#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-3/歴史秘話ヒストリア
松江城-3/歴史秘話ヒストリア 【松江編 #3】

歴史、それは絶え間なく流れる大きな河。
その中のキラキラした一滴を秘話と呼びます。

神話の里、島根県が誇る松江城

松江城誕生の背景には、堀尾吉晴忠氏親子の意外なドラマがありました。
今宵は松江城築城をめぐる物語です。

と、歴史秘話ヒストリアの冒頭部分をパロってみました。

先月11/7(2012年)に歴史秘話ヒストリアで「出雲、縁結びの旅へ!神話の里の物語」が
放送され、その中で松江が少し取り上げられました。この時は古事記編纂1300年絡みで
出雲大社などの神社、小泉八雲しか触れられていなかったので、今回の記事では
松江城について触れていきます。

出雲縁結び空港内には、あちこちにハートマークが描かれており、
見つけると縁起がいいとか。ロビーに絵馬のスペースが設けられ、
こんなところでも縁結び祈願が出来るようになっていて。。。
島根県の観光キャラクターしまねっこもハートマーク仕様。。。
と、ヒストリアでは紹介されていました。

実は、これ以外にもハートマークは松江の至るところに点在していて、
その1つは松江城天守にもあるんです。

P1120838.jpg
[Photo]ぶらっと松江観光案内所内にあったチラシ

天守内の柱にハートの木目があるので、これを見つければ…
と、紹介されています。

P1120427.jpg
[Photo]天守内の柱にあるハートの木目(ぶれぶれ)

是非、縁結びの祈願に松江城へ。

ところで、松江城の築城は関ヶ原の合戦後の論功行賞で出雲の地を与えられた
堀尾氏によって始まります。当初、出雲に入封したときは松江から南西約25kmの
安来市にある月山富田城に入城しました。この富田城からの移城には理由が
いくつかあって、移城先は現在松江城がある地1つに決まっていたわけではありません。

松江城を調べていく上で、一番「面城い」と思ったのがこれから書く話で、
松江市には『堀尾公城地選定の地』という史跡が存在します。

城地選定?

よくお城の本で、山城・平山城・平城の分類等が書かれ、それらは築城者の
意図によって、その地が選ばれ…というような記事をよく目にします。
まさにそれで、要は城をどこに築こうかという縄張以前のプランニングの話です。

松江城を築城する際に、初めから今の場所に決まっていたわけではなく、
いくつか候補があって、最終的に選ばれたのが現在建っている場所と
言われています。

当然、他の城でもこういった事がされているとは思いますが、松江城に
限って言えば、その城地選定の物見を行ったと伝えられる場所があり、
そこから今も松江城を望むことが出来ます。

―松江城から南に約3km。
名前は元山。別名、床几山とも呼ばれています。
そう、床几とは腰掛けるあの椅子。その床几に堀尾父子が腰掛けて、
城地選定の物見を行ったことからこの名前がついています。

IMG_2933.jpg
[Photo]堀尾公城地選定の地・床几山碑

1603年、幕府から移城の許可がおり、富田城に変わる城地を求めてこの床几山から、
堀尾吉晴(父)、忠氏(子)が北の島根半島を眺めながら対談。

吉晴は、洗合山(毛利元就が尼子方を攻める時に築いた城跡)を提案し、
忠氏は、亀田山(戦国時代の尼子氏の支城・末次城跡)を提案。
※洗合山は、亀田山(松江城)より大きい山で亀田山から西に約2kmの位置にあります。

IMG_2937.jpg
[Photo]床几山から見た松江城(中央に南櫓が小さく写る)

この時の様子が、松江歴史館の大画面に映像で再現されています。
その映像では出身地の尾張弁を用いており、臨場感ある対談の様子が描かれています。

P1110841.jpg
[Photo]歴史館の築城秘話映像

吉晴「荒隈山(洗合山)がええだにゃあきゃ」
忠氏「それがしは右手の亀田山がええように存じます」
…というように。

大きい山の場合、その山の大きさに相応しい規模の城を造らなければならない。
それなりの天守を建てたところで、山自体が大きいため遠方から見ると、ただの
相当にしか見えず、洗合山に釣り合う大きい城を造るには、自分たちの石高では
見合わないと忠氏は主張。

父子間で意見が食い違い、この物見では意見の一致を見ることなく、
富田城へと帰城しました。

それから忠氏は城地選定のため島根半島の踏査を行なっていましたが、
1604年に忠氏が急死…

その後吉晴は、城地選定の課題に答えを出します。
取立古説(後述)には、「城地については我が望みと違い、死んだ忠氏の望みに
任せて亀田山を取り立てる」とあり、吉晴は忠氏が望んだ現在松江城が建つ亀田山を
富田城に変わる次なる城地、ユートピアとして築城を開始。

この松江城築城秘話は『松江亀田山 千鳥城取立古説』に記載されています。
(18世紀初頭頃の成立で執筆者不明、1次史料ではなく伝聞の集積物。千鳥城は松江城の別名。)
松江城の築城時期は、この取立古説を含まない別の3史料に記載されている年代で
現在多くの書籍で扱われていますが、その3史料とこの取立古説の築城時期は一致
しておらず、そのため取立古説は全て信じられるものではないと考えられています。

そのような史料に書かれている築城秘話にもかかわらず、神話のようになって
語り継がれ、多くの書籍で取り扱われています。
出雲の国だけに。

それでは最後にもう1つ、出雲の人々に今なお息づく堀尾公への想い
そんな秘話をどうぞ

(BGM)♪ずーーーーっと 昔の 物語を 聞かーせてぇ~

松江開府の祖・堀尾吉晴公。城山の松江神社に祀られ、毎年11月3日には
城地選定の地「床几山」に御神霊を遷座。湖都松江のさらなる発展を願う
祈念と感謝の儀式が執り行われています。

IMG_3034_20121219174353.jpg
[Photo]堀尾吉晴公の小型のブロンズ像

松江20万市民は今も堀尾公の恩澤に浴していると堀尾吉晴公銅像建設委員会を発起し、
今年(2012年)の10/5、松江市役所玄関ホールに堀尾吉晴公の小型のブロンズ像が
展示されました。銅像建立と募金のPRに一役買っています。

募金は来年2013年3月末まで受け付けており、予定では2013年6月に、
松江城大手前に台座込み高さ5.2mほどの銅像が完成します。

P1120458.jpg
[Photo]床几山にあるベンチ

床几山には現在、床几ならぬベンチが置かれており、ここに座って松江城方面を
見れば、約400年前にタイムスリップして当時の堀尾父子の気持ちが多少なりとも
感じられるかもしれません。

2007年から2011年まで松江開府400年祭で盛り上がっていた松江。
松江城は慶長12年(1607)の築城開始から、5年の歳月を経て完成したため、
5年間祭りが続けられました。

その5年間の築城工事の様子が、日本城郭体系など数多くの書籍で発表されています。
これは実は、約80年前の昭和8年(1933年)に刊行された『千鳥城の築城とその城下』を
元に記載されています。

この本は、岡田射雁という人が松江に当時住んでいた87歳の女性の話を
聞き取りしてまとめたもの
で、つまり、このおばあさんの話を元に色んな
先生が発表されていることになります。

おばあさんが子供の頃、ひいおじいさんから松江城についての話を聞き、
それを思い出しながら語ったという…

古文書や軍記物ではなく、人から人へと受け継がれた話が
現代の世に脈々と受け継がれている、そんな秘話がある松江城でした。


(BGM)♪聞かぁーせてぇー あなぁーたの調べぇーーーーーーーーーーーー





<次回予告>
松江城の石垣に迫ります…多分




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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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