#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



カテゴリ



最新記事



Link

このブログをリンクに追加する



検索フォーム



RSSリンクの表示



カウンター



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


松江城-22/“1”
松江城-22/“1” 【松江編 #22】

外郭編は4.01で一旦の終わりとし、今回は
外郭から外れたところを見ていく。

外堀絵図
[Photo]堀尾期松江城下町絵図(全体図)

松江城大手から東に行くと、以前記事にした重臣屋敷がある殿町
また鉤型路勢溜があった母衣町という侍屋敷を経て、東の外堀
出る。

外堀の記事で書いたけど、東の外堀は現在米子川という河川として
残っている。その外堀となっている米子川を越えると、東側には
北田町南田町という町が広がっている。


大きな地図で見る
[Map]今も残る北田町、南田町

田町01
[Photo]堀尾期松江城下町絵図、北田町・南田町

堀尾期松江城下町絵図からその田町2つを抜き出してみた。
この地も元々湿地帯で内中原町同様、工事の残土(粘土)を使って
埋立てを行い、平地にしたとされている。今のグーグルマップに往時の
絵図が重ねられるように河川が酷似しているところが素晴らしい。

この2つの町から東はというと、草が茂っている水たまりの低地で
絵図には“”と書かれていることからも、この東一帯は陸地で
はなかったことが分かっている。
※上の絵図全体図で右下の部分付近に緑色の箇所を確認できる。
それが、“澤”とされている場所。現在はグーグルマップを見て分かる通り
陸地へと変貌してしまっている


この澤は、南側の外堀・京橋川と繋がり、また大橋川と繋がって
宍道湖まで抜けるようになっていた。
※大橋川は京橋川の南1本下の川。

元禄2年(1689)に東の外堀・四十間堀が宍道湖と繋がるまでは、先ほどの
京橋川の東端だけが宍道湖に繋がる唯一の入口で、京橋川の南側は職人町
商人町であったことから、舟による流通上重要な川として機能していた。
※上の絵図全体図は堀尾期のものなので、まだ四十間堀が宍道湖に繋がって
いない。


外堀は、武家地町人地を分かつように掘られた堀で、外堀以内に侍屋敷、
外堀の外に町人地が広がっていたが例外もあった。

この時代流通に欠かせない川だったが、逆にそれは城を攻められる川としても
利用されるリスクがある。山陰道から北上してくる陸兵とは別に、水上から敵の
水軍が東の澤に面した城の東部から攻めてくることも十分考えられた。

そのため、南田町には武家地が配されていた。

上の絵図で、白く覆い焼きした箇所が2箇所ほどある。

まず上の場所だけど、ここには堀尾因幡下屋敷が置かれていた。
堀尾因幡…、堀尾因幡…、因幡…、少し前に書いた勢溜の記事を
覚えているだろうか?あそこの脇を固めていた屋敷に堀尾因幡の
本宅があった。この人は4900石の堀尾氏の家臣ナンバー2。その
人の屋敷地が上屋敷とは別にここにも設けられていた。

と、ここまで来れば下の屋敷地が誰のものかもう分かるのではないだろうか。
今日まで記事を先延ばしにしてきたが、とうとう家臣ナンバー1の登場である。

堀尾松江藩家臣ナンバー1、堀尾修理
その石高は、6500石でナンバー2の因幡より1600石も多い。
鉄砲50人を預かり、常にここに住まわせていたそうだ。

囲った敷地の面積は絵図全体で見ると、その広さに驚く。
三の丸の敷地と比較すると、ほぼニアイコールなのである。

バロックワークスのMr.1、ダズ・ボーネス。
スパスパの実の能力者で全身刃物人間、上陸しようとする敵水軍がいれば、
その能力を使って船ごと粉砕してしまうだろう。打撃斬撃は体で受け流し、
その体をもって反撃する。味方なので頼もしいけど、敵からして見れば
震えあがること間違いない。

そんな最強のMr.1にさらにMr.2の下屋敷がつけられていたことも驚き。
Mr.1にしてみれば、「フン、余計なことを…」などと吐き捨てそう…。
そのMr.2がワンピース巻二十三に見られる黒檻のヒナとの戦闘シーン、
相手は海軍だけど敵水軍に置き換えてみると、ここで繰り広げる仮想敵
との戦闘を想像しやすい。

ここに家臣ナンバー1を置いていたことからも、ここが一番警戒していた
場所ということが分かる。この2つの重臣屋敷は、出城の役割を果たした。

この田町には上記2つの屋敷を除けば、中級の藩士の屋敷があり、
外堀の米子川を西側へ行くと、内山下に入り、殿町・母衣町の
上級藩士屋敷で固められ、松江城内郭に近づくと重臣屋敷で
固められていた。

松江城下町をまとめると、
“重要な場所に家臣ナンバー1と2を配置し、鉄砲隊をつける。また、
城の主要部へ近づくと藩士の家格が上がっていき、主要部の周り
には家臣ナンバー3以下の重臣が置かれている”

ということが分かる。

Mr.0、サー・クロコダイルのあの言葉を思い出す。
「ハハ…周到だと せめてそういって欲しいもんだな…Mr.コブラ…!!!
“作戦”ってのはあらゆるアクシデントを想定し実行すべきだ…」
Mr.0に例えている松江藩主堀尾氏もこんなような事を考えながら、
町割りを行っていたかと思うと、ほんと恐ろしい…。

松江藩は堀尾氏の後、京極氏松平氏と続いた。
この家臣ナンバー1がいた場所には、京極氏や松平氏に代わっても、
同じようにその家臣ナンバー1が配置された。

堀尾修理の屋敷地に、京極氏家臣ナンバー1の多賀越中(13,000石)が配され、
また松平氏時代には家臣ナンバー1の大橋茂右衛門(4,990石)が配された。
堀尾氏の時代、修理の屋敷は三の丸とニアイコールと言ったが、この大橋氏の
頃には屋敷地が三の丸の倍くらいの広さになっていることが絵図を見て分かる。
藩主の住居となった敷地より広くていいのか?と思うが、江戸にいた藩主には
あまり関係なかったのかもしれない。

城下町を戦略的に見ていくのは、今回までの記事を通して面白いと感じて
頂けたと思う。よく城下町に関しては、街並みがよく残るとして町屋
武家屋敷など、そういった景観だけ語られることが多い。もちろんそれも
大事で、そういった景観と一緒にどのように大名たちが、自分たちの公国を
守るべく創り上げていったか、そういうことにも着目して見て回ると、
よりその地方の歴史文化を肌で感じれると思う。

余談だけど、ダズ・ボーネスは単行本巻二十二で、ロロノア・ゾロに
やられる。そして、この松江城の記事もちょうど22話目。

狙ったのか、偶然なのか。

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック URL
http://shirozuki.blog.fc2.com/tb.php/123-91536a6e



< /body>