#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-15/完成?or未完成?
松江城-15/完成?or未完成? 【松江編 #15】

新年明けましておめでとうございます。

2012年末でちょうど100話を迎え、2013年は101話目から公開するという
記念すべき再スタートとなりました。

昨年は、4~5ヶ月間も更新しない時期があり、放置状態が続きましたが、
今年はなるべくまめに更新していこうと思います。が、大概更新しなくなる
時は長期遠征を間近に控えているときだったりもしますので、その際は
何卒ご容赦を…。

しばらくは松江編の記事が続くと思いますが、たまの息抜きに別の城記事でも
書こうかなぁ、と思っていたりします。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

早速ですが、話は現在進行中の松江城の続きへと戻って…

松江城は通説で、“未完成”の城と紹介される。

その理由の1つに、松江城全体を見たときに、南側から東側にかけて高石垣
築かれているのに対し、西側から北側にかけて水堀に接する壁は低く、石垣は
ほとんど築かれていないことが挙げられている。

IMG_2717.jpg
[Photo]松江城西側にある後曲輪の土塁

意外と知られていないけど、松江城にも土塁がある。
通常大手側から天守まで行く人が多いと思うので、土造りになっている西側や
北側は一切目に触れない。そのため、気づかない人が多いのかもしれない。

松江城縄張図
[Photo]松江城縄張図(写真上が西、下が東、右が北、左が南)

写真の縄張図を見ると、上の西部分と右の北部分が緑色になっていて、
土造りになっていることが一目瞭然。

このことから松江城では“未完成”の城と言われているが、
これは松江城に限らず、他の城でも“完成”や“未完成”などと
紹介されているときがある。

ここまで来て、「あれ?」と思う人がいるかもしれない。
先日の記事で、松江城の築城は慶長12年(1607)から開始され、慶長16年(1611)で
完成したと書いていたので、覚えている方は疑問に思ったと思う。
まぁ、これも含めて“完成”・“未完成”について考えていきたいと思う。

城に限った話ではないけど、城普請でも普請を開始する前に鍬初めが行われるので、
開始時期についてはおおよそこの時期からだろうという推測はつけられる。
では終わりは?というと、これも儀式的なものはある。

津山城を例に出すと、慶長9年(1604)に築城を開始し、翌慶長10年(1605)には
津山城内において大般若経真読が行われている。この真読は本丸御殿
一部もしくは天守などの建造物の部分的な完成があったと推測されている。

築城途中の段階で、完成したという儀式的な大般若経の真読が行われているのならば、
全ての城郭完成時にも儀式的なものが執り行われるのではないだろうか。
残念ながら津山城は「工事中断 → 一応の完成」の形で、“完成”となっていて、
儀式的なものがあったとは調べきれていない。
細川家から完成の祝いに九曜紋入りの半鐘を贈られているが、
築城の完成か天守の完成か定かではない。


このような終わりの儀式が確認できれば一応『完成』と言えなくもないので、史料で
そのような事柄を松江城においても確認できれば解決するような話だと思うけど、
残念ながら堀尾家の史料が松江には少ししか残されていない。
※堀尾氏最後の藩主忠晴の代で断絶し、その後家臣団は縁戚関係にあった伊勢の
亀山国石川家に登用され、文書類も同じく石川家に受け継がれたが、現在石川家と
連絡が取れず、伝来しているであろう史料が全く確認できない状況になっている。


そのため、他の事例を出しながら考えてみたいと思う。

よく城の年表紹介などで、『一応の完成』をみたと記述されていることがある。
上に挙げた津山城もその1つで、これが指す意味は元和元年に発布された一国
一城令
が影響している。この政令によって、各大名の居城普請に制限が
設けられることになる。そのため、築城途中だった各城は工事を余儀なく中断し、
築く予定だったなどを建てずにそのまま幕末まで至ったケースは少なくない。
ただ、必ずしも築城がストップしたというわけでもなく、以前記事にした松江城は
この一城令後に三の丸が完成したり、堀普請・虎口改修なども頻繁に
行われている。

ちなみに松江城の完成年と言われている慶長16年(1611)は一城令の発布年・
元和元年(1615、慶長20年だったがこの年7月に元和に改元)まで約4年間の
間が開くので、一城令での「工事中断 → 一応の完成」とは言えないと思う。

次に、松江城が未完成と言われる西側と北側の土造り、つまり石垣が築かれて
いないことに関して考えると、

寛永13年の江戸城外堀普請では、このとき西国大名石垣方東国大名堀方
として普請方がそれぞれ石垣と堀とに分担された。この時の石垣方に注目すると、
面白いことに石垣方を命じられた大名の役高は316万石とちょっとで、これらを
6組に分けて分担させている。その組み分けは、ちょうど1組50万石余という計算で
編制され、1万石につき94坪余の仕事をこなすように計算されていた。

これはつまり仕事配分が均等になるように、理論上は一斉に石垣普請を
スタートさせても、進捗が同じになり完成も同タイミングになると計算
されている。ただ、必ずしもそうなるとは限らず、地盤の良し悪しなどで
工期が遅れることは十分考えられた。

続いて寛永元年二条城普請手伝いについて着目すると、
彦根藩25万石の井伊直孝は、本丸二の丸の高石垣を90間担当している。
人足は普請役人足軽・中間など250人以上を送り込んでいることが分かっていて、
工期に関しては、約6ヶ月でほぼ完成(片付けまで含めて)に至っている。
※90間の高石垣以外にも負担している役高はある。

堀尾氏は松江築城時には24万石だったので、この井伊家の石高と
ニアイコールなので参照しやすい。

90間というと、だいたい1間が1.8mなので、約162mになる。
この前刻印が多く記された部分の石垣を扱ったが、あそこの石垣が約180mほどなので、
ほぼそれに近い部分を約半年で井伊家が二条城で築いたことになる。松江城は180mぐらい
の石垣があと5個分くらいあるので、高さなどのバラつきは無視して、単純計算すると6倍の
3.6年はかかる計算になる。これは松江城の築城伝承でも築年次の2年目から最終年の5年目
までかかったという約4年の普請工期にもだいたいあってくる。
※ただ、必ずしも同じだけの工期がかかるとは言えない。徳川期の大坂城普請では
北国大名の石垣普請では西国大名のように手際がよくはなく、また遅れがちだった
ことがあったらしく、藤堂高虎が積み直す覚悟を伝える書状なども伝わっている
くらいなので、各大名でも普請レベルはかなりバラつきがあったと思う。


また、堀尾家の家臣団(忠晴時)は650人。内、武士は573人で、職大工・神職77人が
いたことが記録されていることからも、堀尾氏の場合も約250人ぐらいが石垣方に
割ける人足の最大値だったのではないだろうか。江戸城の場合を見ると、普請は
石垣方に集中することがなく、堀方作事方にも人足を割かれていた。松江城の
築城でも同様に、総奉行の下に4つのセクション(堀方、石垣方、大工方、運送方)
があった。つまり、工期以外で人足の数も井伊家が供出した値に近いと思われる。
※『堀尾山城守給帳(山城守=忠晴)』という堀尾氏家臣団の給料表には、
武士は619人いたとされる。


ちなみに、慶長の築城ラッシュや天下普請など、各地で城郭普請が盛んに行われていた
慶長期には石垣巧者の穴太の物が必死に求められるようになった。ここでいう穴太役は
滋賀県坂本の穴太衆を指すのではなく、単に石垣を積む特別技能者の総称。
ただどのでも必ず穴太役として石垣奉行を置いたというわけでもなく、上に挙げた
彦根藩では彦根城築城時に石垣職人は日用(日雇い)として職人を臨時で雇っている。
(寛永元年の二条城手伝い普請でも同じように日用の石工を雇っている。)
実はこの松江藩でも築城時に大坂築城の経験者など、石工2人を臨時で雇いいれたと
あったので、石垣奉行が設置されていなかったことが分かると同時に、実際はもう
ちょっと石垣方に携わる人間がいたんだとは思う。『堀尾普請』などと秀吉から評された
という記述を目にしたことがあるけど、堀尾家に専門の穴太役がいなかったのは少し
不思議にも思うが…。

1万石につき94坪だとすると、
24万石だと2256坪になる。
1坪あたり畳2枚なので、4512枚の畳を敷き詰められるほどの石垣。
松江城に行ったことがある人は、想像してみるとあの石垣に畳を
4512枚ぐらい貼れるような感覚が持てるんじゃないだろうか。
(もっとすぐに納得できるような具体的な数値、石垣の総面積とかあれば
良かったんだけど…どこにも記載されていない。←単に見つけきれてない
だけかも。)
※この記事で出てきている坪は本来立坪を指し、体積を表すので
上の面積で語っているのは少し間違っている。(2013/1/8追記)


話が逸れたように見えるが、ここまでで言いたいことは何かというと、
元々松江城を石垣造りにする上で、普請量はあらかじめ石高や人足で
だいたいの規模が決まるので、今の松江城に東側の石垣が集中している
のはあらかじめ計画的に築かれたものだと自分は思う。
この時期に築かれた城など、信長安土城から大手側は権威や格式を
強く意識したものになるので、同様に松江城でもそのように大手道になる
大手側の普請が石垣中心になり、裏側の西側や北側は土造りがメイン
になったと思われる。また、松江城の防衛設計プランとして、東南方向
を意識した造りになっているので、必然的に南側から東側に石垣が
築かれたことは明白だと思われる。

西側や北側に石垣がないから、“未完成”の城と結論づけるのはいささか
間違いな気がしてならない。これだと、当初から築く予定だったけど、
後で計画が頓挫したと受け取れる。むしろ意図的に石垣で築かなかった、
もしくは石垣を築きたくても自分たちの石高では不可能と判断し、当初から
石垣で築くことを計画していなかったと言った方が適切に感じる。

今の都市計画から見るように、不便なところは改善されたり、公共事業で
街が変貌していくのは常に続いている。城に関しても、今と同様に常に
進化していたものと思う。松江城に関して言えば、堀尾期虎口松平期には
喰違い石垣や1つ折れから2つ折れの石垣へと改められている。築城伝承で
伝えられる工事の完成に関しては、津山城と同様に『一応の完成』と位置づけられるだろうか。
その後も三の丸築造などの松江藩における公共事業は続けられていた。

平安な世の中になって、城としての機能より利便性を求められ、防御施設が
とっぱらわれるというようなこともあった。

は、城下町は、全て“未完成”だと思う。
だから、“未完成”の城だなんてわざわざ紹介するのは、
特に必要のないことだと自分は思った。

以上

本年最初はここまで。また次回。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント
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[2013/01/08 19:30] | # [ 編集 ]

Re: 松江城-15/完成?or未完成?の記述について
まるこうさん

こんにちは、コメントありがとうございます。
Twitterでフォロー頂いておりましたか、後ほど確認いたします。

ご指摘頂き、誠にありがとうございます。お察しの通り、
北原糸子氏の著書からの本記事考察内容でした。

> 土砂・割り石などの容積を計るとき用いる、いわゆる体積の単位の
> 坪(立坪・りゅつぼ)であると思います。
なるほど…。

これは不勉強で、申し訳ございませんでした(゚A゚;)
ちょっと、訂正しておきます。
と、言ってもどう話を組み立てなおそうか悩みます。
[2013/01/08 19:53] URL | #oshiro #- [ 編集 ]


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