#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-9/●●●
松江城-9/●●● 【松江編 #9】

現在島根県庁がある松江城三の丸

IMG_4008松江城俯瞰
[Photo]左に見える建物が県庁で、奥に見えるのが松江城

松江城は、内堀・外堀全て残る唯一の城郭と言われている。
しかしながら埋め立てられて、すでに消滅しているもある。
それがこの県庁が建つ三の丸周囲の水堀である。

IMG_1791三の丸模型
[Photo]松江歴史館の松江城模型・三の丸部分(ぶれぶれ)
※今はない水堀が再現されているので、往時を想像しやすい。

三の丸は二の丸の南方山麓にあり、忠氏の子・忠晴の代に築造されたと
言われていて、「堀尾古記」によれば、「寛永六巳巳年御屋敷御作事、
二月二十三日御作事初、壬二月十六日ニ釿始」とあり、これが三の丸御殿
指すとすれば、慶長12年(1607)の築城開始より22年遅れて設置されたことに
なる。

その後、堀尾氏の改易後に入封した京極忠高により修築されて完成したと言われる。
松江藩の京極氏はわずか1代で終わってしまい、その次に松平家が信州松本から
出雲に入国。

松江藩松平家初代の直政と2代目の綱隆は、二の丸御殿に住んでいたらしいが、
3代目の綱近以降、三の丸御殿へ移って政務をみていた。

つまり、松江城の三の丸は途中からであるものの、政庁として機能していたのである。
それは今も続けられ、現代の世でも政庁として機能しているのである。
これを本来の使い方がされていて面白いと思うか、城の景観上立ち退いて欲しいと願うか
は人それぞれだと思う。同じように今も昔も政庁として機能しているところは
福井城などが挙げられる。

ただ、政庁機能は引き継がれているとしても、住居としての機能は引き継がれていない。
島根県知事がここに住んでいるなら話は別だろうけど、さすがに公舎を私邸にしている
とは考えにくい…

何が言いたいかというと、三の丸は藩主の住居「松江御殿」と、今の県庁にあたる
藩庁」の2つを合わせた建物があったということ。
だから、松江御殿という意味で県知事の御殿はここにはない…

さて、この記事の前半にも書いたけど、この三の丸は周囲の水堀が完存している
わけではない。昭和30年代に東側の半分と南側が埋められてしまっている。
残念なことに…

現在、この県庁の敷地内に天守と復元されたが重なって見えるところがあり、
そこには松江藩松平家初代・直政公の銅像が建立されている。

IMG_2096松平直政像
[Photo]県庁の敷地に建つ松平直政公銅像

昔話になるけど、この直政公の銅像は当初別の場所に築かれる計画があった。
知らない人は多いかもしれないけど、松江城の本丸にこの銅像は建てられようと
していた。実際、台座までは建てられたのだけど、なんと指定史跡になったことで
台座を残したまま、銅像建立が頓挫してしまった。しばらくは銅像がない台座が
本丸でさびしくしていたそうだ。

実はこの昔話にはさらに昔話があって、昭和2年(1927)には銅像が本丸に建って
いたそうだが、戦時中の金属供出で失われたそうだ。この話を知らなければ、
ずっと本丸には台座だけ残るように目に写っただろう。

その後、この直政公の銅像が指定史跡外の県庁に建立(復元)されるに
あたって現在埋め立てられてしまっている堀の上に位置するように、
わざわざ地面を掘って確かめたんだとか。

堀が埋め立てられてしまっているからこそ今の銅像が建てられたわけで、
水堀が残っていれば、また別の場所に建てられていたわけでもある。

話はそれてしまったが、三の丸は慶長12年から5年間の築城工事で築かれたわけではない。
つまり城の普請・作事はまだまだ続けられていたことになる(もしくは再開)。

「堀尾古記」の記述から三の丸の築城年代を推定したが、実は別に築城年代を
正確に特定できるものがある。

明治時代になって御殿が取り壊しされるとき、旧藩士が譲り受けた釘隠しに、
六目結紋」が表現されていた。この六目結紋は堀尾家の家紋。
前々回くらいの記事で石垣に堀尾家の家紋が刻印されていたと記述した。
そのときの家紋は「分銅紋」で、六目結紋ではなかった。その石垣には分銅紋が
14個も刻まれていたのに対して六目結紋は1つもなく、この家紋が何故か釘隠し
には施されていた。

これは六目結紋が忠晴の父・忠氏と、おじいちゃんの吉晴の時にはなく、
忠晴の時から使われ始めたとされているから。

そのため、六目結紋が施された釘隠しがあった三の丸御殿が
忠晴のときに築かれたと判断されている。

松江20121128_324
[Photo]旧三の丸御広間釘隠(松江城内展示物)、六目結紋が施されているのが分かる

うーん、欲しい…
今日誕生日だし。

今回はここまで。また次回。



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