#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-10/刻コレ
松江城-10/刻コレ 【松江編 #10】

昨日、堀尾忠氏が亡くなった歳に到達した自分。
昔は長生きするのが難しかったんだなぁと、当たり前のことを
考えながら今回の記事を書いていた。松江城も、もう10話目…

今回は、刻印コレクション。
略して刻コレ。

松江城にはいっぱい刻印がありますので、その一部をご紹介していきます。

パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

IMG_2145刻印1
[Photo]星

パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

IMG_2146刻印2
[Photo]扇

パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

IMG_2149刻印3
[Photo]斧

パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

IMG_2150刻印4
[Photo]四角の中に大の字(天地逆)

松江城の刻印がある場所は、発掘調査報告書で至る所にあることが確認されていますが、
一番集中し、かつ一般人でも容易に確認することが出来る場所と言えば、二の丸下の段
西側にそびえたつ石垣です。

IMG_2142中曲輪石垣
[Photo]二の丸下の段西側の石垣

天下普請された石垣には動員された大名の刻印がたくさんある。
近くの名古屋城に然り、江戸城丹波篠山城大坂城等と…

で、ここ松江城だとどうか。
この城は天下普請で出来ていない。堀尾氏が出雲に入国してから新城として
築かれたもので、以後京極氏松平氏によって縄張の変更などされているが、
他の大名が手伝い普請したなどと聞いたことがない。

なので、刻印は天下普請の城でよく取り上げられているけど、
別に天下普請の城に限らず、ごく普通の大名の居城にも多数ある。

城普請には大名の家臣達が総動員され、普請のための費用も家臣達が負担させられるのが
普通で、「普請役」は合戦に出陣するのと同様の「軍役」とみなされていたと言われている。

そもそも城が「敵を防ぐ構築物」なため、領国支配や合戦においての野戦築城など、
築城は軍役の中の一部に位置づけられるため、家臣達に「軍役」と等しく「普請役」も
大名は課していたことになる。

普請に必要な人員・用具・材木・石材等、家臣は自分で調達してくる。
もちろん、全普請を1人の家臣が請け負うことはないので、抱えている家臣達が
家ごとの「持ち場制」による帳場をかかえていたと思われる。

石材で言えば、他の帳場に石が紛れ込んだり盗まれたり、石船がないものは石を
購入したり、と石の調達も大きな負担作業だったことから、それぞれの持ち場で
石材の区別のために刻印を用いていたことが想像できる。

従って、「天下普請」や「参勤交代」を徳川家が大名の経済力を削ぐための
策略だとか考えるのは誤りで、単に武家のてっぺんである徳川家に全国諸侯が
「軍役」と「普請役」の両方を課せられていたことになる。

今回のケースから置き換えると“大名(領主・藩主)ー軍役を担う家臣たち”の関係が、
天下普請では“徳川家―徳川家に仕える全国諸侯”の関係と大きくなっただけ。

とここまで理解した上で、中世の頃の城のメンテナンスは村ごとの「持ち場制」が
設けられて行われていたことや、また領主が村に「軍役」を課して徴兵していたこと
を考えると、中世~近世まで規模に違いはあるものの同じ仕組を取られている事が
繋がって分かるので、歴史って面白いなぁーと気付かされる。

さて、上に挙げた写真の刻印にはいくつか説話がある。
郷土史家・島田成矩さんの著書「堀尾吉晴」にそれが記述されているので、
そこに書かれた内容を一部抜粋していく。

まず、「」の紋。
これは“阿部晴明判紋”として、魔よけや強運のシンボルとして用いられて
きたらしく、松江城築城では安全等を祈願して、以前石垣の記事で少し触れた
式年神幸祭に関わる阿太加夜神社の神主の松岡家が、この紋を刻印したと推測
されている。ということは、他の城で見られる五芒星の刻印も同じ理由で刻まれた
ものだろうか。姫路城化粧櫓下の石垣にも五芒星の刻印がある。

次に「」の刻印。
これは堀尾家と縁戚関係にあった生駒家の家紋。
堀尾、生駒両家父子2代にわたり親密な関係だったといい、吉晴と生駒親正
豊臣政権の三中老を務めている。扇の中に一の字があるのは親正の長男・生駒
一正
の紋だとされている。

ちなみに縁戚関係というのは、吉晴の兄弟に生駒孫兵衛に嫁いだ女子がいて、
その子が、大隅という子を産み、この大隅の代で姓を「堀尾」に改めている。
その後、この子は堀尾氏の重臣となり、堀尾家断絶の際には家名存続のために
奔走したことが『堀尾古記』に記されている。

そして「」の鉞紋。
これは松平忠直の家紋と紹介されている。
松平忠直というと、家康の子・結城秀康の長男で、また松江藩松平家初代藩主直政の兄。
結城秀康は結城家の家督を継ぐ前は、秀吉のもとに小牧・長久手の戦いの戦後処理で家康
から人質に出されていた次男坊。その秀康を大坂城へ迎える際に、使者の1人として赴いた
のが堀尾吉晴だったというから、何か繋がりを感じさせる。

最後に、写真にはないが石垣に施されたもので墨書の「雁紋」の紋がある。
これに関しては、毛利秀就が最も可能性が高い人物とされている。関ケ原の戦い後、
堀尾忠氏は毛利一門のまとめ役になり吉川広家を通して、不戦と人質預かりに関わり、
結果的に毛利の断絶を救ったため、感謝や和親の意を込めて秀就が寄進したと推測
されている。ちなみに、この秀就の正室は結城秀康の娘が嫁いでおり、福井松平家
とは姻戚関係にある。

何だか取ってつけたような話だけど、それでも何か想像を
掻き立てるものがある。

松江藩開祖の堀尾氏と、その後京極氏を挟んで入封する松平氏が
こんなのところで繋がっていたなんて…。

上で紹介した刻印以外にも、松江城には色んな刻印が存在している。
現在、石垣の修復作業が本丸の北側で行われているが、新しい刻印の発見が
あるかもしれない。刻印は石垣の見えている箇所にあれば、見えていない裏
にも存在していたりするので、修復作業や発掘調査が行われる度に新たな
発見があるそうだ。

私たちの脳を刺激してくれるような刻印が見つかることを願う。

以上

今回はここまで。また次回。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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