#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



カテゴリ



最新記事



Link

このブログをリンクに追加する



検索フォーム



RSSリンクの表示



カウンター



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


二条城-10
【二条城-10(Date:2012/1/9)】

出世稲荷神社から早馬(レンタサイクル)で石碑をいくつか見ながら、
二条城外堀西側にたどり着く。

今回は、2011/12/24の二条城攻城で見れなかったところを見学していくことに。

二条城撮影所跡の碑から横断歩道を渡ると、
西南隅櫓が見えてくる。

この時、ずっと曇っていた空から日が射した。

7052.jpg
▲西南隅櫓

石落しが付いている。
もちろん、葵紋の瓦も…

家光によって増築された二条城二ノ丸の四隅には隅櫓が建っていたが、
西北と東北の隅櫓は本丸の殿舎同様、天明の大火で焼失してしまったため、現存するのは
この西南隅櫓と最初の記事(二条城-1)で触れた東南隅櫓の2つのみ。

東南隅櫓と大きさは同じだと思うけど、破風が違う。
東南隅櫓は南側に千鳥破風がついていたけど、この西南隅櫓は西側に唐破風がついている。
隅櫓4つ意匠が違ってたのかなぁ......

西南隅櫓から北進していくと、次に見えてくるのは西門
ここの門は、以前記事に記述したように内枡形埋門タイプ。

7082.jpg

内枡形なので、外側に枡形が出ていない。
確認するなら城内側から見ないと厳しいが、城内では立ち入りが制限されていて
結局は確認することが厳しい。

かろうじて本丸から西橋を渡ってすぐにある城郭建築風のトイレ(脇に休憩所がある場所)の側に
西門の石垣があるので、城内側にある内枡形遺構を感じることが出来る。
(二条城-7に記述)

西門を見て気づいたのが、この門に向かって外堀の外周側(写真左下)から少し
石垣が延びていること。(縄張図を見ても、少し門に向かって出ているのが分かる)

あぁ、橋があったのか。その名残がこの出っ張りか…
東大手門・北大手門土橋で渡るのに対し、ここの西門は土橋で渡らない。
本丸に一番近い門のため、守城側が橋を落とせるようにしたのだろうか。

城外側からもし通ることが出来るなら、左折れの内枡形なので、
大坂城大手門を通る感覚に似ていると思う。
しかし、大坂城の大手門とは違うところがあり、二条城には横矢を掛ける櫓(千貫櫓)がない。
あと、多聞櫓も規模も違う。(じゃあ、全然違うじゃん!!というツッコミはなしでお願いします)

この西門は、
南中仕切門・北中仕切門同様、寛永期(家光増築期)に造られたもの。

実はこの門、大政奉還を発表した十五代将軍慶喜が二条城から退出する際に、
通ったと言われていて、元離宮二条城のHPにあるPDFマップでは、この門から
大坂城へ逃げたという言い伝えがあると記載されている。

二条城から大坂城へ行ったのは、王政復古の後。
この時は二条城に幕臣の会津藩・桑名藩などがつめていたという。
理由が戦争回避とあるので、逃げると言うよりは退去という言葉の方がやっぱり正しいかな…

この西門の位置は、京都御所から見て裏側に当たる。
なので、当時の人たちは、裏からコソコソとなんて思ったのではないだろうか。

ちなみに二条城現地に、この西門の説明版はない。
名古屋城埋門跡の現説版には下記のように記載されている。
>埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門をいう。
>埋門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり城が危急の場合
>城主はここから脱出することが決められていた。(以下略)
(うろ覚えだったので後日確認した)

この記憶が何となくあったので、PDFマップに記載されていた言い伝えを読んだ時は
なるほど、と思った。

西門は城外への脱出用として決められていたんかなぁ~って勝手に想像。
(二条城の記事を通して、名古屋城との比較が多いのは名古屋城に通いつめているからだろうなw)

この西門だけ、内枡形なのに今でも疑問がある。
枡形になっているのって、二条城でここだけ。(築地・東大手門・番所で囲われた枡形は除く)

心理的なものなのかなぁ~
外堀側からは平虎口に見えるけど、ここを突破したら
実は枡形でしたぁ~みたいな防御だったのだろうか。

さてさて、時計回りに二条城の外堀を回っていく。

7098.jpg
▲二条城二ノ丸西北隅・外堀(北)を外堀外から見る

上の写真右に見える石垣上に西北隅櫓があったんだと思う。

西北隅のコーナーを右(東)に曲がり、二条城の外堀中央真北にたどり着く。
ここらへんが家康築城期の西北隅だと思う。

7099.jpg

ここに、その時の天守が上げられていたのではないかな?と思いつつ、
幕末の頃には、この付近に物見太鼓櫓が上がっていたと本で調べていた。

しかし、本に記載されていた場所はここではなく、東北の間違いだったんじゃ?って、後日思った。

なぜなら、二条城にある鐘楼の現説版に、幕末の政変の時期、
東北隅の辰櫓(四隅にある隅櫓、その内の東北隅櫓を指す)跡に火の見櫓が建てられたと
書かれていた。

もしかして、本に掲載されていたのは、この火の見櫓の事?
と思い、帰宅後、本を読み返すと“天守の代わりにあげられた物見太鼓矢倉”とし書いていない。
でも、脇にある写真をよく見てみると、東北隅櫓の位置にあるように見える。
外堀の東側の土塀が連なっている。
多分、天守の代わりにという言葉から家康築城時の西北にあった天守と誤解したんだと
思い、本の「物見太鼓矢倉」=現説版「辰櫓」が同じ事を指すんだと、ようやく理解した。

そこから少し東へ行くと、今度は北大手門を城外側から見ることになる。

7107.jpg

この時間、逆行で厳しかった。
東大手門同様、デカいし形状は似ている。いや似ているというか、ほとんど同じ。
2つとも慶長の創建時に出来たものだから、似ていて当然か。と思うけど、
そもそもそっくりそのまま同じ門があるお城って意外と珍しいんじゃないだろうか。

後ろに振り返ると二条城内を見渡せそうなマンションが建っていた。

7113.jpg
▲マンション脇にある看板

入居者募集中か?ここからもキャッスルビューできるのか…
家からお城を俯瞰することが出来るなんて夢のまた夢の話だな。

さて、ここから二条城を外れ、北側へと向かった。
どこへ行くかと言うと、京都所司代跡(これは後日、別の記事にします)。

京都所司代跡を見てから、また二条城外堀に戻ってきて、
今度は東側の外堀沿いを南下していく。

東大手門の前に着いたときは、ちょうど閉門が近いのか、
大きい方の門扉は閉められ、脇の小さい方が開いていた。

7119.jpg
▲東大手門の小さな門(1/9なので、門松が置かれていました)

あぁ、なるほど。
あの脇の小さい門は、この時に使われるのか。
名古屋城の正門も閉館間際は脇の小さな門が開くもんなぁ~

と思いつつ、見上げると、

7123.jpg

ツイッターで知った東大手門の修復工事が行われていた。

さらに南下すると、東南隅櫓に到達する。

7126.jpg

あっ、12/24の時より覆われている。
もう、痛々しい姿は見ることが出来なかった。次、顔を出す時は綺麗になってからだなぁ~
早く西南隅櫓(この記事TOPの写真)のように元気な姿になれよぉ~

これで、二条城の記事は終了。

追伸、東南隅櫓は桜サク頃には顔を出すそうです。
楽しみですねぇ~♪

[完]



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

スポンサーサイト

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術




< /body>