#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-16/外郭の防衛体制1.00
松江城-16/外郭の防衛体制1.00 【松江編 #16】

今回から数回、松江城外郭に目を向けようと思います。

前回までの多くは、松江城本丸二の丸を含む楕円形部と後に藩庁
設けられた三の丸という城の中枢部・内郭部分に触れてきました。
堀で言うなら、内堀以内になります。

その内堀以内の中心地から外、つまり内堀の外・外堀の内にあたる
松江の城下町・外郭部分を見ていこうと思います。
(まだまだ天守にはたどり着きません。むしろ逆行している…。)

松江城の中心にあたる本丸と二の丸、三の丸の周囲には内堀が巡り、
内堀の東側には殿町母衣町(現在残る町名)という侍屋敷が続いている。
殿や母衣という文字が、昔の名残を感じさせてて非常に良い。


大きな地図で見る
[Map]松江に残る殿町と母衣町

現在は、松江歴史館や島根ふるさと館、裁判所などの官公庁が林立している。
水の都の記事でも書いたけど、松江歴史館や島根ふるさと館にあたる場所には
松江藩重臣屋敷が達ち並んでいた。

松江歴史館
[Photo]松江歴史館の入口、長屋門

松江は、松江藩開祖の堀尾氏から次の京極氏を経て、
最後は幕末まで松平氏が支配するところとなった。

今回書く話は、その三家のうち最初の時代、堀尾氏の
重臣屋敷を見ていく。

まず最初に見てもらいたいものは、下の写真・堀尾期松江城下町絵図
この絵図は記載された家臣の生没年代から元和6年(1620)以降寛永10年
(1633)の間に書かれたと推定されている。

松江20121127_140
[Photo]堀尾期松江城下町絵図

しかし、この絵図に書かれた内容があまりにも現在の道筋と近似している箇所が
あり、後世作成されたものでは?という指摘がいくつかされていた。そのため、
絵図が描かれた紙の放射性炭素年代が測定されて、結果料紙は堀尾期前後のもの
と確定したため、晴れて松江城初期の絵図として採用出来る史料となった背景が
あります。
※放射性炭素年代測定は、実写映画になったテルマエ・ロマエの1シーンでも
古代ローマのものと判定するときに使われていた測定方法です。


松江城下町が定説である慶長16年(1611)にほぼ完成したのだとすれば、その時点から
9年~22年しか経っていない城下町の情報を提供してくれる絵図として大変貴重な
ものなのですが、先ほどの道筋が今と近似していることからも、もしかしたら
計画絵図なのでは?という指摘もされていて、史料として扱うのに、すごく慎重に
なっていることが分かります。

そんな絵図を今回は見ていくこととし、話は重臣屋敷に戻って…
北堀橋南には堀尾家家臣ナンバー3の堀尾采女(藩主忠晴の又従兄弟)の
屋敷があり、その石高は4,000石ある。北堀橋南と言っても、想像しにくい
と思うので、位置を想像する場合は冒頭に写真を掲載した歴史松江館が
建っている場所にあたると言ったほうが頭に浮かべやすいだろうか。
※上のGoogle地図の左上に載っているので、スライドさせると把握できる。

ワンピースで例えると、バロックワークスのMr.3、ドルドルの実の能力者の
ろうそく人間がいたとすれば想像しやすいかもしれない。この例えで言うと、
藩主の堀尾氏はMr.0のスナスナの実の能力者「サー・クロコダイル」になる。
良いイメージはないが、例え話として今後も登場してもらおう。決して、
松江藩が悪の組織と言いたいわけではない…。

この堀尾采女屋敷より南へ内堀沿いに、1,000石以上の家臣が屋敷を構えている。

重臣屋敷01
[Photo]堀尾期松江城下町絵図の殿町

さて、上の写真は堀尾期松江城下町絵図から殿町部分を抜き出し、1,000石以上の
重臣屋敷地に石高の降順で数字を記入してみた。1は前述した堀尾采女の屋敷で、
石高の降順で屋敷地が配置されていることが分かる。

家臣No.3の堀尾采女の屋敷“1”の近くに、松江城内郭へと通じる橋が架けられている。
赤い矢印で示した部分になるが、緊急時に城内へとすぐ駆けつけられるようにしていた
とも思えなくもない。Mr.3なら敵軍の鉄砲を防ぐような壁をドルドルの実の能力を使って
作り出し、城の防御に一役買うかもしれない。

また、6と8の間には馬屋があり、8から少し南下した場所(京橋川に面する)には
蔵屋敷があり、実戦を想定した城づくりから考えて、軍馬兵糧米を大手近くに
配備されたものだろうと考えられている。

6と7の間には武家ではなく、堀尾家の筆頭医師であった立入寿斉という石高
400石の屋敷があったが、これを除けば、重臣の屋敷が松江城の大手門口
建ち並んでいたことが分かる。
※6の上のスペースは現在、大手前駐車場となっている場所。

絵図からは他にもまだ読み取れることがある。
それは屋敷地に横矢となっているところがあるということっ!!

重臣屋敷02
[Photo]屋敷地境で横矢が設けられている場所(緑の矢印部分)

屋敷地で横矢って何?と思うかもしれない。
城に明るい人であれば、横矢は石垣土塁を屈折させて、敵の進行方向の
横っ腹を城内側から攻撃をくらわせることだというのを思い出すと思う。

よくお城の本などでも、石垣や土塁に折れをつけて、敵の側面に攻撃を
しかけることはよく書かれている。石垣で言えば、横矢枡形入隅出隅
など石垣の折れ方でもいくつか分類分けがされている。

今回のは、そのような塁(石垣や土塁)に設けられるような折れが屋敷でも
採用されていたということ。上の写真は、Mr.3こと堀尾采女の屋敷で
内堀に面した場所。

堀尾采女の屋敷地と南の別の重臣屋敷地との境は、屈曲して描かれており、
北惣門橋方向への横矢をかけるための折と考えられ、ここ以外にも大手前
駐車場の南側に位置する前述した立入寿斉と堀尾丹家の屋敷地境にも同様な
折が設けられていて、大手枡形方向に横矢がかけられている。

重臣屋敷03
[Photo]立入寿斉と堀尾丹家の屋敷地境(緑の矢印が横矢箇所)

重臣の屋敷一個が、軍事拠点として城下町の中に組み込まれていたことが分かる。

実は、上に挙げた堀尾采女の屋敷、現在の松江歴史館にあたる場所では、その横矢が
今も残っている。正確には残っているというよりも、この横矢を意識して松江歴史館を
建てているような気がしてならない。

というのも、松江歴史館の長屋門の表を壁沿いに南へ自転車で走っていたら、
途中道が狭まって「うおぉ!?」と思わず自転車を止めてしまった。先ほど紹介した
屋敷境の横矢が松江歴史館の長屋門と復元された松江藩家老(松平期)朝日家長屋
の境の壁に折れがついていてビックリ。
※朝日家長屋は現存物で市指定文化財となっていますが、損傷が激しく解体して
復元されたため、上では復元されたと記載しました。


松江歴史館の館内マップ(クリックすると別ページで開きます)を見ると、納得頂けると思う。
下のストリートビューだと、右へ行くと道に張り出している建物が確認出来るだろうか。
それが朝日家長屋で左の手前に見えるのは松江歴史館の長屋門になる。


大きな地図で見る

1~5で記した殿町1ブロックは、堀尾期には合計11軒の屋敷があり、次の京極期では
7軒、その次の松平期には5軒に仕切られていたことが他の絵図から分かっている。
京極期も松平期も、堀尾期と同じく石高降順に上から重臣が配置されていたことは
変わらない。

ところで、現在この1ブロックには何軒の家があるだろうか。
2007年には、この1ブロックに民家が114軒以上、駐車場が29箇所、
教会やビルが4つほどあった。

江戸時代家老クラスの家1軒当たりの屋敷面積が、
いかに広くとられていたかが分かる。

松江の魅力をそろそろ感じて頂けるのではないでしょうか?
お城というと、やはり天守、石垣に目を奪われがちですが、そういった
主要部から足を一歩外に運んだところ、お城を守る防御が城下で暮らす庶民
や家臣たちの町々にも溶け込んでいました。

そういったことにも目を向けながら松江の町を歩いていると、松江城の
防御の鉄壁さを肌で感じると共に、「あ、これは城を守るための役割を
果たしているんじゃないだろうか?」と再発見することがあるかもしれません。

次回以降もまた松江の街に隠されている防御の仕組みを紹介していこうと思います。

以上

今回はここまで。また次回。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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