#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-23/ブリッジ(+外郭の防衛体制5.00)
松江城-23/ブリッジ(+外郭の防衛体制5.00) 【松江編 #24】

松江城を築城した堀尾吉晴

攻め落とした城は24城、住んだ城は8城を数えられる。
城の長所と短所を知り尽くしていた吉晴は、他の城には見られない
工夫を松江城に注ぎ込んだと言われている。

吉晴がこれまで居城とした城は、佐和山城浜松城、そして松江城へと移城する
前の月山富田城など、どれも周囲を水堀で取り囲む縄張だった城郭はない。
そのため、堀尾氏とその家臣団は持てる知恵と技術を全て投入し、心血
注いで創り上げた作品が“松江城とその城下町”だったと思われる。

近世城郭にはよく見られる水堀。敵から城を守る障壁となり、また治水としても
流通としても必要だが、橋がなければ生活出来ず、今回はそんな橋に着目して
堀尾氏のプランを見ていこうと思う。

外郭の防衛体制でちらりと出てきたが、筋違橋を覚えているだろうか?
勢溜土塁とセットで外郭を守っていた城の防衛の1つで、敵が道筋を直進
してくると、川となっている堀に落ちるよう道筋とズラして架けられている橋の
ことを言った。

松江20121127_140
[Photo]堀尾期松江城下町絵図、筋違橋の部分に覆い焼きした

上の絵図を見ると、外郭には筋違橋が3ヵ所あったことが分かる。
(正確に言うと、1つだけ外郭よりも外にある。)

筋違橋の形を道に置き換えると、実は以前紹介した鉤型路になる。応用と
言うとおおげさかもしれないけど、防御の仕組みさえ理解してしまえば、
筋違橋などと懇切丁寧に説明しなくとも、堀と橋に鉤型路が応用されて
いるだけだと気づく。

外郭西側をさらに見ていく。
西側は以前、中堀を構築して水堀が4重に巡らされていたと記述した。

これを橋と合わせて分析するとどうなるか。

内中原町
[Photo]堀尾期松江城下町絵図、内中原町へと通じる橋に覆い焼きを施した

覆い焼きで記をした橋が架かる中堀は、現在道路になっている。
一応、道路が堀の形で残っているので、今でも堀の名残を感じれる。

この中堀を設けることで、内中原町という武家地が区切られて、橋を切り落とせば、
この内中原町が1つの曲輪として三の丸と同様の機能を果たし、松江城下町全体を
複郭化している。

つまり、松江城下町全体を見ると、町1つ1つが曲輪を構成していて、1つが占領されても
その曲輪を取り返すことができるように他の曲輪(町)が配置されているように見えるし、
端の曲輪が占領されれば、その曲輪を独立させて隣接する曲輪には攻めてこれない
ようにもできる。

名古屋城の最強の縄張と言われる“1つ占領されても、その曲輪を挟撃できる”ように
配置された曲輪構成までとはいかないが、それでもやはり1つ1つが独立した曲輪となって
いて、計算された計画都市と見ることができる。

ここまでの話を外郭の防衛体制5.00としておこうかな。
で、話を内郭へと進めていきます。

松江城の内堀には橋が3箇所架けられていた。
その内の2本が現在往時を偲ぶことが出来るよう木橋で復元されている。

南から
・三の丸から南口門を通って二の丸へ登るための『千鳥橋
・家老屋敷前から脇虎口之門を通って二の丸下の段へ入る『北惣門橋
の2つ。

橋の両側に堀の水止め工事を行い、水抜きをしたうえで発掘調査
行われた。両方共そうした調査結果を反映させて復元した橋だが、
千鳥橋に関しては、復元に際し文化庁から許可を得るだけの史料が
なかったため、従来通りの木橋となっている。

千鳥橋の往時は、御廊下橋と呼ばれて屋根付きだったことは以前記事に書いた。
イメージとしては、大分の府内城和歌山城にある廊下橋を想像すればよく、
今復元されているのは屋根がない木橋なため、“従来通りの”と表現した。

国宝天守を持つ松本城について書いた本には、内堀が薬研堀になっていると
書かれていた。薬研堀とは堀底が“V”の字タイプになっている堀で、よく山城
などで掘られている堀切竪堀と呼ばれる空堀が薬研堀となっている。
それが近世城郭に用いられているということ。その本には、V字タイプの堀
にしておくことで、火縄銃を持った敵兵が入ってきても、中央部分の堀が
深い場所では火縄銃を発射できない、とされていた。
※別の本では、松本城本丸西側の水堀は平均的に浅く、中心部がやや深く
なっているという表現が使われていた。薬研堀のようなV字状というのは
大げさな表現かもしれない。


近世城郭では、一般的に箱堀が多いとされている。箱堀とは堀底が平らなタイプ。
箱堀タイプで堀の幅を広めに取っておけば、火縄銃が城壁まで届かないから
このような堀底でも問題ないと思うのだが、V字のようにしておけば、より
ベターな防衛状態だったのかもしれない。

そしてこの松江城でも薬研堀になっている箇所がある。

IMG_2705千鳥橋南詰の灘
[Photo]三の丸の灘、下には岩盤が露出している。

千鳥橋に立って二の丸側の高石垣の裾を見ると、岩盤が露出しているのが見え、
また、三の丸側の石垣も上の写真に見える通り岩盤上に築かれていることが
見てとれる。従って二の丸と三の丸の間の内堀は、岩盤を掘り切って開削した
ことがわかる。

正保絵図」では深さ7尺と注記されているので、近世城郭では一般的な箱堀
ではなく、薬研堀だったと考えられている。

“近世城郭は箱堀が多い”という例外になる。

一方、現在復元されているもう1つの北惣門橋は明治時代中頃に石造のアーチ橋
「眼鏡橋」に改架されていた。眼鏡橋と言っても、写真を見る限り見た目は土橋
に近く、そのため内堀の通水を妨げていて、また景観上ふさわしくないことから
史跡にふさわしい木橋に復元された。
※橋を渡った先の虎口が「北惣門(脇虎之口門)」ということから「北惣門橋」と
呼ばれている。


松江20121128_松江城北惣門橋06
[Photo]北惣門橋

発掘調査の結果、北惣門橋は約7メートルの間隔をあけて2ヵ所、3本建ての橋脚で
あることが判明し、また天保頃の状況を描いた「松江城郭図」や「出雲国松江城図
とも符号することから橋脚列は2ヵ所、橋脚本数は各列3本建てとし、橋の反り勾配は、
「松江城郭図」や「出雲国松江城図」に太鼓橋として表現されていることに基づき、
反り上がりについては明治末期の北堀橋の古写真を参考にして復元されている。

擬宝珠高欄の形状なども他の史料から基づかれている。
このように橋1つ復元するのに、この橋について描かれた史料だけでは足りず
他の橋の史料を考察して復元されていく。往時の姿と全くイコールではなくとも、
他の橋と同じような状態だったのでは?というところから想像・創造していく
のもまた城の復元の醍醐味かもしれない。

千鳥橋同様、北惣門橋付近でも岩盤まで削り込んで架橋工事をしていることが
分かっており、東西の橋脚の間はさらに深く掘り込まれていることからここも
薬研堀だったとされている。上り下りするために岩盤には足掛かり用のくぼみ
をうがっていたことも分かっている。

総括すると、内堀は基盤岩を開削することで形成されたということが分かり、
松江城がある亀田山とその北にある赤山は同じ松江層の軟質砂岩で出来ており、
以前塩見縄手の記事で書いたけど、この2つの山の間は自然の鞍部で繋がって
いたことからも塩見縄手や北堀の開削は岩盤にのみを入れるような難工事だった
と推測されている。

冒頭で、松江城を“心血注いで創り上げた作品”と表現したのは
このことからきている。どれだけ血と汗を流したのだろうか。
普請作業は想像を絶するものがあるだろううけど、「築城図屏風」に
見られるように、祭りの如く普請が行われていたのかもしれない。

この北惣門橋は、復元されてからもうすぐ20年。
松江城は国史跡であるため石垣などは現状維持ということで、孕んだり
崩れたりすれば定期的に修復工事が行われる。城内の石垣を修復するのに、
資材を運ぶトラックなどが復元された木橋から入っていく。

よく下を向いて歩く自分は、この橋に車のタイヤ跡がくっきりついている
ことに気づいた。城の整備などを行うにはこういうデメリットがあること
にも目を配らなければならない。全部が全部往時の姿で復元されても、
トラックが橋の上を走れば、せっかく復元した橋もすぐに傷んでしまう。

いつかまたこの北惣門橋が荷重に耐えきれなくなって、再建することが
あるかもしれない。松江大橋はもう17代目。この北惣門橋も何代目などと
これからずっと架け替えらていくのだろうか。

最後に、整備の話ついでにもう1つ余談。

松江城では面白い整備が1つあって、内堀沿いに面した民家と敷地を取得して、
著名な文化人を松江に招致してそこを宛がうというのがあった。ここで作家活動
をしてもらい、その著作で松江を全国に広く紹介してもらうのが目的。

何コレ。

こんな整備もあるんだ。

俺も当てはまるから招致して欲しい。だって、ブログという作家活動してるし。
あっ、住んでなくても松江を紹介している…狭くだけど(;'∀')

で、誰が招致されたんだろうか。すごく気になるが、もしかしたら
招致された人は1人もいなかったかもしれない。

招致するために用意した民家と敷地は現在、
松江歴史館へと変貌してしまっている…。

以上

今回はここまで。また次回。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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