#oshiro/城郭記
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#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-13/木下秀吉陣地跡②
#50 虎御前山城-13/木下秀吉陣地跡② 【小谷編】

秀吉陣地跡の続き。

櫓台を下りてから、その櫓台に付属する帯郭を観察していった。

帯郭の形は三角形の形をしていることは前回の記事で書いたが、底辺の部分が
小谷城側を向いている形になっている。1つ前に行ってきた織田信長陣地から
見ると、小谷城に向かって「八」の字のように末広がり状に広がっていく。「▽」
のようになっていると言ったほうが早い。下の尖っている部分が信長陣地跡と
繋がる虎口で前回見てきた。他の頂点が五稜郭に見られる稜堡のような形に
なっているのが攻撃性の強い陣地として機能していることが感じ取れる。
(※「▽」の中央に櫓台「○」があるイメージ。)

「▽」となっている帯郭の下の頂点部分から時計回りに歩いてみた。

この帯曲輪には3つの虎口があり、西側にある虎口は特に技巧的な
ところはなく、平虎口になっている。

IMG_1048.jpg

案内板が縄張のココの場所と示してくれているので、山城初心者には
登りやすいと思う。ここの虎口から下方を見下ろすと、

IMG_1049.jpg

下の方にも削平地となっている郭が見えるので、今立っている帯郭にさらに
帯郭が接続していることが分かる。

信長陣地から秀吉陣地まで続く犬走りと呼ばれていた土塁は、西側が高く、
その理由に“山本山城を意識している”とある割には、同じ方角にあるこの
虎口がショぼいという少し解説とは矛盾した形になっているのは少々疑問。

1つ目の西にある虎口から帯郭上を引き続き歩いて行く。

IMG_1051.jpg
▲帯郭内平坦地

郭内はこのような平坦地で、写真右側に見えるのが櫓台の切岸になる。
切岸って言っても下側部分だけしか写真には写っていないが…

「▽」でいう左の頂点までくると、顕著に遺構が分かるのが土塁。

IMG_1052.jpg
▲帯郭西側土塁

三角形の帯郭周囲には掻き上げた土塁が断続して設けられており、これはその一部分。
大分低い感はあるが、当時は最前線だったこともあり、これよりもっと高い土塁が
築きあげられていたんじゃないかと思う。丁寧にここでも案内板があり、縄張図が
なくても遺構に気づきやすい山城だと思う。

この部分には、横矢掛け出来るように郭に折り目がついているようだが、確認するのを
怠ってしまった…次回、行ったときは確認してみよう。ただ、信長陣地跡同様、これ?
かなといったレベルだと思われる。

「▽」の左頂点付近に設けられた分かりやすい土塁に沿って時計周りに歩くと、
左頂点と右頂点を結ぶライン上中央(上の辺中央)に2つ目の虎口がある。それが
次の写真。

IMG_1059.jpg
▲秀吉陣地前面の坂虎口

見て分かるように斜めっている。虎姫館の資料Ⅳでもこれは虎口扱いされているので
整備で設けられた丸太の階段ではなく、当時からあったものだと考えられているっぽい。

少し斜めらせてあげるだけで、曲輪内からは、登ってくる敵兵に攻撃を加えやすい。
つまり横矢掛けになっていて、下記のような坂虎口「\」に対して、郭内からの
射撃ラインが見えてくる。




この坂虎口下には、さらに平坦な削平地が見える。これは先ほど平虎口上から
覗いた時に見えた帯郭と接続している。少しこれから書くことは実際の見学順
とは異なるが、坂虎口絡みなのでまとめて記述していくことにする。

上に載せた坂虎口の写真右隅に見えるもの。一体何なのか?と、ここで質問に
してもこの写真じゃ、さらに謎を深めるばかりだから、坂虎口を下りた後の
写真はというと、次の写真になる。

IMG_1074.jpg
▲坂虎口前面にある「かざし堀」

バクンと凹んでいるのが、この写真で分かって頂けると思うが、これは縄張図でも
案内板でも「かざし堀」と命名されている。

>かざし堀
>櫓台と一直線上に、かざし堀を掘ることで虎口から入りにくくしている。
>掘りをつくって落とし穴にして、櫓台に地被けないようにしている。正面を
>守るためのかざし堀である。

と、資料Ⅳにある。くどいように言っているが、「▽」の今は頂辺「―」の前面に
この「かざし堀」がある。「―」部分は小谷城の方角に向いている。これは小谷城
を意識していると言っても過言ではない気がする。ただ、ここだけ堀を築いていた
ため「かざし堀」などと大きな扱いを受けているが、なぜ帯郭の周囲全てを堀に
しなかったのは疑問に残る。

ただ、これはまだ「横堀」というのが発展途上の技術だったせいかもしれない。
堀秀政陣地跡で郭が何百も何千も組み合わさっている部類にこの虎御前山城
入ると書いた。そして、郭の数が減ると玄蕃尾城のようになると。まさにそれと同じで、
横堀も郭数が多い虎御前山城には横堀があまりなく、玄蕃尾城には横堀がふんだんに
用いられている。

なので、周囲に堀が巡らされていなかったのかもしれないと考えた。
とはいえ、「かざし堀」が築けるなら同じように周りに「かざし堀」に続く堀を
築けたような気はするんだけど…

IMG_1075_20120625123420.jpg
▲かざし堀(写真左)と坂虎口(写真右)の位置関係

で、櫓台から下りてきた帯郭から、さらに一段下の帯郭に坂虎口を下りてきたわけ
だけど、これで次の陣地・柴田勝家陣地跡にはまだ行かない。もう一度、この坂虎口
を駆け上がり、帯郭上に戻っていった。(と書いているが、本当は後で踏査している。)

IMG_1062.jpg
▲北側から見た櫓台

上にあがると、ちょうど櫓台を北側から見据えることになる。北側には階段が
設けられているが、さすがにこれは当時のものではないだろう。ちょうど今いる
位置が、先ほどの坂虎口の真上になるから。「かざし堀」と坂虎口まで設けて
いるのに、これだと侵入してきた敵がすぐに櫓台へと登れてしまう。

寄り道してしまったが、先ほどの三角形状の帯郭を坂虎口から時計回りに
引き続き歩いて行く。

IMG_1063.jpg

「▽」の右頂点側に向かっていくと、上の写真のように少し広いスペースに出る。
縄張図を見ても、先ほど歩いてきた場所より少しだけ平面積は広いように思われる。
写真に写る案内板を見て、あぁここは「大曲輪」という名前が付けられているのか
と知った。だって、資料Ⅳなどには、特に郭名が記されていなかったから。

1つ目に見た平虎口と線対称な場所に“枡形虎口”がある。線対称は「▽」の
縦に一本線を引いたところを折り目にして重ねた部分になるが、この表現では
さすがに平虎口があった場所が、どの位置か分からないので想像し難いと思う。

で、“枡形虎口”と聞くと、「おぉー!!」って歓喜に湧くところだけど…

IMG_1066.jpg

これが枡形虎口の全貌。

IMG_1067.jpg

こちらが枡形虎口前面にある帯郭の土塁外側。

はぁ、これが枡形虎口ですか…全く感じることが出来ないんですが。
何とか土塁の外側が見れるので、郭に折れがついて横矢掛けになっているのが
分かるぐらい。これなら、坂虎口の方が断然感動を覚える。

これ以上は進むことが出来なかったので、折り返して先ほどの坂虎口から下の
帯郭へと向かうことにした。ただ、資料Ⅰには「さらに丁字状の土塁、また貯水跡
と見られる二段になった凸地があるなお犬走りの東方に丁字状に延びた土塁の虎口
には二箇所とも蔀用の大岩が残っている。」と書かれていたが、大岩などは見当たら
なかったし、貯水跡というのはさっきの「かざし堀」?と思ったが、二段の凸地では
なかった。これも間違った記述?とか思いながら下へおりた。

IMG_1077.jpg

ここから少し歩いて振り返ると、先ほど歩いてきた櫓台や帯郭が段々に
構築されているのがはっきりと分かる。

IMG_1079.jpg
▲櫓台と帯郭を北から望む

少し下ると、また何やら案内板が見えてくる。

IMG_1080.jpg

一番左に写る案内板は、何とかコースと書かれていて、遺構とは関係ない標識になるのだが、
奥に見える案内板には、「堀切」「土塁」と書かれている。次に行く柴田勝家陣地跡からの
道がここまで繋がっているのだが、そこを突破してきた敵をここで食い止めるために設けた
防御施設になるのだろう。資料Ⅳには、土塁を犬走り・堀切を塹壕堀切と書いていたが、
まぁ大差のない表現なので、ここでは細かく扱わないが、堀秀政陣地跡に出てきた塹壕より
ここの方が遺構が分かりやすいのは、やはり最前線だったからと理由付けするのが最もな
気がするが、整備の時に掘ったとかだったら、赤面話になるので、議論しないでおく。

IMG_1089.jpg
▲柴田勝家陣地側に築かれた土塁

写真を見て分かる通り、非常にはっきりと土塁が築かれているのが分かる。
左の凸地が堀切で秀吉陣地側、土塁の右側が柴田勝家陣地跡へと続く道側。
左の堀切に城兵が潜み、突破してきた敵をここで迎え撃つという筋書きだと
思われる。

この陣地跡は虎御前山城の中でも自分を非常に楽しませんてくれる陣地跡
だったのは間違いない。

IMG_1088.jpg

次の陣地跡へと、この道が続いていく。

次回、虎御前山城最終章・柴田勝家陣地跡。




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虎御前山城-12/木下秀吉陣地跡①
#49 虎御前山城-12/木下秀吉陣地跡① 【小谷編】

織田信長陣地跡から下りて、北にある秀吉陣地跡へ向かって歩き出す。
堀秀政陣地と信長陣地は眼と鼻の先と表現できるくらい近かったが、信長陣地から
秀吉陣地までは少し歩くことになった。

平坦な道を進むと、まず信長馬場というところに出る。


信長馬場

IMG_1015.jpg
▲信長馬場木札が立つ削平地

ここに信長公が馬をつないでおいたということだろうか。ヒヒ~ンっと。
信長や馬廻衆の人間たちがここに馬をつないでいたんではないだろうか?
というような考えで、ここが信長馬場と名付けられているんだと思う。ここまでは
信長も馬で駆け上がってきて、ここからは徒で先程行ってきた本陣へと歩いて
行ったとかそういうことだと思われる。

でも、こんなただの削平地がこういう木札が立つことによって、何かしら考える
キッカケを持たせてくれるのはいいなぁ。なければただの削平地?と考えるか、
もしくは考えることもなく通り過ぎるような気がする。もし、本当にここに馬がいた
のだとしたら、信長は隊列の馬の毛色にも気を使っていたことが信長公記には
描かれているので、さぞや毛色の良い馬たちが並んでいたかと想像出来る。
ただ何頭もおけるスペースはなかったと思うので、近臣者しか置けなかったのか、
それとも信長本人だけだったのか。

他にはこれと言って見るものがなかったので、先へズンズン進んだ。
途中から上り坂となる。

IMG_1022.jpg

写真だと上を見上げて撮っているので、水平に見えるけど、ここが一番急坂だった。
登りつめると、秀吉陣地跡の遺構に出くわす。


木下秀吉陣地跡

IMG_1027.jpg

左右に土塁が高く積み上げられている。(分かりますか?写真左右に盛土があるの。)
“秀吉と信長の間には、犬走りでつながっていた”と資料Ⅳには書かれていたが、
多分この土塁のことを指しているんだろうなぁ~この土塁の遺構があることから、
秀吉陣地から信長陣地までは、当時はずっと続いていたはずと考えられ、土塁上には
板塀などが建てられていれば、その外側部分が『犬走り』だと解釈されているんじゃ
なかろうか。

ちょっと宛てにはならない資料Ⅰ(図説中世城郭辞典)では、この尾根上の両側にある
土塁が約23.5メートルの長さで築かれていると書かれているが、正直そこまで長い
ようには感じなかった。
※宛てにならないというのは、陣地跡の解説が現地とズレているから。この事は
信長陣地で述べたが、秀吉陣地跡は資料Ⅰで柴田勝家陣地と説明されている。

左右の土塁を交互に見てみた。拡大してみると、

IMG_1029_20120614121010.jpg
▲右(東)の土塁

IMG_1028.jpg
▲左(西)の土塁

右ひじ左ひじ交互に見て!ではなく、ここでは右土塁左土塁交互に見て!になるのかな。
右の土塁として載せた写真の左隅は奥へと道が続いているのだけど、これは土塁が後世
削りとられているか何かで本来は土塁が続いていたようだけど、今はここがパックリ
開いている。この道が秀吉陣地の帯郭下の削平地になる。で、秀吉陣地の構成としては、
輪郭式櫓台とされる小さな主郭の周りを下段の腰郭が囲んでいる。今はその囲んでいる
腰郭のやや下の位置にいる。

上の左右の土塁の写真を見てお気づきの人いるかもしれないけど、右(東)の土塁より
左(西)の土塁が高いのが分かるだろうか。落葉の大きさに多少違いがあることから、
納得して頂けるかもしれないけど、実際右は近づけて撮り、左は少し引いて撮っている。

これは資料Ⅳにも記載されていて、左(西)が高いのは、“山本山城を意識している”と
書かれている。本当かぁ~?といつものごとく疑問に思った。まぁここでは反論する話
を持ち合わせていないので、そういう説があるということだけに思い留めて先へ進むことに。

その脇道へは進まず、先程から歩いてきている真っ直ぐの道をそのまま進み、
整備された丸太の階段を登り、櫓台頂上部へと出ていくことにした。

IMG_1039_20120614121009.jpg

櫓台上は平坦な削平地になっており、石碑と現地解説板がある。

>伝木下秀吉陣跡
>秀吉の陣跡と伝えられる。秀吉は虎御前山城の城番に任ぜられており陣跡も小谷城に
>近接していることから、ここが最前線であったと考えられる。三角形の郭を中心に
>小谷城側に土塁を築いた帯状曲輪が設けられている。
(現地説明板より)

信長公記には秀吉が城番に任されていることが記載されているので、特段ここで
つらつらと述べる必要はないと思われる。

信長の陣地跡が虎御前山の中では一番標高が高いとあったけど、一番高いのはここ
ではないかと思う。古砦図には信長陣地が最高所に描かれているから信長陣地の標高が
一番高いと各書籍では書かれていのだろうが、国土地理院の『ウォッちず(地図検索画面)』
で検索したところ、虎御前山の標高最高所は224メートルで、『近江の山城ベスト50』に記載
されている虎御前山城縄張図と照合すると、秀吉陣地が最高所の224メートルと重なる。

つまり、虎御前山城で一番高い場所は秀吉陣地跡となり、信長はこれより一歩南に
布陣し、さらに低い位置にある。本陣が他の陣地より低い場所にあって、徐々に
それ以外の陣地も下っていく様は、小諸城穴城という特徴に似たような感覚を持つ。

秀吉陣地跡が一番高くさらに最前線にあるため一番小谷城から見える陣地跡になる。
そのため、攻められにくいように厳重な防御類を構築すると共に、やはり見せつける
ような形になったんじゃないだろうか。総石垣ではないから石垣山城のような一夜城
とまではいかないだろうけど、そういった相手を無言で威圧する陣城を構築したんだ
と自分の中では解釈した。

ここが最前線。ということは、ここで一番言葉合戦が繰り広げられた場所になるのだろうか。
浅井三代記は読んでいないが、そのような事が書かれていると虎姫館の展示では説明されていた。

「お前の母ちゃん、でーべそ!!」とか幼稚な言葉合戦ではないだろう。
秀吉軍の言葉は汚かったかんじゃないかと勝手に想像。

「おいコラ、デブっ!!!!!」とか言ってたかもしれない。
(すみません。浅井長政好きの人には申し訳ないですが、肖像画のイメージを優先して想像
しています。自分にはゲームなどで美化された戦国武将のイメージはありませんので、予め
ご了承ください。)

さらには放送禁止用語も連発していたかもしれない。
大河ドラマでも描かれない部分だろう。でも、言葉合戦って初めて聞いたのは大河ドラマの
「風林火山」が最初だったような…あれで武田軍が攻める相手に向かって言葉合戦をしかけて
いた気がするんだが、どんなシーンだったかはすでに忘れてしまった。あの時は、そういう
シーンが描かれていたのか、もしくは簡単に「言葉合戦をしかけよ!」とかってセリフを
言わせて、あたかも言葉合戦をしかけている風に見せた演出だったのか…

虎姫館の解説には、言葉合戦の起源が「やあやあ我こそは・・・(どこどこの何がしと
名乗りを挙げる)」にはじまるが、戦国時代になり次第に罵り合いや野次を交わす低俗
な言葉合戦に変化した。とあった。浅井、信長間にあっても揶揄し囃し立てるような感情
の対立がこの長期戦で士気を高めたのであろうと続いて記載されていた。

まぁ、軍記物なので着色されて、そういうことがあったのかもしれないとは思うけど、
相手には届いたのだろうか?テニスプレイヤーのシャラポワ選手が試合中に出す掛け声が
100デシベルちょっとと計測されているけど、この100デシベルって電車が通過するときの
ガード下の音と同じ大きさとされている。シャラポワがそれだけの声を出せたのなら、
戦国時代の雑兵たちも同じような大声を発生できたんじゃないだろうか。だとしたら
小谷城と虎御前山の山裾が400メートルということから、最前線にいた人間たちには
双方の言葉合戦が届いていたと思うなぁ~

とかくだらないことを考えながら櫓台を下りていく。

今回はここまで、次回秀吉陣地跡②へ続く。




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虎御前山城-11/織田信長陣地跡②
#48 虎御前山城-11/織田信長陣地跡② 【小谷編】

さて、前回の続き。
織田信長陣地跡は南北に長い。北から南へ郭1と名付けられ、最南端の郭は4となっている。
それを今は南から攻城しているので、4・3・2・1とカウントダウンのように郭1へと向かって
いる。郭1とされる場所が本陣ともされていて、信長公ご本人様がいたことになっている。

古砦図では信長公御本陣とあるだけだが、虎姫館の手書きのマップでは、郭2以降に
二ノ丸・三ノ丸と名付けていた。

郭4~郭2と前回の記事では見てきたが、全てが削平地のみを残すだけで、
特に虎口土塁・堀と言った類いのものは見られなかった。ただ、郭3に
接続している帯郭から下方にある帯郭へは大土塁があり、これだけは見応えが
あった。もちろん、山の中に削平地が2~3連なっているだけでも興奮してしまうが、
やはり堀や土塁などの遺構を見てしまうと心がそっちにばかり気をとられてしまう。

で今は、郭2に上がり郭1へと近づいていく。途中東下方を覗いていると
帯郭が見える。

IMG_0951.jpg

うーん、結構下になるなぁ…
もう帯郭というよりは別の郭と解釈したほうがいいんじゃないだろうか。
堀秀政陣地跡の記事から東側の防御が多数見られると書いてきたが、藤井尚人さん
の『ドキュメント信長の合戦』では、水攻めしていたんでは?と書かれていた。
果たしてそうなのだろうか?理由はこうある。信長公記では「(要約)虎御前山から
宮部までの道は悪いので、盛土で…水を堰き止め、通行しやすくするよう(信長が)
命じた」とあることから、この盛土によって、虎御前山から雲雀山までの間一帯に
水が溜まったことから、浅井軍の動きを制したと述べられている。

ここに書かれている道は、虎御前山の記事で何度か書いてきた軍用道路のことを
指している。これには小谷城側には蔀となる土塁を築いたとされていたようなので、
高時川から分水した田川(虎御前山南麓にあり、横山との間にある)が堰き止められて
水が溜まっていったという解釈なんだろうが、だとしたらこの水が溜まっていった
東側に防備を固めているのは何故なのかが分からない。

考えられるのは、軍用道路敷設と虎御前山築城のタイミングは同時期だったため、
水が溜まったのは想定外の副産物だったんじゃないだろうか。虎御前山の普請
進める一方、水が徐々に溜まっていくことになり、東側を堅固にしたままになった
というのが1つ。元々浅井氏の支城の1つで、織田軍他敵が北国脇往還と呼ぶ道を
進軍してくることを想定して東側を固めていたのがそのままだったというのが2つ目。

ようやく本陣の前まで来た。今歩いていた郭2も意外と長かった。

IMG_0956.jpg

ここにが施されていたらしい。残っていれば壮観だったに違いない。
度肝を抜かされると同時に、射抜かれる気分も味わえただろうに、今は
そう妄想することしか出来ないのは残念。そういえば、この虎御前山城
小谷合戦後はどうなったのだろうか。廃城になった後、資材は一旦は
秀吉が入城する小谷城に利用され、その後長浜城まで用いられたんだろうか。
木材の耐久年数などもあるだろうから、どこかで朽ち果てたのかもしれない。
今目の前に見えている丸太で整備された階段も当時はなかったと考えられる。
郭4~郭2も南面の切岸にある階段から登ってきたが、当時の登城道は別であった
ということは前回の記事で記述した。

この本陣も同じ。ただ、これまで見てきた郭と違って虎口が技巧的なのは、
麓の陣地跡から登ってきて初。それをこの後、つぶさに観察してみた。

まずは登ってみた。すると、

IMG_0960.jpg

門があったとされる“長枡形虎口”とだけ書かれた札が立てられている。
近世城郭枡形虎口と比べて、正直一目では分かりにくい…

IMG_0958.jpg

別の角度。先ほど階段を登る時に上が見えてきた時が枡形感を感じやすかった。
ただ、元々ありもしない場所に階段が作られているので南側の土居部分が破壊
されているのが否めない。

浅井氏の興亡』では、南側に外枡形が見られるとあったが、ここの事を指すんだろう。
1570年に信長によって築かれた宇佐山城主郭虎口に類似しているというが、宇佐山城に
まだ行っていないので、似ているかどうか分からなかった。縄張図を見る限り、宇佐山城
の主郭南にある虎口と似ていると言っているんだろう。無理矢理織豊系城郭と位置づけ
たいんだろうか。また別の本では虎御前山城には虎口に枡形や馬出等の高度なテクニック
が認められないとあったが、枡形虎口はかろうじてここに1つだけあった。この本が出た
のが大分前だったので、それから整備するうちに枡形虎口というのが明らかになったんだろうか。
その本には続けて、織田系の特徴が見られないのは不思議だとも書いていた。

宇佐山城と比較するのはどうかと思うけど、あれは陣城ではなくて、恒久的に
使われる予定だった城だと言われている。そのため、ここにはない石垣がふんだんに
用いられており、虎御前山城よりも先に築かれた城だが立派な出来具合になったのには
別の意味も含められている。今じゃ新幹線で滋賀から京都に抜けるには、東海道を通る
が、昔は坂本から比叡山を中継する白鳥越えと呼ばれる山越えが主流だったらしい。
つまり今じゃ湖西線で南下して京都に行くルートではなく、坂本から京を真っ直ぐ
つないだルートがショートカットでもあり、一般的だったみたい。

浅井・朝倉が小谷合戦前に行った志賀の陣では、この白鳥越えを朝倉軍が確保したため、
織田軍が京への道を確保するために新たに山越えのルート・山中越えを新設している。
そのルートの途中にあるのが宇佐山城で、関所の役目をしていたとされるから、防御を
固くしたんだと思われる。

虎御前山には石垣がない。『日本城郭体系』で山頂付近に石垣が残るとあったが、
それは間違いだろう、と決めつけてしまってよいのだろうか。今はないように見えるが
この城跡を何十年も見てきたわけでもないし、ましてや今日1回しか見ていないので、
城郭体系が発刊されたときはあったかもしれない。それが何かの理由でなくなったのか
埋もれたのか原因はよく分からないが、今は見当たらない。

枡形虎口を抜けると、そこは…

IMG_0968.jpg

本陣跡とされる削平地になる。資料Ⅴでは先程の長枡形の板塀?土塀?から
ここまで天主?らしきものが続いている。想像の産物なので、二重に
なっているのだろう。

IMG_0974.jpg
▲石碑と現地解説板

>虎御前山城
>伝織田信長陣跡
>信長の陣跡と伝えられる。山の最高所に位置する規模の大きな曲輪で
>北、東、西の三方を切り立った崖で防御されている。ここから南東に
>尾根が伸び、伝信長先兵陣地跡と伝わる曲輪群がある。
(現地解説板より)

そうそう信長先手という陣地跡もあるみたい。ただ、行き方が分からなかったので
今回は行っていない。佐久間信盛陣地跡同様、次回来る機会があれば是非行ってみたいが、
果たして行けるのだろうか…

それはそうと、ここにいたと言われる信長公の前に秀吉久政の首を持って
現れたことを想像すると、ゾクゾクしてくる。ただ、疑問に思うのは信長陣地でも
最北端に位置し、小谷城側に本陣があることが敵陣に向かって突出しすぎている
のではないかと思うのだが。いくらこの城が自然の地形に添って築かれたにしても、
TOPが前面に出るもんだろうか。赤い彗星・シャアじゃあるまいし。

信長公と同じ気持ちを味わうべく、ここでお昼休憩にした。家から持参していた弁当を
ここで広げ、上の写真に写っている木の椅子に腰掛けた。今までは麓からゆっくり歩いて
きたものの、汗を結構かいていたが、この休憩している間に汗が冷えてしまった。なんと
言っても風が強い。お弁当の写真を撮るのにも風呂敷がめくれて何度も抑えながら撮る
ことに成功した。が、ここではそれは掲載しない。

食べ終わると、先へ進もうとした矢先、北側から攻城してきたと思われる人が、ちょうど
自分がいる信長陣地跡に登ってきた。何奴っ!!とは思わなかったが、これまで人っ子1人
見なかったので貸切状態だったのだが、ようやくここで自分以外の訪問者に出会うことに
なった。

それでは、続きを攻城していくことにする。
石碑があった場所から北東側に位置する場所には、資料Ⅳで座敷と茶室・庭があったと
されている。

IMG_0982.jpg

それには玉砂利とも書かれていることから、ここからそれらが発掘されたということだろうか。
そういえば、この虎御前山城は発掘調査はされているのだろうか。そういった記事は虎姫館で
見ていないし、自分が近江の城に興味を持ち始めてからはそういった現地説明会などの情報は
入っていない。(後で知ったけど98年ぐらいに整備に伴い、発掘調査が行われてる。)

虎御前山城に入る前は横山城が最前線だったが、そこでは茶器や湯を沸かすような遺物が
陣城とした場所で発見されている。浅井氏攻めにかなりの時間を費やすことが信長陣営では
最初から分かっていたか、長引くことによって、後で持ち込まれたか。

お茶が武士の間に広まったのが鎌倉時代
会所で唐物を用いた茶会や闘茶(茶を飲んで産地を当てるのを競う)などが行われているから、
城にそういった場所がこの頃すでにあってもおかしくないのだが、陣城にまで持ち込むとは。

ちなみに資料Ⅴでは、茶室は復元されていない。もし、あったとしたら千利休待庵のような
狭い茶室だったのだろうか。(待庵は約2畳なので、トイレの個室2個分と想像出来る。)
そうでなければ、この場所には建てられなかったんじゃないだろうか。庭も併設していたという
くらいなので。織田信長が千利休を茶頭にするのが、小谷合戦があった天正元年だとされている
から、この合戦に呼ばれていてもおかしくはないか。ここに利休を呼んで茶事でもしていたの
かなぁ。利休と信長、ここにあったと思われる茶室で、おもてなしを受ける一方、お市などの
救出作戦はどうするかなどの話をしていたかもしれない。
(後で知るけど、千利休の茶室が2畳に変わるのは、60歳の頃でこの時はちょうど秀吉が
山崎の合戦で明智を下した時に重なる。それまでは武野紹鴎のコピーで4畳半という茶室
だったらしいから、ここで2畳と想像したのはそもそも間違いだったと思われる。)

ただ、この城に信長はどれだけの日数いたのだろうか。
茶をもてなしたりする余裕はあったのだろうか。
寝返った阿閉氏に茶をもてなしたのだろうか。
など、色々と想像してしまう。

信長陣地も後少し。この本人とされる郭1から北に一段下に腰郭が併設されている。

IMG_1003.jpg
▲本陣北の腰郭

階段を下りると腰郭の削平地に出た。復元図にはこの郭から本陣まで上がれるようには
描かれておらず、独立した郭となっているので少なからずこの信長陣地はかなり技巧的
に築かれていることが“復元図によって”理解できる。当時が本当にそうだったかどうか
は疑問だけど…

腰郭からもう一段下りれば、秀吉陣地跡まで続く道になる。

IMG_1006.jpg

ここを下りて、西側に回ってみると竪堀が2条ほどあるというので、
見てみたが

IMG_1009_20120607193128.jpg

あっ、あるかも。という具合しか分からない。

だいぶ話が戻るけど、堀秀政って秀吉の合戦では、前線にたつイメージがあって、
この信長陣地跡南にあった堀秀政陣地跡は虎姫館の解説において、八相山城という
浅井氏の支城だったために南からの攻撃を防ぐ遺構とあったけど、何も南が技巧的
だからと言って浅井氏時代の遺構と考えるのはどうなんだろう…だって、ここ(秀政陣地)
を突破されれば信長の陣地は次なので、技巧的にしていてもおかしくはない。秀吉陣地が
北を守り、南側を堀秀政が守った。そのため、秀政陣地は南側の守りが固くなった
んじゃないだろうか。

話が逸れたけど、次回は秀吉陣地跡。



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虎御前山城-10/織田信長陣地跡①
#47 虎御前山城-10/織田信長陣地跡① 【小谷編】


織田信長陣地跡

堀秀政陣地跡から歩いて5分もしないうちに信長陣地跡最南端にたどり着く。
距離は100メートルあるかないかくらいだったと思う。もう記憶があやふや…(汗)

ここの陣地跡は、大きな郭が4つ南北に連ね、その周辺(主に東側)を守護するか
のように帯郭が取り巻いていてる。それはここにいるものが誰なのか、それを
この遺構たちが物語っている。

まずは、最南端の郭4。

IMG_0924.jpg

ここはとくにこれと言って遺構があるわけではなく、段差があるくらいで、
登るのは容易。堀秀政から続く道が緩やかに、そしてここだけ少し傾斜が
つくくらい。ちょっと注意して歩いていないと分かりづらい。

今いる郭4上からは北に接続する郭3が見えている。

IMG_0927.jpg
▲郭3南端の切岸

切岸が見事ですぐには登れそうにないことから、丸太を用いた階段が
整備されている。少し斜めっているが、城の虎口らしく直進して上へ
登ることが出来ない。しかし、これは往時の道ではないらしい。
上へと行く前に、左(東)側の下方を見下ろすと帯郭が見えた。

IMG_0928.jpg
▲郭4から東の帯郭を望む

ちなみに今見ている方角が横矢になっているんだそうだ。
全く分からない!!帯郭に対して、横矢が掛けれるのは分かるんだが、
この郭4と次に行く郭3のちょうど境に鍵型(横矢)の入れ隅があるらしい
のだが理解に苦しむ。上の写真を見て、読者の方も全く分からないと
思うけど、大坂城屏風折れにあるような横矢掛けが施された凹凸を
イメージしてもらえばいいのだが、それでもここと重なる気配がない。

縄張図と見比べながら確認してみるが、これがここで…などと考えながら見て、
結局これを指してるのかな?なんて自分の都合のいいように解釈して満足して
しまったが、果たして横矢で正しかったんだろうか。もしかしたら、下の帯郭
から見れば分かったかもしれないが後の祭り。

IMG_0935.jpg
▲横矢となる場所を上から望む

ここでふとテンパる事件発生。
資料Ⅰと現地が全く違っている。資料Ⅰとは多賀貞能陣地跡で書いたが、
『図説中世城郭辞典』のこと。これ大分古い本だから、実際現地とおかしくても
仕方がないか。資料Ⅰでは、堀秀政陣地跡の解説を信長陣地跡として掲載している。
じゃあ、信長陣地跡の説明はというと木下藤吉郎陣地として書かれている。
オーマイゴッド!!1つずつズレてる…
発行されてから最近までの間に伝○○○陣地跡というのが変わったのか、
それとも単に『図説中世城郭辞典』が間違えているだけなのか。

こんな事って、今までに経験がない。なのでテンパるのにも無理はない。
と自分に言い聞かせつつ、資料Ⅰはこの後参考程度に見つつ、虎姫館の資料Ⅳを
メインに見ていくことにした。

その資料Ⅳには、
>砦はケーキの段重ねのように段々になっていて、山の一番高い所に位置している。
>険しい切岸によって城内が守られている。信長の郭には重要な人しか入れない。
>茶室があり、横山城石山寺方面が見られる。特に小谷城は正面に見える。三方向が
>見渡せる一番いい位置にある。
(虎姫館より)
と書かれている。

ケーキの段重ね具合では、堀秀政の方が上だと思うけど、一応ここも
東面に犬走りと名付けられた帯郭がいくつか設けられている。

郭4から郭3に上がると、奥にまた郭2へと続いている様子が見える。

IMG_0939.jpg

郭3は信長陣地跡の中で一番南北に広い。そのためか郭2が小さく見える。
奥へズカズカ歩いて行くと、郭2の切岸にぶつかった。

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▲郭2切岸

このまま登ってもいいが右手には帯郭が接続されていたので、少し立ち寄ってみた。

IMG_0941.jpg
▲郭2東側帯郭

意外と幅がとられており、この奥へ行くと“帯曲輪”と書かれた立札がある。
そこまで行くと、この陣地跡名物とも言える大土塁と出会える。

IMG_0944.jpg
▲帯郭から大土塁を望む

これが土塁の規模ですかっ!!と声を張り上げて叫びたいくらいの大きさ。
竪土塁っていうものだろうか。小谷城本丸から下にかけてあった石積み
補強された竪土塁なんてカスに見えるくらいの規模。上から見下ろしている
からか、ちょっと伝えにくい部分があるが、手前に写る木の大きさとその奥
に写る木の大きさは全く違って、奥の方は遠近法でかメチャクチャ小さい。
それほどこの今いる位置が高いってこと。

奥に写っている木が生えた場所から、この土塁を見上げれば壮観だと思う。
何故そうしないかというと、藪が苦手だから。この時期は少ないほうだったかも
しれないけど、小枝とかがあるのに抵抗がある。理由は小さい頃に藪の中で、目を
突いたことがあるから。血が出て救急車騒ぎになったというほどの苦い経験…

上の写真見れば分かるでしょ?
そこかしこに小さな枝がいっぱい見境もなく生えているのが。

それにしても、この土塁が持つ意味は何なんだろう。
単なる仕切土塁と解釈していいんだろうか。仕切土塁は大坂城二条城など
近世城郭で見られる石垣に変わり、仕切門とあるが中世城郭では土塁による郭の
区分けが施されている。頭に思い浮かぶのが静岡にある諏訪原城

その解釈を補ってくれる資料として、虎姫館にあった長谷川博美氏が描いた
伝織田信長虎御前山陣城推定復元図が物語っている。これには、ちょうど自分が
上の大土塁を写すときに立っている場所に城門が描かれている。そして下の帯郭
へとつながっている大土塁には(板?)塀が小谷城側(北)に設置されている。下の
帯郭にある野営施設から人の行き来を意味しているのではないだろうか。逆に
言えば、敵兵も登ってこれるんだけど。それは上にある帯郭から射かければ事が
済むのかもしれない。

この竪土塁から東側に行くと、中世山城の特徴である小規模の削平地が
続き、佐久間信盛陣地跡へと続いているようだけど、帯郭へ下りなかった
ことからも分かるように、そこへは行かなかった。次回来ることがあれば
行きたい。虎姫館に城郭原図と称される縄張図は堀秀政、そして信長、この
後に行く秀吉・勝家があったが、信盛のはなかったのであまり研究対象には
なっていないのかも。それに行きづらいのかもしれない。虎御前山のガイド
マップには掲載されていなかったから。

振り返ると、帯郭に立ち寄る前に登ろうとした郭2が見える。

IMG_0947_20120531122126.jpg

南側から見ているときは、何とも感じなかったが、郭2の南東隅を東側から見てみると、
こんもりと凸になっていることが分かる。先ほど述べていた信長陣地の推定復元図
(資料Ⅴとする)には、このこんもりとした上に櫓門が築かれている。つまり、大土塁を
登ってきた敵に対しては、ちゃんと攻撃できるように防御がしっかりと施されてる。
それに郭2に上がるのは、今見えている位置から登っていくように描かれていて、丸太
で出来た階段から登るようにはなっていない。そもそも郭4から2までは南面の切岸に
あった丸太の階段を登ってきたが、どうやら当時はそうではなかった事を長谷川先生は
考えているようだ。確かに南面を上がっていくのでは芸がない。

ちなみにその復元図では郭4と郭3が完全に独立していて、登城道が通過していない。
この記事前半で、切岸にあった登城道が往時のものではないと言っていたのもこれが理由。
言葉で説明するのが難しいので、是非虎姫館に行って確認していただきたい。
今自分が攻城してきた南側から北側(最高所)へ抜けるには、どうやら先ほど見下ろ
していた帯郭から大土塁を上がってくるのが正式っぽい。土塁の上が登城道っていう
のは全国でも珍しい遺構なんじゃないだろうか。

さて、自分はというともちろんここから登らない。
郭2の南面切岸にあった丸太の階段まで戻り、郭2へと上がった。

IMG_0949.jpg

とうとう織田信長が座したとされる本陣(郭1)が見えてきた!!

続きは次回。




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虎御前山城-9/堀秀政陣地跡②
#46 虎御前山城-9/堀秀政陣地跡② 【小谷編】

横堀・竪堀を伴う土橋を渡ると、次に待ち受ける遺構は、前方後円墳
開削した郭郡がここより北側にあり、その前面つまり南面に塹壕堀切
というものが配されている。

※麓の虎姫館にあった城郭原図を本記事以降、資料Ⅳと称す。

IMG_0901.jpg
塹壕堀切を右横から望む

資料Ⅳには、
>塹壕堀切とは
>堀切の土を敵方に積み上げ、攻撃する側の防御に使う
と書かれている。

こういった名前の遺構、ここが初めてなんだけど、塹壕っていうのは、
よく戦争映画でも描写されていて兵隊が戦場で鉄砲を持って走っていたり、
伏せたりしている堀を表していて、アニメでも鋼の錬金術師の戦争シーン
で描かれていることから一般的には認知されているけど、意識しないで
見ていることが多い。城に至っては、こういった郭内に小規模で存在して
いたりするんだねぇ~

他の城でも小規模な堀切の所で、こういった内容と類似した内容をたまに目にする。
賤ヶ岳砦なんかも、そういった説明がある城の1つ。

ここに城兵が身を潜めて、攻めてきた敵兵に射撃する。
正直、その用途にしては堀の深さがあまりにも浅いのでは?という気がする。
鉄砲も銃身が長く、とてもじゃないが全ての所作を身をかがめて行うことは難しい。
弾込めする時には、必ず立たなければならず、今のSATや警察のように
伏せて撃つことなど到底出来ない。弾込めが終われば、スナイパーの
ように寝そべって撃つことは可能だろうけど…

本当にこういった用途で使っていたんだろうか?
もしかしたら、この凸地の上に盾とかでも配備していたんだろうか。

ただ、資料Ⅳを観る限り、この塹壕が向いている先は奇しくも先ほど
通ってきた土橋を向いている(上の写真で言うと、左方向に土橋がある)。
つまり、ここから先ほどの土橋を通ってきた敵兵に一斉射撃を食らわして
やることが出来るという解釈なんだろう。

ただし、野戦における陣地内の塹壕には別の用途もあり、それは出撃用のものということ。
つまりは敵に対して姿を露出させずに攻撃へと発進するために身を隠す塹壕(仕寄)として
使われ、何もここから必ず攻撃しなければならないと決まっているわけではない。
要は待ち伏せと解釈すればいいのかな。敵が近づいてきたら、ここから出撃して倒す
みたいな用途だったのかもしれない。

と考えると、ここまで浅いのも納得がいく。

IMG_0903_20120523204618.jpg
馬出(手前の木がある場所、奥はこの陣地跡最高所)

その塹壕北側に今度控えているのが、資料Ⅳで“馬出?”と記されている場所
であるが、?と書かれていることから、ただ単に名前を付けた遺構かもしれない。

IMG_0904_20120523204617.jpg

秀政陣地跡最高所は、馬出の脇から登れるように整備されている。
ここを登ってみると、

IMG_0910.jpg
▲後円墳にある石碑

石碑があるが、滝川一益陣地跡同様解説はなかった。
虎姫館で見た肖像画が、面白い顔をしてたのが印象的だったお人。

>天文22年(1553)美濃に生まれる。堀家は斎藤氏に仕えていたが、秀政13歳のとき
>信長に仕える。元亀3年(1572)の小谷城攻防戦において虎御前山に陣を構え、信長の
>命で朝倉氏に決戦を申し入れる使者となる。その後も信長に従って各地を転戦。
>天正6年(1578)頃信長から近江坂田郡の知領を与えられ、秀吉のあと長浜城主となる。
>天正10年(1582)、秀吉が中国征伐の援兵を要請したとき、信長より派遣され、そのまま
>秀吉に属し、山崎の合戦では先鋒を務めた。さらに賤ヶ岳の合戦でも戦功をあげ、近江
>佐和山9万石を領する。天正13年(1585)、越前北ノ庄城に移封、同18年(1590)の小田原
>征伐陣中で病没。38歳の若さであった。
(虎姫館より)

虎御前山南側から最初にあった陣地は多賀貞能がいたが、この人の婿養子に
行っているのが、堀秀政の弟・秀種。一緒に虎御前山にいたのかなと思った
けど、秀政は小谷城攻めの時は20歳。秀種は秀政より12歳下なので、この時8歳。
なので、弟は陣中にはいなかっただろうね。

20歳の頃はというと、今じゃ大学生になりたて。浪人してなければね。そんな年の時に
戦場へ繰り出していたんかぁ~と思うと、なんか今の世の中幸せだなぁ~って思う。

ちなみに龍馬さんは、19歳のときにようやく土佐を出て、江戸に剣術修行に行っているから
どちらかというと、自分達の時代に近い。

話が前後してしまうけど、多賀貞能のお父さんは多賀貞隆という人で、元々は京極氏の被官。
しまいには六角氏に寝返ったりして、浅井氏と六角氏のいざこざが起きて、六角氏の先鋒として
佐和山城を攻め落としていたりする。そんな人の子供がいつの間にか、観音寺騒動・信長の
近江侵攻を経て、織田方にくっついてこの戦場に来てる。堀秀政の弟が多賀家に養子に行って
いるのは調略の1つだったんだろうか。詳しくは動向が追いきれていないので、妄想に頼る
ところがある。

後円墳になっている郭からやや下って北に向かうと、前方後円墳の前方部分だとされている
場所に踏み入る。周囲には帯郭が接続されていることが上から下方を覗くことで分かる。

IMG_0916_20120523204615.jpg

前方部分を下りてから、今歩いてきた郭(南側)を見ると、前方後円墳の形を
しているのがハッキリ分かる。前方部分(上の写真右側)が小谷城側(北)を
向いている。

IMG_0919.jpg

先ほど、古墳の上から見ていた帯郭に解説があった。「犬走り」とあるが、
近世城郭のそれとは違う。よく岸和田城今治城、彦根城などで石垣の下端に
水堀側に人1人歩けるくらいのスペースがあるが、ここはそれらと違って、石垣
がない。石垣の崩壊止めというのではなく、土塁ここでは古墳跡とされる郭の
土留めとする解釈っぽい。本などでは土塁上に設けた土塀の内側・外側で名前を
分け、外側を「犬走り」と呼んでいる。(一方、内側は「武者走り」と呼ぶ。)

犬走りとは城外側のちょっとしたスペースのことを指すんだろうか。
なんにせよ、ここは無理やり名前が付けられた感が否めない。

この遺構(犬走り)は西側にあり、反対の東側にはこの陣地跡最大の竪堀が資料Ⅳには
記載されていたが、自分の目には、これで合ってるのかな?というくらいしか認める
ことが出来なかった。もしかしたら規模が大きすぎて、逆に分かりづらいとか?

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堀秀政陣地跡北から信長陣地まで続く道

ちょっと名残惜しくも、この地を後にすることにした。
さて、お次は織田信長陣地跡。はやる気持ちを抑え、このまま北へと進んでいく。

この記事をUPした5/27、堀秀政
小田原の役で陣中病没。
※ただし、旧暦の話

亡くなった秀政にこの記事を捧げる。




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