#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-19/外郭の防衛体制4.00
松江城-19/外郭の防衛体制4.00 【松江編 #19】

外郭編第4回目は外郭を囲う外堀を見ていく。

内堀が囲う内郭(卵型の楕円形部分)と、その外に囲郭
なっている外郭がある。

外堀絵図
[Photo]堀尾期松江城下町絵図(全体図)

その外郭を囲むように巡らされているのが松江城外堀で、東側が
四十間堀川、西側が米子川、南側が京橋川、北側が北堀川と、現在
の河川として全て残っている。いずれも築城前からあった川ではなく、
城下町の造成に伴い、共に掘削された。

松江城の内堀と外堀は全てが1つに繋がっているという極めて珍しい造り
になっており、現在は、松江市の人口を凌ぐ年間40万もの人が利用する
堀川遊覧船がその堀をぐるっと巡り、色んな角度から城を楽しむことが
できる。

松江城の南側~東側を山陰道方向からの敵を想定して防御が何重にも
重ねられていると、この松江城の記事で何度か強調してきたが、西側・北側
はどうだったのだろうか?

その答えを出してくれるのが、この外堀だったりする。

見て分かると思うけど、北側は内堀と外堀は両方兼ねた水堀1本しかない。

城の北側には丘陵があって、元は松江城が築かれている山・亀田山と地続きの
丘陵だった。この部分の丘陵をカットして、堀を掘り、さらに屋敷地を造成した。
この屋敷地というのが現在美観地区に指定されている塩見縄手になる。
※詳しくは塩見縄手の記事で扱う。

また、上の堀尾期松江城下町絵図では、内郭から西側へ内堀・外堀
含めて4重の堀が重ねられている

外堀絵図02
[Photo]堀尾期松江城下町絵図、外郭西側拡大図

上の写真は、堀尾期の絵図から外郭の西部分、堀が4重に重なっている箇所を
抜粋してみた。黄色で囲った部分以外は、北から南まで一続きになっている。
内堀と外堀2つの間にある堀は、「中堀」と言うことができる。

厳重に警戒されていた南側や東側に比べて、石垣重臣屋敷など仮想敵を
意識していないものの、防備が弱い分、中堀で補っていたことが伺える。

松平期城下町絵図
[Photo]6代藩主松平宗衍期の松江城絵図(1745年作成)

ところが、上の別絵図、堀尾氏から2家後の松平氏時代の絵図では、
外郭の西側に注目すると、上で黄色に囲った部分の中堀がない。

この中堀が2つある場所は、内山下に含まれない外郭部分・内中原町に当たる。
この内中原町は元々低湿地で、築城時に生じた残土(粘土)で土地造成をしたと
伝えられている。

上の4重に重なっていた西側の堀の内、西から2つ目の黄色で囲った堀は、水の
行き場がない溜池状となっていて、前述した土地造成で、土中の水分が充分に
排出されないで残ったのだと考えられている。

これは京極氏時代に埋め立てられて、道になってしまったことが絵図から
分かっており、水流のない水は不衛生であるため、緊張時期にあった堀尾氏
時代には出来なかった埋立を行ったとされている。

堀尾期の絵図に関しては、防衛体制1.00の記事で少し紹介したけど、
京極期の絵図についてはまだだったので、ここで紹介しておく。

昭和38年(1963)に、京極家から丸亀市に寄贈された史料の中に、
寛永年間松江城家敷町之図」が含まれていて、その京極家伝来
の絵図から研究が進んできた。堀尾期図を基本としながらも、上に
挙げたように堀や道、屋敷地の様子が微妙に異なって描かれている。
※残念ながら、京極期の絵図の写真を持ち合わせていないので、
掲載して解説することができない。


堀尾期、京極期の絵図ときて、最後の松平家ではどうだったのか。
これについても絵図が残されているので比較して検証することができる。

松平家の絵図として用いられるのは、お城の絵図として広く知られる正保年間に
幕府が全国の大名に提出させた正保絵図出雲国松江城下絵図」が残っている。
※松平期の絵図は、正保絵図以外にも複数残る。

京極期と松平期の絵図にはそれぞれ道や土手、堀の寸法などが記入されているので、
両図を比較して、城下町の変遷を読みとくことができる。

四十間堀川
[Photo]現在の四十間堀川、月照寺橋から見る
※松江藩松平家菩提寺月照寺へと向かう橋のため、月照寺橋の名と共に
月のオブジェが飾られている。写真では見切れているが…。


西の外堀は、最初にも書いたけど「四十間堀川」という名で今も残る。
折れがついているのは横矢をかける仕組みと思われ、往時は「四十間堀
と呼ばれて、往時の堀名が現在の川名に引き継がれている。

上の写真は、その四十間堀川を写したもの。
四十間堀の名前は、往時に四十間の幅があったことに由来する。
しかし、現在は四十間もない。写真からは分かりにくいかもしれないけど、
現在は、せいぜい30メートルくらいだろう。四十間は一間が約1.8メートル
だとすると、72メートル。往時はいかに広かったかが分かるが、狭まったのは
現代になってからではない。

京極期にはこの四十間堀は幅が四十一間半~四十四間(約74~79メートル)
あったが、松平正保絵図では、四十間堀の中ほどでは四十五間(81メートル)
で、他は二十五間(45メートル)や三十間(54メートル)と狭くなっていたりする。
ただ、水深に関しては京極期に一間だったのが二間となっていて、幅とは逆に
深くなっていることがわかる。

堀の西側は堀尾氏時代の絵図で「ふけ田」、松平期図では「深田」と記される
低湿地帯であったことが分かっている。その深田の開発が進み、陸地化され、
堀のほうに土地がせり出したため、西岸の一部が埋められ、堀の幅が狭く
なったと考えられている。

城下の堀は時を経るに従って、堀が狭くなり、水深は浅くなる傾向にある。
全てが全てこのようになっているわけではない(上で挙げた四十間堀の例)が、
土砂の流入や宅地や耕地の造成と関係しているらしい。堀を狭め・水深を
浅くするのは城の防備としては弱めることになるが、松平氏時代になると
緊張時期にあった堀尾氏の頃とは敵の侵入に対する防衛体制の考えが
変化したと考えられている。

堀1つ取っても、奥が深い…。堀だけに。

以上

今回はここまで。また次回。



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