#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



カテゴリ



最新記事



Link

このブログをリンクに追加する



検索フォーム



RSSリンクの表示



カウンター



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


虎御前山城-4/蜂屋頼隆陣地跡
#41 虎御前山城-4/蜂屋頼隆陣地跡 【小谷編】

蜂屋頼隆陣地跡への案内があってから、2つの分岐点があったが、
どれも間違えた選択をせずに、陣跡へ辿り着いた。


蜂屋頼隆陣地跡

IMG_0759.jpg
▲蜂屋頼隆陣地跡1段目

この丘の手前、ちょうどこの写真を撮っている場所からは、多賀貞能陣跡
同様南側の眺望が優れていた。と言っても、この日はあいにくの曇り…
大していい景色とは言えないので、掲載は省略。

丘を登ると、一旦踊り場的な平坦地になるが、わずかで
さらに数段登る。

IMG_0760.jpg
▲蜂屋頼隆陣地跡2段目

上の写真真ん中ちょい左くらいにちょろっと解説板が見えるのが分かるかなぁ…?
その解説板真向かいに、“蜂屋頼隆陣地跡”の石碑と現説板がある。

IMG_0761_20120426121554.jpg

>蜂屋頼隆<よりたか>
>美濃
>?~天正十七年(一五八九)九月二十五日
>織田信長に仕えてより頭角をあらわす。
>元亀三年(一五七ニ)の江北出陣に従軍。虎御前山に陣を構え、柴田勝家・
>丹羽長秀・佐久間重盛らとともに小谷の町を破った。その後も越後朝倉
>攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦している。近江国愛知郡肥田城主に
>封じられたのはこの頃か。
>天正十年(一五八ニ)に勃発した本能寺の変直後、頼隆は新たに封じられた
>和泉岸和田に居たようだが、その後の山崎合戦で羽柴秀吉に属し主君の仇
>を討った。同十三年(一五八五)越前敦賀城主に転封、同十六年(一五八八)
>には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれた。継嗣がなく、家は
>廃絶となった。
(現説板より)

麓の虎姫館には、この頼隆という御仁は、はじめ土岐氏に仕えた後、斎藤氏
に従ったが、永禄7年(1564)の信長美濃攻めの時に家臣になったとあり、
もうちょっと細かく書かれていた。

石碑とは反対側に“歴史と伝説の山”と題した案内板があった。
>(前略)蜂屋頼隆陣が築かれていた「北山古墳」や(中略)
>また八相山には奈良時代天平宝字二年(756)孝謙天皇の勅願により大嶽寺十ヶ寺
>の一つとして成道寺が建立され僧坊十戸があったとされている。この成道寺跡の
>一部にいま矢合神社が建てられている。
と書かれている。(一部抜粋)

zu1.jpg
▲歴史と伝説の山に描かれた図(一部抜粋)

(あっ…矢合神社の下に一本松古墳と書かれているから、やっぱり合ってたんだ。)

北山古墳」という言葉が見られるように、この陣地跡も古墳。
その形は、この最頂部にたどり着くまでに踊り場を経由して登ったとわざと
くどくど表現したことから分かるように、「前方後円墳」の形をしている。
別の角度、この丘全体を見ることが出来る位置まで下がってみたが、
前方後円墳には見えなかった。

資料Ⅰには、この盛り上がった古墳上にがであったのではないかと
書かれている。確かに即席の物見台的なものがあったかも。

また、“成道寺”なるものがこの案内板に書かれているが、前々回の
記事(多賀貞能陣地跡②)で書いた矢合神社の由緒記では、“道成寺
と書かれていた。これは同じ寺を指している?単なる間違い?

大嶽寺十ヶ寺とあるが、これは小谷山のあの大嶽と関係あるのだろうか。
とにかく分かることは、僧坊十戸とあるので、ここにはそれなりに大きな規模で
寺院があったことが分かる。当時の面影は矢合神社が残してはいるが、
やはり実感がわかない。

IMG_0763.jpg
▲陣地跡から北側の平坦地を望む

資料Ⅰには、この砦跡北側に虎口を設けた左右双方に小さな土塁跡
あるとあったが、

IMG_0770.jpg

それに該当する場所を散策してもそれらしいものは見つからない。
資料Ⅰの縄張図を観る限り、上の写真に当たると思われる。
脇を見てみても、

IMG_0771.jpg

これでは元々土塁だったなんて考えにくい。
その資料Ⅰには、その虎口前には一文字状のの土塁がかすかに
残るともあったが、「えっ?どこどこぉ~」って見渡してみたが、全く
盛り上がった場所は見当たらない。

資料Ⅰには遺構ありげな感じで書かれていて、期待していただけに
またしても拍子抜けしてしまった。開発でなくなってしまったんだろうか。

縦走路の先が車道になっていたことも含めて…
資料Ⅰと称している図説中世城郭辞典も発行されたのが古いしなぁ。
(貸出禁止の図書館閲覧の本なので、発行年月日は把握していない。)

もし、あったのが本当ならこの位置は陣跡の北側に位置するので、
この点に関しては、小谷城方面を意識した造りになっていたと
考えられる。

IMG_0766.jpg
▲蜂屋頼隆陣地跡(北山古墳)を北側から望む

上写真中央に蔀土塁・土塁を備えた虎口があったと縄張図に示されていた。
今いる場所は「北山古墳」の北側に位置し、先ほどの陣地上(古墳上)から
望んだ場所になるが、その一帯は平坦地となっていて、多分これも開発
されてしまったのだと思える。上の写真でいうと、中央から左下にかけて
の部分に当たる。

資料Ⅰには多賀貞能陣地・蜂屋頼隆陣地と重複する場所に
浅井氏八相山城を築いたとされると書かれていた。

織田信長は小谷城攻めのため、小谷城の対面する北側に集中して陣地を築き、
逆に浅井氏は岐阜から進軍してくる敵に対して南側に城を築いていたのは、
目的違いで築城する場所に違いが観察できて非常に面白いと思った。

戦国時代になると、この八相山(虎御前山南尾根を指す)には井口弾正・
八相遠江守則祐・同頼祐・同長祐
の居城であったと『日本城郭体系(以降、
資料Ⅲと称す)』にはあったので、浅井氏が築いた八相山城という支城
井口弾正たちに任せた?と思った。

井口弾正の居館跡はここよりももっと北にあり、賤ヶ岳近くの木之本に近い。
そんな人がここまで来るもんなの?と疑問がわくかもしれないけど、小谷城に
ある赤尾屋敷曲輪を持つ赤尾氏の居館は賤ヶ岳と山本山を結ぶ尾根上にある
から、戦時の場合には居館から出て、小谷城最前線のこの位置で守れ。と命令
されててもおかしくないのかな。

そんな井口弾正さんは、すでに【大木本神社・世々開長者】の記事で既出済み
だけど、世々開長者伝説に関わっていることから確かに、ここを守っていたのかなぁ~
と考えられる。

資料Ⅲにはその井口氏が居城だった後に続いて、東野行成が入城したと書かれている。
この“東野氏”も浅井氏家臣に見られる1人で居館跡はここから見て、東~南東の位置
にある。結構離れているが、この人が後々守ったということだろうか。

ezu.jpg
▲虎姫館にあった虎御前山古砦図(一部抜粋)

今のところ最古の作だと知られている上の虎御前山古砦図(個人蔵)には、
多賀陣地跡の絵近くに、“中野山始八相縫殿○居城亦井口越前守モ此暫居城ス
とあり、天正十九年と書かれているので、確かに井口氏が暫く居城としていたこと
が伺えるけど、別の場所には、

虎御前山始赤尾美作守清綱陣城然姉川戦之後右大臣信長公本陣ト定ム

とある。「へ?」、ここ赤尾氏が詰めてたの?って思った。
ただ天正十九年の絵図としたら“姉川戦”と書かれていることが気になる。
なぜなら、“姉川合戦”の姉川家康中心史観から生まれた合戦名とされている。
実際、浅井氏側は「野村合戦」や「辰鼻表に於いての戦い」、朝倉家では
三田村合戦」などと呼ばれ、それぞれが陣を敷いた場所で合戦名を表現している。


で、なんだけどその虎御前山古砦図には今いる蜂屋頼隆陣地跡に
値する場所に“家康公”と書かれている・・・



???


えっ?ここ、蜂屋頼隆陣地跡じゃ、ないの…?

いや、何かまとめるとこういう筋書きが出来そう。
天正十九年徳川方がこの絵図を描いた。だから姉川の文字が見当たる。
で、家康軍も戦いに参加していたので、実際虎御前山に詰めたかどうか
分からないけど、陣を置いたことにし、蜂屋頼隆にすりかえちゃえと思ったのか。
こいつ天正十七年に死んでるし、廃絶になってるからバレねぇーよとかなんとか。
だから陣地跡に家康“公”と書いているんかな。他に公がついているのは、
右大臣平信長公”と“羽柴秀吉公”のみ。勝家光秀にはない。
これは時勢を反映しているんだろうか。

で、他の本に掲載されている別の絵図(彦根藩士に伝来したもの)を
見ても、“家康公御丸”と表現されてるではないかーーーー!!

なんでここ、蜂屋頼隆陣地跡とされてるんだろ。謎…




To Be Continued...



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
スポンサーサイト

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術




< /body>