ってきたので、喫煙所があることに驚いた。
何のための“禁煙”という看板なのか。意味を失っている。

備中松山20121121_備中松山城禁煙の看板
[Photo]大手門跡下の『禁煙』の看板

本丸に近い二の丸でタバコが吸えて、本丸より遠い大手門跡の下で
禁煙になっているのはおかしい。単なる置き忘れか?この看板。

江戸時代、管理体制を貫徹して守ってきた城。今まで残ってきた天守が
何かのキッカケで焼失することは考えられないのだろうか?

タバコの不始末から火災へと繋がることは絶対ないと言い切れるのか。
「いやいやいや、ちゃんと火の用心していれば大丈夫でしょ。」という声が
上がるだろうけど、万が一・億が一の可能性はある。気づかないうちに服が
焦げていた、なんてことはよくある。

入城券を発券する窓口が本丸に入る所にあるけど、ここ以外に管理している
ような施設はなく、監視の目がそんなにないことから、正直火をつけようと
思えば簡単につけられると思った。

また、消防車等の緊急車両が駆けつけられるように、中太鼓櫓跡の脇には
国庫補助で作られた防災道路(管理用道路)が通っているが、本格的に出火
してしまうと、実際間に合うかどうか分からない。空中部隊も。

別にタバコを吸うのが悪いとは言っていない。

でも、別に二の丸で吸わなくてもいいと思う。分煙とかでうるさい世の中だけど、
吸うところはここ以外にいくらでもある。ふいご峠の駐車場に戻ってからでも、
麓に降りてからでもいくらでもタバコを吸って休憩することが出来る。

「灰皿を置いてあるのが悪い。」という意見もあるだろうけど、置いてあっても、
“吸わないように心がける”のが本当の“城好き”だと思う。

“城を守る”防御施設を見ていくのは楽しい。なので、どうしてもこういったこと
を考えずにいるけど、文化財として“城を守っていく”ことにも心配りすることが
大事だと思う。城に限らず、他の文化財も同じ。

“たばこ1本吸わない”努力が、城の保全に繋がる。

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


松江城-28/整形疑惑
松江城-28/整形疑惑 【松江編 #29】

正保城絵図が描かれた時期、大名の数は230~240家あり、この内
陣屋などを除いた城の城主格は130家程度だったと言われる。

その諸大名が提出した正保城下町絵図は、紅葉山文庫に収蔵され、
同文庫の最後の蔵書目録である『増補御書籍目録』には幕末まで
131点が伝わっていたことが分かっている。

戊辰戦争時に薩長軍が奥羽の諸藩を攻撃するのにいくつか城絵図
持ち出され、今では国立公文書館に63点しか残存していない。
自分たちが提出した絵図で攻撃されて町が破壊されるだけでなく、
絵図もなくなるとは…

実は国立公文書館に引き継がれた絵図以外に、もう1つ松江城下町
正保城絵図がある。

正保期、松平家松江藩を拝領していたので、2つある正保城絵図の内、
1つは松平家家老の乙部家に「松江城正保年間絵図」が伝わり、松江に
残った。

以前、正保城絵図から建造物石垣について詳細な情報が描かれている
と書いたけど、それ以外にも絵図から面白い事が分かってくる。

現在松江に行くと、この絵図に現在の地図を重ねたものが城郭の違い等が
確認出来るように、下のような案内図が設置されている。

松江20121127_179
[Photo]松江城正保年間絵図、現在の地図を重ねている
※写真は、松江城三之門跡脇にあったものですが、カラコロ広場にも
設置されています。


城下町時代MAP○○編』の本とまではいかないけど、今自分が立っている
場所が絵図でどこの場所だというのが分かって、絵図で松江の城下町を
歩くことができる。

まぁ、今スマホとかあるから、デジタル・アーカイブを見ながら…という
手もあるが、残念ながらそれには現在の地図がトレースされていない。

正保期絵図以外の絵図も見ながら歩きたいという人には、松江城下町絵図を
まとめた絵図集が出ているのでそれをオススメしたいけど、すでに絶版に
なっていて、今入手するのは困難。
(これ、現時点Amazonで中古品が1点、定価の2倍で出品されてる…)

ちなみに、以前外郭の防衛体制で紹介した「堀尾期松江城下町図」は、東京の
古地図店のカタログに360万円で掲載されていたものを島根大学が数多所掛け
あって購入した経緯がある。詳しくはいつか別の記事で取り上げたい。

話の脱線ついでに、もう1つ余談。
島根大学附属図書館では、“マルチメディアテーブル”というシステムの画面上で
江戸初期・後期の絵図、明治後期の松江市街地図、現代の空中写真の4段階の
景観変化を確認することができる。

景観変化だけじゃなく、主要な部分に関する解説や音声付なため、学習も可能。
残念ながら見たことはないけど、こんなのをスマホのアプリとかで販売したら
一儲けできそうなんじゃないかと考えてしまった。

で、話を元に戻すと、

松江城天守が描かれた絵図として今のところ最も古いと
されているのが、この「松江城正保年間絵図」。

正保松江城絵図_天守
[Photo]松江城正保年間絵図から天守部分を抜粋(左が南面、右が東面)
※現地解説板から転用しているので、分かりづらい部分有。
今後、ちゃんとした写真が手に入れば差し替えようと思うが、今回はこれで
勘弁してほしい。今ちゃんと見たいという方は、下のデジタルアーカイブを
開いて見てください。(↓クリックすると、別ウィンドウで開きます。)

http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000268

この天守。屋根を見ると、1階の東面と2階の南面に2つの三角形(△)屋根が
並んでいる。三角形の屋根は千鳥破風と言い、さらにこのように2つ並んだ
形(△△)を比翼千鳥破風(2連千鳥破風)と呼ぶ。

ちなみに、それらの上階にも破風があり、上層1つ下層に2つある3つの千鳥破風が
組み合わせられた形を、城郭建造物意匠を専門に調査研究している阿部和彦氏が
組千鳥”と命名している。

ちょっと上の拡大写真では松江城と書かれた文字でちょうど重なって見えないけど、
東面の組千鳥の上階の屋根(松の字の上辺り)は唐破風と呼ばれるカーブを描いた
形になっている。唐の字があるけど、中国にはない日本特有の屋根形式。専門用語
で多少話が難しくなっているけど、要は全体的に装飾性が強い形式ということ。

では、現在の松江城天守がどうなっているか?を見ていくと、

松江20121202_松江城天守243
[Photo]松江城天守西面

写真を見て分かる通り、絵図とは違い、東面と西面は入母屋破風になっている。

組千鳥どころか、破風が2連している比翼千鳥破風すらない。
北面、南面にも。

昭和30年に天守は修理されているけど、組千鳥から入母屋破風へ全く
異なった形に変更したなんていうのは報告書に記載されていない。

それに今は望楼型天守なのに、絵図の天守は層塔型天守に見える。

信州松本から松江に入封した松平家は、最初松江城の建造物を調査している。
松平家の大工頭だった竹内右兵衛が『かきつけ』と呼ばれ、今でも復元史料
として用いられる本丸・二ノ丸・二ノ丸下ノ段の諸施設を書き記したものを
残している(実際は孫の竹内宇兵衛が書いたとされている)が、その右兵衛
が天守の雛形模型を造っている。それは松平家が入封時に天守の高低を
見つけ、その修築方法研究のために造られた。今では天守内に展示されて
いるけど、それを見る限り今の屋根の意匠と変わらない。

実態とかけ離れた天守が描かれた正保城絵図

原城島原の乱が起こった後、徹底的に各地の城郭を破城したりするために
幕府から巡見使が派遣され、各国を査察してまわったりするけど、なぜ違う
絵を描いちゃったのか。そいつらが来たらバレちゃうのに。
(巡見使を接待してうまくやり過ごした、なんて話も聞いたことあるけど…)

こういった絵図を描くのは藩のお抱え絵師だったりするので、もしかしたら
天守を見たことがなくて、藩士などから聞き取りしながら書いたとすれば、
実物と違ったものになった可能性はある。

ところで、描かれた天守東面は名古屋城天守の東面によく似ていると言われている。
名古屋城天守に似せて描くことで強権をふるう幕府にへつらったと憶測されているけど、
だったら江戸城天守にしたらダメだったのか、名古屋城天守を見たことがあったのか
などと色々疑問がわいてくる。

名古屋20101121_名古屋城891
[Photo]名古屋城大天守東面

で、自分が1番可能性高いとして考えているのが松本城の天守。
今、松本城を見ると破風が少なく、それは実戦を意識して作られたから
だと解釈されているけど、本当はもっとあったかもしれないということが
分かっていることも確か。

松本20130105_松本城天守群西南面160
[Photo]松本城天守群

松本城も松江城同様、昭和に大修理が行われている。
この昭和の大修理で十分な痕跡が認められかったため、復元されなかった破風がある。

それは“大天守4階北側の千鳥破風”と“大天守4階南側の比翼千鳥破風”。

前述したけど松平家は松江に来る前、松本を治めていた。
松本城の月見櫓は、3代将軍家光の立寄りに合わせて直政が築造し、
今見る連結式の天守になったのはこの時。

松江城の正保絵図を描いた人は、この松本城天守が頭にあったんじゃないだろうか。
残念ながら組破風ではないし、1階じゃなくて4階に比翼千鳥破風があることから、
絵図の屋根とは破風の位置が異なっている。

松本城の外観を今見る限り、層塔型天守で唐破風の下に千鳥破風がある。そして、
比翼千鳥破風という2連の千鳥破風があったのなら、別の天守を描いた候補に
松本城を挙げてもいんじゃないだろうか。
※松本城は、Wikiでは望楼型と書かれているが、三浦正幸氏等の建築史家からは
層塔型天守と言われている。正確には、外観は層塔型で内部は望楼型。元々は
望楼型で建てられていた天守だけど、松平直政が入封して前述した月見櫓を増築
する際に、天守を改装している。


最後に、自分たちが今目にしている松江城天守は創建当時からのものではないかも?
と言われている。それは開府以後400年間の間で改修されたことが否定できないから
だそうだ。上で書いてきた“絵図の天守が今と違う”というのも理由の1つ。

絵図に計画図があるように、模型にも計画のために造られたものがあったかもしれない。
前述した天守の雛形模型も、前の天守からこの模型のように改修するという意味で
造られていたら確かに否定できない。今見る天守の前は、組破風や唐破風など
装飾性豊かな天守だったのか?などと想像を掻き立てられる。

普段見慣れた顔が、実は昔に整形したものかもしれない。
テレビ番組でも、昔の写真を出して、整形しただろーなんて
突っ込んだりされる場面をよく見る。

あなたの側にいる人も、もしかしたら…

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


松江城-27/本質
松江城-27/本質 【松江編 #28】

松江城が描かれた絵図は複数残されていて、今まで書いてきた記事で
いくつか紹介してきた。これらの絵図のおかげで、現在の復元や研究が
進んでいるのは城好きにとって嬉しい話。

『絵図』というのは江戸時代に作られた(古)地図のことで、
多種多様な絵図がこの時代作られた。幕府、藩庁、町人地、村などで。

その中に上で挙げた『城下町絵図』が含まれている。
城下町絵図には、大きく“公用図として描かれたもの”と
私用図として描かれた絵図”の2種類に分かれる。

公用図には、“幕府へ献上する用”と“藩庁用”にまた分かれる。
前者は、これまでに記述した石垣などの修復願い時に添付する絵図や
他には正保期に幕府が提出させた絵図などが挙げられ、後者は築城
際しての計画図・記録図作戦図屋敷割図都市改造計画用図
などがある。

築城の際の計画図や記録図、作戦用図が描かれるのは稀だと言われている。
もしかしたら見つかってない・公表されてないだけかもしれないけど、秘密裏に
事を進めるために作らなかったのかもしれない。

私用図は、まぁコピーの類い。
自分たちが図書館で市史や貸出禁止のものをコピーするように、
武士の間や町人の間でコピーされたもの。

松江藩では、開祖の堀尾氏から京極氏、幕末まで続く松平氏へと3家の
領主交替があるけど、こういった領主の交替の時は、城内に置かれた武具・
年貢
だけでなく、城の請取時に国絵図や郷町などの行政資料が引き継がれる。

現在、国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることが出来る正保城絵図は、
正保年間(1644~48)の国絵図作成にあわせて、諸藩に命じて作成させ徴収
した「城絵図」。この絵図の特徴として、城門などの防御施設、石垣(高さ)、
(幅や水深)などの軍事情報を細かく描かせており、城下町の様子・山や川の
配置なども描かれている。

正保松江城絵図_詳細
[Photo]松江城正保年間絵図から馬溜南部分抜粋、詳細情報が描かれている

松江で販売されている書籍では、堀の水深や幅などの軍事機密を正保城絵図
などに細かく記載した理由を幕府の権力に怯えて描かざるを得なかったと紹介
している。

だけど、武家諸法度による城郭修理の幕府許可制、幕府による転封・改易・断絶
による領主交替、城請取時に幕府の上使が派遣されるなど、これらのことから城郭は
藩主の私用物ではなく、幕府の管理するものであったと言われている。
この解釈を知ったときは、頭を金槌で打たれたような感覚に襲われた。
(言い過ぎか…)

諸藩は地方行政に過ぎないというと言い過ぎかもしれないけど、城の修復を
勝手に行うとお家取り潰し・城郭の修復は控えられることになったと、幕府の
強権性がよく取り上げられる。でも、それは武家諸法度発布後も各城郭で
修復が行われている事例があることからも、許可さえ取れれば修復可能
だったので、幕府怖さに修復を遠慮したと誇張するのは時代遅れな気が
している。

前置き?が長くなったけど、松江城下町絵図も各藩主時代のものがあり
研究が進んでいる。

松江に『雑賀町』という町がある。
これは江戸時代からある町で、名前からピンと来るかもしれないが、
雑賀衆(鉄砲足軽)という松江藩の下級家臣が団地のように
家族住まいで暮らしていた町。

堀尾期、京極期にはまだこの町は整備されておらず、松平氏の
治世になってから配置されたと最近の研究で示されている。

松平期の松江城下町絵図と整合する碁盤目状の町割りが今も残っている。


大きな地図で見る
[Map]松江市雑賀町、碁盤の目がよく分かる

松江は水の都として、今も昔も堀川が生活に密着していた。
松平氏の時代、この堀川を維持するために、主に雑賀町に住む御小人
呼ばれる末端の家臣が毎年5月中旬~8月始めに、堀底の「泥さらえ」など
掃除を行っていた。

泥さらえ以外にも、石垣がない堀の土手の「藪」を結び直したり、
土手筋の竹を伐採せずに留めておくなど、水際の土手の保全も
努めていた。これは外郭の防衛体制で書いた“藪の丁”という
場所辺りのことかもしれない。

自分が社会人になって、今でも思い出す言葉に「人がやりたがらない
仕事にこそ、その会社の本質がある。」というのがある。

実際、自分がこの雑賀町の人たちの仕事を同じように「やれ!」と
命令されたら正直やりたくないというのが本音。だって、5月中旬~
8月始めって一番水が汚くなる時期じゃん。そんな時期に堀掃除って…
だからと言って寒い時期にやるとなると水が冷たいし…

でも、誰かやらなければ堀川に堆積物が溜まってしまい舟の運行に
支障をきたし、また防御機能も弱まってしまう。雑賀町の人たちの
仕事は、まさに城の本質・水運の本質と言える。

京極期・松平期の絵図には幕府に提出されたもの以外でも細かい情報が
描かれている。それは以前外郭の防衛体制で四十間堀川の幅が京極期と
松平期で違っていたと書いた。もしかしたら、それらは城郭の維持管理で
描いていたかもしれない。そこに書かれている幅や水深を維持するよう
堀掃除し、藩に設置されていた城代組が見て回っていたんじゃないか?
と自分は考えてしまった。
※松江藩の家臣団構成の中に“城代組”という城内に居住し、樹木の
手入れ、掃除などの役目を勤め、小人(人夫)を使用する組があると
島根県史にある。


そんな雑賀町から維新後、若槻礼次郎岸清一が世に出た。
若槻礼次郎は首相になり、岸清一は政治家で、また日本スポーツ界の発展に
尽くした人物で、今では松江城三の丸(元藩庁があった場所)跡地にある
島根県庁に銅像が建立されている。

堀掃除とは直接関係ないだろうけど、雑賀町から輩出されたところが
何か思わせる。パナソニックの松下幸之助が研修でトイレ掃除を
させていたのも今では納得できる。

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


松江城-26/縁雫
松江城-26/縁雫 【松江編 #27】

』と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。

自分の場合、「週末は雨です」と天気予報士が言っていたら、
かなりテンションが下がる。城跡へ行くのもどこかへ出かけるのも
晴れだと気分がいいし、写真撮るのにも晴れのほうがいい。
あと洗濯とかにも影響してくるし。

松江から帰ってきて、秘密のケンミンSHOWを見ていた時、あのドラマで、
新潟の放送局にはるみが行った際、「明日はあいにくの雨」と言って、
周りがドン引きしていた。新潟では雨を恵みの雨だと感謝し、天気予報時に
「あいにく」と言うのはおかしいそうだ。

雨に対する考え方って、人や地方によって異なる。
農業に携わったことがないので、雨の大切さというのをあまり実感した事がない。
夏に日照りが続き農作物がダメになるというニュースを耳にして考えるくらい。
農家に生まれていれば、少なくとも今よりは感謝の気持ちが強かったと思う。

そして、今連載中の松江でも雨に対する考え方は自分と違った。

11月に入ると松江の天気はころころ変わるらしく、『山陰と言えば雨、
雨と言えば山陰』と言われるくらいで、「弁当を忘れても傘は忘れるな」
という格言まである。松江に行った時は、11月末から12月頭までいたが、
確かに天気が崩れやすく、晴れに恵まれたのはほんの一時だった。

2009年から開催され、去年第4回を迎えた「観光甲子園」。
この第1回で、松江市立女子高等学校が優秀作品賞を獲った。

この女子高の観光コースの生徒たちが、縁結びのまち・松江に降る雨を
縁雫”と命名し、梅雨時季の松江の魅力をまとめたプランを甲子園で
発表し、受賞している。

「縁雫」と書いて、“えにしずく”と読む。

「縁結びの地でもあり、水の都でもある松江。松江には雨の似合う
スポットがたくさん。その雨は日常のストレスを洗い流し、心に潤い
を与えてくれることに感謝する気持ちを思い出してほしい。」
という想いから生まれたそうだ。

今では松江観光協会を通して商品開発が行われ、「縁雫」というロゴや
商品をよく目にする。「縁雫ワッフル」や「縁雫カクテル」というのがお店
で扱われており、縁雫カクテルに関しては雨の日だけというメニュー
だったりもする。

何度か記事に出てきた松江歴史館では、ミュージアムショップ名が、
このプロジェクトから「縁雫」とネーミングされている。

“松江の雨は縁を運ぶ”

松江で縁雫に出会うことができれば、素敵な縁に出会うことが出来る…

素敵な言葉だと思った。

雨の城跡巡りは困難を極める。足元が悪くなるため、あまり遺構
見て回ることが出来ず、傘を持っていると写真撮影もままならない。
終いにはテンションの低さから、もういいかという気分になり帰る始末。

だけど、雨の時でしか見れない機能もあるので、雨でも城跡を楽しむ
ことが出来るのはありがたい。そういった意味で、雨の松江城
出会えたことは素敵な縁だった。

雨の日、松江城天守へ行くと、付櫓や天守の軒先から滴る雨のしずくが
雨落受けのに当たる様子を観察することが出来る。これはしずくによって
地上がえぐれないようにするという目的もあるが、軒先から地面に落ちた
雨水を集めるて排水させるのが目的で敷かれている。この場所のように
瓦のものもあれば、石を組んで作られているものもある。別に松江城
限った話ではなく、姫路城や他の城でも見ることが出来る。

松江20121201_772
[Photo]軒先下の雨落受けの瓦

近くで観察してみると、しずくが落ちる箇所が瓦からズレて地上が
えぐれてきていたりする。

こういった主要な建物の周囲に巡らされている屋根からの
雨水を受ける雨落溝と呼ばれる排水溝。

今は軒先に雨樋がついているので玄関から入る時、目の前で滴が落ちる
ことはないけど、天守に入る時には、目の前をボタボタボタボタ…と、
滴が落ちていく。

地面にあるか、屋根に取り付けられているかの違いはあるものの、
「雨落溝」と「雨樋」は同じ役割を果たしている。とすると、雨樋は
画期的なアイデアだったとも言える。

本坂脇の排水溝は、残念ながら近代的なものに変わっていたが、
遺構保護などでこの下には、往時の排水溝が眠っているかもしれない。

松江20121201_768
[Photo]本坂脇の排水溝

松江城では至る所で発掘調査されており、その際、この雨落溝が廻って
いることも確認されている。それによると、ほとんどが来待石製の雨落溝
石列が廻っているというもの。多分、この排水溝の下にもその来待石で
出来た雨落溝があったのではないだろうか。

この来待石というのは、今も採石場から切り出されている。
来待石というのは宍道湖の南岸地域、特に宍道町や来待周辺
から採掘されるため、この名がついたと言われている。

もしかしたら、上の写真に見られる排水溝も現代になって切り出された
来待石が用いられているかもしれない。と、思っていたところ宍道町の
土江石材店が納品例に松江城を挙げている。紹介写真に松江城の上の
写真の排水溝がある本坂が写っているので、来待石製なのは間違い
なさそう。

江戸時代には松平直政公が「お止石」として、他藩への持ち出しを
厳しく制限した特産品「来待石」。

加工のしやすさ、また独特の風合いから300年以上も前から建築造園材
として今も用いられていて、この記事に何度か登場している7代藩主
不昧公は来待石で出来た出雲石灯籠を高く評価している。

先日、お茶処として紹介した記事に、松江歴史館にある“喫茶きはる”からは
日本庭園越しに松江城天守が見えると言ったが、この日本庭園には、特産の
来待石で出来た石灯籠が置かれている。今、出雲石灯籠は経済産業大臣より
伝統的工芸品の指定され、松江城の大手前駐車場横にある島根県物産観光館
では、2Fで来待石製の石灯籠を販売していたりする。

また、歴史館の入口付近には如泥石というものがある。これは不昧公
お抱え大工の小林如泥が考案した事から名付けられた来待石製の石。

今では少なくなっているそうだけど、水害が多かった松江で大橋川
宍道湖の護岸整備に如泥石が用いられてきた。まとまった数が今
見られるのは、宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島。ここでは今も2列に並ぶ
如泥石が見られる。

松江20121127_松江歴史館「如泥石」01
[Photo]松江歴史館に置かれている如泥石

この来待石には天然ゼオライトというものが大量に含まれていて、
宍道湖の水質浄化にも役立っているんだとか。

さすが水の都、松江。
城内の排水溝を来待石にして水質浄化し、それが石樋を通じて
流れ込み、それが宍道湖に繋がっている。そしてその宍道湖でも
水質浄化。

水の循環がスゴい。いや、縁雫の循環と言ったほうがいいだろうか。
当時はそんな事知らずにやってたんだろうけど…

松江20121129_松江城二の丸下の段石垣にある石樋01
[Photo]松江城二の丸の石樋、堀に排水されている

話が大分逸れたけど、石垣が築かれた近世城郭では水の処理が大変重要な
課題だった。石垣にとって内側からの水圧は大敵で、地下にそのまま排水
すると、それが地下にたまって、ゆくゆくは内側から石垣を圧迫して
崩壊たらしめる。

石垣の外にいかに効率よく水を逃すか?先人たちの知恵を伺うことが
出来る遺構。上に載せた石樋の写真も、地下の暗渠排水と繋がっていて、
堀へと排水していくもので、決して“抜け穴”などではない。

石樋は築城当初から石で出来ていたかというと、そうでもなかったりする。
最初は木樋のところが多かった。上田藩では上田城の木樋が腐朽したため、
石樋へ変更するのを、石垣修復願い同様に幕府に願い出ていたりする。

今日、江戸時代の排水システムを超えるものを作るのは難しいらしい。
川に小舟を浮かせてどこまで辿り着くかを観察するように、このような平山城
本丸の排水溝に小舟を浮かせて、二の丸から三の丸へ、さらには堀まで辿り
着くかを雨の日観察できたら面白いけど、まぁ多分辿り着かないだろうし、
許可なくやっちゃいけないだろう。

話は変わって、最後に1つ。

この時の遠征では松江城に何度か足を運んだ。
安来に行った日を除けば毎日行ったことになるが、その度に城内の
清掃を行う人達を見かけた。もちろん、上で書いてきた雨の日でも。

松江20121201_775
[Photo]雨の中、松江城中曲輪で清掃を行う人たち

松江城ではほぼ毎日清掃が行われ、そのため落ち葉などがほとんどない。
紅葉の時期は少し過ぎてしまって、木には葉があまりついていなかったので、
その落ち葉を全て回収していたことになる。

スゴいなぁ~と思わず感心してしまった。

普段会社の清掃員とすれ違っても、挨拶するだけで何とも思わないんだけど、
ここでこうして、雨の日も風の日も清掃活動している姿を見ると、清掃する
人には、口に出さずとも感謝の気持ちは持たなきゃいけないと思った。
お前は何年生だ、とツッコまれそう…でも、今の世の中、感謝の気持ちを
持っている人は少ないんじゃないだろうか、冒頭の雨に対する考え同様。

一方、別の津山城では、備中櫓の人に聞いたけど、落ち葉はなるべく
掃かずに残してくださいと清掃者にお願いしているそうだ。桜の名所
として有名だけど、紅葉シーズンは城内の木々が色づき、地元の
ニュースでは紅葉の名所として紹介している。

「京都の寺院では紅葉の落ち葉は掃かないが、奈良では落ち葉を
掃く」と耳にしたことがある。それと同じようなことが城跡でも
あることを知った。

どちらがいいと思うかは人それぞれ。

個人的には紅葉の時期、落ち葉がある方が好きかな。

でも、城内の清掃には感謝したい。
雨だけでなく、目から涙という縁雫がこぼれそうでしたというお話。

実際にはこぼれなかったけど。

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術




< /body>