#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-27/山王丸④
#31 小谷城-27/山王丸④ 【小谷編】

山王丸の3段目から北を見ると、次の4段目が見える。
この4段目で山王丸の曲輪は踏破する。

IMG_1278.jpg
▲山王丸3段目中央より4段目の切岸を望む

離れたところから見ても結構盛り上がっていることがよく分かり、
この切岸まで近づくと、中央に登り口があった。

石がチラホラあるが、ここは石積みで覆われていたのかなぁ~と
思ったが、石は小さいものばっかり。石コロと呼べる代物。

IMG_1280.jpg
▲山王丸4段目登り口

急斜面を登るようになるが、写真を見て分かる(?)ように屈曲が
つけられていて、虎口特有の折れを感じたが、そうではないんだろうか…

登りきると、振り返ってこの切岸上端を見てみた。
4段目の削平地より盛り上がっているので、土塁の遺構だと
はっきり分かる。

IMG_1282.jpg

見たときはただの土塁だと思ったが、視線を奥まで向けると、
土で造形されているだけではないことが分かった。上の写真で
土塁の右側に“あるもの”が見える。近くまで寄ってみると、

IMG_1283.jpg
▲虎口西側の土塁石積み

石積みで固められている。この土塁の逆側(虎口から見て東側)
の土塁にも石積みがはっきりと残っている。

IMG_1287.jpg
▲虎口西東側の土塁石積み

これらの石積みは下調べの段階では、把握しきれていなかったので、
予定外の遺構が確認できて、テンションが上がった。ここで4段目の
削平地に目を戻すと、至って普通な平地が見て取れる。

IMG_1285.jpg
▲山王丸4段目削平地

これ以上先は特に見所はない。
山王丸はこれまでの記事①~④で書いたことがほぼ全て。
(若干見逃しているところがあるが、たいして重要ではない。
例えば大石垣の北に「絶景の岩屋」に下る道があるとかね。)

今回のをまとめると、

sannnoumaru4.jpg
▲小谷城山王丸付近図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

③とある山王丸3段目から④の4段目へと中央の虎口から入り、左右に
土塁があったことを確認した。それより北は特に見るものがない。

前回の記事で先延ばしにしていた現説の“詰の丸”という表現。

これまでの攻城記を順を追って読んでいる方であれば、
また小谷城を登城したことがある人からすれば、小谷城の異質さが
分かると思う。すでに小谷城の伝本丸とされる場所は通り過ぎた。
そこからさらに北の曲輪を攻城し続けているが、今いる場所は本丸
よりも高所。つまり、本丸が最高所ではなく、北へ行けば行くほど
高所になっている。

今いる山王丸の標高は395M、ここから南にあった鐘丸(本丸)の標高は355M。
比高約40M。(本当はもっとあるんじゃないかなぁ~と思うんだけど。)

本丸と呼ばれる鐘丸があるこの小谷城東尾根部の最高所は山王丸に値し、
この主要部の本当の意味での本丸・主郭に相当すると評価されている。
このことから、この山王丸が東尾根での“詰の丸”と表現される所以だと
思われる。

彦根城博物館所蔵小谷古城図にはこの山王丸が“後天守台”と記され、
鐘丸(本丸)部を“天守”と記してある。これは秀吉による天守台という意味だろうか?
って本には書かれていたけど、彦根城博物館蔵や他の小谷城図を見ても後天守台
という記述はなく、本丸の天守しか記載されていなかった。
まだ他に小谷城図があるのか、筆者の勘違いかなんなのか…

山王丸を訪れると分かるけど上の話を裏付けるように石垣が随所に残って
おり、本丸の石垣の石より大きい。前述したように秀吉が石垣を改修している
という話(もしかしてこの話、上記の古城図に後天守台とあるから出てきた説?)
も出ているくらいだから、確かに秀吉時代はここが本丸として扱われていた
とも考えられるよねぇ。とはいえ、この山王丸の虎口は異質なのがどうしても
引っかかるわけだけど。枡形と行っても、直進して入るタイプだからなぁ~
ここがもし従来の枡形遺構なら、秀吉がいたから織豊系城郭になったんです。
なぁ~んて最もな理由つけられちゃうんだろうな。

さて、大堀切の記事で先延ばしにしていた話に移る。
大堀切より北の曲輪をいくつか紹介できたので、ようやく準備が整った。

現在小谷城と呼ばれる曲輪遺構は各所に点在するものの、今まで攻城してきた
主郭がある東尾根(長光山)、山崎丸・福寿丸がある西尾根(尾崎山)、大嶽がある
小谷山、月所丸、焼尾丸で構成されるうち、多くの人が訪れていると思われる
東尾根の主郭群は、以前記事にした大規模な大堀切を境にして小谷城主要部が
分断されている。この大規模な大堀切は他に例がなく、昔から議論されてきた
らしい。

滋賀県教育委員会「滋賀県中世城郭分布調査図」七では当初の小谷城は
「鐘丸」から南の部分だけだったとし、背後(北)からの攻撃を防ぐために
「大堀切」を設けて、京極丸以降北の曲輪を増設したとしている。
(当初のという表現は、大嶽を無視していると思われる。)

一方、現在最も小谷城を合理的かつ詳細な分析をされている北村圭弘氏は、
大堀切を境にした南と北の曲輪での居住者の相違から、質的な相違を指摘
されている。(ちなみにこの北村氏は山王社を伊吹権現を勧請したものと
説いているが、これは他の人より誤りだと指摘されている。)

―大堀切より北の曲輪―
京極丸…守護京極氏の居所
山王丸…山王社が勧請されていた曲輪
六坊…寺院の出張所が置かれた場所(後述予定)

さらには以前記述したように、京極丸は「信長公記」で秀吉が落としたとして
おり、“京極つぶら”と記載されている。このことから、江戸時代よりも前、
小谷城が機能しているころから「京極丸」と呼ばれていたことが分かっている。
(信長公記の成立年代、間違った内容などは置いといてってことかな)
つまり、大堀切より北の曲輪には神社と京極氏がいたことになる。
(京極氏は普段いなかったとする麓の資料の説はどこへいったのやら
と思うけど。)

逆に大堀切より南の曲輪群は浅井氏の居所だったとされている。
これらのことを踏まえ、浅井氏は自分たち居所よりも上の標高にある
曲輪に京極氏を置くことで、その執政である自らの地位を城郭構造上
にも反映したという説を読んだ時は、おぉ~と思いながらゾクゾクした。
突っ込みどころはあれど、それを上回る内容に陶酔し、うんうんと首肯
してしまった。

話が長くなったので、攻城の続きに戻ると、

山王丸をこれで全て堪能したので、小谷城東尾根最後の曲輪・六坊へと
向かう。4段目からはヒョロヒョロ~っと道が北へ続いており、ここを奥へ
突き進んでいく。

IMG_1288.jpg

道中、分かりやすいように案内がある。

IMG_1290.jpg

て、て、手書き…

経費節約か?プリントする余裕なかったんだろうか。
大河効果で潤ったら、ちゃんとしたものに変えても
いいと思うけど、まぁ手書きも味があっていいか。

次回、六坊跡へと続く。



To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術




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