#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-9/御馬屋
#13 小谷城-9/御馬屋 【小谷編】

御茶屋跡の上は御馬屋に当たり、
御茶屋から見れば、一段高い曲輪になる。

名称未設定-1
小谷城主要部先端図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

上図右のオレンジ色のラインが登城道なのだが、見て分かる通り、曲輪を経由せずに
そのまま上の曲輪へと進むことが出来る。
これが本来の登城道だとすれば(多分そうなんだろうけど)、かなり防備が薄いと思った。
近世城郭虎口・曲輪・櫓などの配置で巧みに攻城者の導線を曲げたり横矢
かけたりしているが、小谷城はほとんどない。
恥ずかしい話、こういった山城を登るのは片手で数えられる程度だったため、
どこと似ているかはすぐに出てこなかった。
が、数ヶ月前に登城した浅井氏の支城だった鎌刃城はこんな縄張図だったなぁ~
って思い出した。あそこも曲輪を並べた連郭式で導線の巧みさはなかった。

また一般的(?)なお城で例えるなら、犬山城に近いと思う。
犬山城の登城道も曲輪内を通過せずに本丸へとたどり着ける。

前回述べた御茶屋跡と、今回述べる御馬屋跡(黄色の線で囲んだ箇所)
そしてその上の桜馬場跡は上図のように配置されている。

IMG_0836.jpg
御馬屋先端斜面

つまり、御茶屋跡から上を見上げれば、御馬屋跡の斜面(切岸)が見える。
3.5メートルから4メートルは高さがあるように感じた。
(切岸は正確な表現ではないかも。前回記述したように御馬屋斜面には
石積が存在していた)

この辺りから、周りが騒がしくなった。ある程度まとまった人数のグループが登り下りしてくる。
その中の一人は目立つ格好をしていて先導するガイドさんと思しき人。
その人を取り囲むように、胸には〇〇班と名札を付けた人たちがいる。
班の名前には、確か『茶々班』『江班』などと書かれていた。博覧会期間中の間は、
こういった対応をしているのだろうか。
小谷城跡ではボランティアガイドさんが、無料でガイドしてくれるというのは
あらかじめ知っていたが、多分その類なんだろうなぁ~と思った。

御茶屋跡から少し登ると、御馬屋跡の入り口にたどり着く。
そこには馬洗池御馬屋跡の合同の立札があった。


御馬屋跡

IMG_0840.jpg
▲御馬屋跡(東にある虎口方面から撮影)

>御馬屋
>(前略)土塁で囲った馬屋があり北の柳の馬場に通じており
>馬関係の一画である。
(虎口にある立札①より)

上の虎口から御馬屋を撮影した写真の土塁部分に色を付けると、

IMG_0840 のコピー

このように土塁で曲輪を囲み、遺構はしっかり確認できる。

柳の馬場というのは、この御馬屋曲輪の別称だと、ある本には
書かれていた気がするが、何の本だったか思い出せない。
立札を読む限り、御馬屋曲輪を南北に仕切った内の北のことを指すと思われる。
上の図にも南北で段差があることが分かるが、実際現地ではよく分からなかった。

曲輪の中央に石碑があるので、この虎口から入っていくのだが、
三方に巡らされた土塁をまたぐ形で中へ入っていった。
(長年踏み固められて、土塁上に道が出来たのかな?)

御馬屋跡の碑と現地説明板が曲輪中央にあるので、写真を撮っていたら、
先程の班のガイドさんが走ってきて、説明し始めた。
観光客は誰も近くに来ず、御馬屋の入り口(虎口付近)に立ち、解説を聞いているため、
ガイドさんが大声で喋るはめになって、思わずその光景に苦笑してしまった。

一番近くで聞いていたのは自分になるが、
その内容は、何でも馬屋跡の中央には井戸があり、ここで馬を洗っていたのではないか?
というもので、馬洗池は城主たちの生活の池だったのではないか?と
考えられていると説明していた。

ふむふむ、そぉ~なんですか。

IMG_0843.jpg
▲ガイドさんが指していた井戸

ガイドさんが必死に身振り手振りで井戸を指していたので、
近くにいた自分は写真を撮っておいた。

曲輪中央にある現地説明板と立札に話を戻すと、下記のように書かれていた。

>御馬屋跡
>三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。本丸の前面にあり本丸を守るため
>の曲輪である。ここから、清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。
(立札②より)

>御馬屋跡
>高い土塁が三方を取り囲んだ特徴的な構造を持つ曲輪である。
>名称通り馬小屋があったかは意見が分かれるところである。
>北東にある馬洗池は、文字通り馬を洗った池と解するよりは、
>桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀と考えたほうがよい。
>中央に井戸があったことが確認されている。
(現地説明板より)

IMG_0844.jpg
▲御馬屋跡南側土塁

虎口からも見えたように、土塁は三方を囲まれているのが分かる。
と言っても、顕著に残っているのは南側から東側にかけて。
西側(虎口とは反対側)はあまり高さがない。

上の写真は色を付けなくても、土塁の高さが感じ取れると思う。
しかし、往時はこんなに低かったとは思えないけど…

上の現説で明記されていない“意見が分かれる”という表現。
馬小屋があったという意見と別の意見で分かれているというふうに
読めるが、この現説では分からなかった。
が、麓でもらったパンフを読むとハッキリした。
分かれている意見の一つが『馬出』と書かれていた。

馬出一つ取っても、研究者によって定義が異なるので、
自分がここで言及するのは無理だが、簡単に言うと、
“城門の前の堀を渡る木橋や土橋の先に小さな陣地をつくる。これが馬出。”
(ビジュアルワイド日本名城百選より)
これに攻撃性や防御性を唱えたものが研究者によって唱えられている。

略記された馬出で考えると、この御馬屋跡は馬出とは思えないんだが…
木橋土橋ないし。

この御馬屋跡は少し前まで、木が沢山聳え立っていた。
(見たことはないが写真は見たことがある)
この前の曲輪・御茶屋跡のように木々が生えていたが、整備で
伐採されたみたい。(博覧会に合わせて切られたのかな?)

その切られた木の一つに注目してみると、

IMG_0848.jpg

イス型に整えられていた。

ふと時計に目を向けると12:46を回っていた。すでに麓から攻めて1時間40分経過。
お昼は大広間跡で食べたかったが、相方がお腹すかしていると思い、
ここでご飯食べるか相談したところ、大広間跡まで我慢すると言ったので、
引き続き攻城を進めた。

次の曲輪・桜馬場先端の斜面を見てみると、

IMG_0850.jpg

木がかなりの数、無造作に置かれていた。
これはイス型に伐採された木の残骸なんじゃないかなぁ。

次回、馬洗池へと続く。


To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術




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