#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-10/織田信長陣地跡①
#47 虎御前山城-10/織田信長陣地跡① 【小谷編】


織田信長陣地跡

堀秀政陣地跡から歩いて5分もしないうちに信長陣地跡最南端にたどり着く。
距離は100メートルあるかないかくらいだったと思う。もう記憶があやふや…(汗)

ここの陣地跡は、大きな郭が4つ南北に連ね、その周辺(主に東側)を守護するか
のように帯郭が取り巻いていてる。それはここにいるものが誰なのか、それを
この遺構たちが物語っている。

まずは、最南端の郭4。

IMG_0924.jpg

ここはとくにこれと言って遺構があるわけではなく、段差があるくらいで、
登るのは容易。堀秀政から続く道が緩やかに、そしてここだけ少し傾斜が
つくくらい。ちょっと注意して歩いていないと分かりづらい。

今いる郭4上からは北に接続する郭3が見えている。

IMG_0927.jpg
▲郭3南端の切岸

切岸が見事ですぐには登れそうにないことから、丸太を用いた階段が
整備されている。少し斜めっているが、城の虎口らしく直進して上へ
登ることが出来ない。しかし、これは往時の道ではないらしい。
上へと行く前に、左(東)側の下方を見下ろすと帯郭が見えた。

IMG_0928.jpg
▲郭4から東の帯郭を望む

ちなみに今見ている方角が横矢になっているんだそうだ。
全く分からない!!帯郭に対して、横矢が掛けれるのは分かるんだが、
この郭4と次に行く郭3のちょうど境に鍵型(横矢)の入れ隅があるらしい
のだが理解に苦しむ。上の写真を見て、読者の方も全く分からないと
思うけど、大坂城屏風折れにあるような横矢掛けが施された凹凸を
イメージしてもらえばいいのだが、それでもここと重なる気配がない。

縄張図と見比べながら確認してみるが、これがここで…などと考えながら見て、
結局これを指してるのかな?なんて自分の都合のいいように解釈して満足して
しまったが、果たして横矢で正しかったんだろうか。もしかしたら、下の帯郭
から見れば分かったかもしれないが後の祭り。

IMG_0935.jpg
▲横矢となる場所を上から望む

ここでふとテンパる事件発生。
資料Ⅰと現地が全く違っている。資料Ⅰとは多賀貞能陣地跡で書いたが、
『図説中世城郭辞典』のこと。これ大分古い本だから、実際現地とおかしくても
仕方がないか。資料Ⅰでは、堀秀政陣地跡の解説を信長陣地跡として掲載している。
じゃあ、信長陣地跡の説明はというと木下藤吉郎陣地として書かれている。
オーマイゴッド!!1つずつズレてる…
発行されてから最近までの間に伝○○○陣地跡というのが変わったのか、
それとも単に『図説中世城郭辞典』が間違えているだけなのか。

こんな事って、今までに経験がない。なのでテンパるのにも無理はない。
と自分に言い聞かせつつ、資料Ⅰはこの後参考程度に見つつ、虎姫館の資料Ⅳを
メインに見ていくことにした。

その資料Ⅳには、
>砦はケーキの段重ねのように段々になっていて、山の一番高い所に位置している。
>険しい切岸によって城内が守られている。信長の郭には重要な人しか入れない。
>茶室があり、横山城石山寺方面が見られる。特に小谷城は正面に見える。三方向が
>見渡せる一番いい位置にある。
(虎姫館より)
と書かれている。

ケーキの段重ね具合では、堀秀政の方が上だと思うけど、一応ここも
東面に犬走りと名付けられた帯郭がいくつか設けられている。

郭4から郭3に上がると、奥にまた郭2へと続いている様子が見える。

IMG_0939.jpg

郭3は信長陣地跡の中で一番南北に広い。そのためか郭2が小さく見える。
奥へズカズカ歩いて行くと、郭2の切岸にぶつかった。

IMG_0940_20120529123717.jpg
▲郭2切岸

このまま登ってもいいが右手には帯郭が接続されていたので、少し立ち寄ってみた。

IMG_0941.jpg
▲郭2東側帯郭

意外と幅がとられており、この奥へ行くと“帯曲輪”と書かれた立札がある。
そこまで行くと、この陣地跡名物とも言える大土塁と出会える。

IMG_0944.jpg
▲帯郭から大土塁を望む

これが土塁の規模ですかっ!!と声を張り上げて叫びたいくらいの大きさ。
竪土塁っていうものだろうか。小谷城本丸から下にかけてあった石積み
補強された竪土塁なんてカスに見えるくらいの規模。上から見下ろしている
からか、ちょっと伝えにくい部分があるが、手前に写る木の大きさとその奥
に写る木の大きさは全く違って、奥の方は遠近法でかメチャクチャ小さい。
それほどこの今いる位置が高いってこと。

奥に写っている木が生えた場所から、この土塁を見上げれば壮観だと思う。
何故そうしないかというと、藪が苦手だから。この時期は少ないほうだったかも
しれないけど、小枝とかがあるのに抵抗がある。理由は小さい頃に藪の中で、目を
突いたことがあるから。血が出て救急車騒ぎになったというほどの苦い経験…

上の写真見れば分かるでしょ?
そこかしこに小さな枝がいっぱい見境もなく生えているのが。

それにしても、この土塁が持つ意味は何なんだろう。
単なる仕切土塁と解釈していいんだろうか。仕切土塁は大坂城二条城など
近世城郭で見られる石垣に変わり、仕切門とあるが中世城郭では土塁による郭の
区分けが施されている。頭に思い浮かぶのが静岡にある諏訪原城

その解釈を補ってくれる資料として、虎姫館にあった長谷川博美氏が描いた
伝織田信長虎御前山陣城推定復元図が物語っている。これには、ちょうど自分が
上の大土塁を写すときに立っている場所に城門が描かれている。そして下の帯郭
へとつながっている大土塁には(板?)塀が小谷城側(北)に設置されている。下の
帯郭にある野営施設から人の行き来を意味しているのではないだろうか。逆に
言えば、敵兵も登ってこれるんだけど。それは上にある帯郭から射かければ事が
済むのかもしれない。

この竪土塁から東側に行くと、中世山城の特徴である小規模の削平地が
続き、佐久間信盛陣地跡へと続いているようだけど、帯郭へ下りなかった
ことからも分かるように、そこへは行かなかった。次回来ることがあれば
行きたい。虎姫館に城郭原図と称される縄張図は堀秀政、そして信長、この
後に行く秀吉・勝家があったが、信盛のはなかったのであまり研究対象には
なっていないのかも。それに行きづらいのかもしれない。虎御前山のガイド
マップには掲載されていなかったから。

振り返ると、帯郭に立ち寄る前に登ろうとした郭2が見える。

IMG_0947_20120531122126.jpg

南側から見ているときは、何とも感じなかったが、郭2の南東隅を東側から見てみると、
こんもりと凸になっていることが分かる。先ほど述べていた信長陣地の推定復元図
(資料Ⅴとする)には、このこんもりとした上に櫓門が築かれている。つまり、大土塁を
登ってきた敵に対しては、ちゃんと攻撃できるように防御がしっかりと施されてる。
それに郭2に上がるのは、今見えている位置から登っていくように描かれていて、丸太
で出来た階段から登るようにはなっていない。そもそも郭4から2までは南面の切岸に
あった丸太の階段を登ってきたが、どうやら当時はそうではなかった事を長谷川先生は
考えているようだ。確かに南面を上がっていくのでは芸がない。

ちなみにその復元図では郭4と郭3が完全に独立していて、登城道が通過していない。
この記事前半で、切岸にあった登城道が往時のものではないと言っていたのもこれが理由。
言葉で説明するのが難しいので、是非虎姫館に行って確認していただきたい。
今自分が攻城してきた南側から北側(最高所)へ抜けるには、どうやら先ほど見下ろ
していた帯郭から大土塁を上がってくるのが正式っぽい。土塁の上が登城道っていう
のは全国でも珍しい遺構なんじゃないだろうか。

さて、自分はというともちろんここから登らない。
郭2の南面切岸にあった丸太の階段まで戻り、郭2へと上がった。

IMG_0949.jpg

とうとう織田信長が座したとされる本陣(郭1)が見えてきた!!

続きは次回。




To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術




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