#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-24/城の“匠”
松江城-24/城の“匠” 【松江編 #25】

大改造!!劇的ビフォーアフターというTV番組がある。

老朽化した家や狭小住宅など、色んな問題を抱えた物件が“匠”という
建築士によって劇的にリフォームされていく姿が描かれる。

毎週かかさず見るというわけではないけど、見るものが
ないときは見るようにしているこの番組。

ここに出てくる“匠”の手際や構想など、聞いていると「はっ」と
させられるようなことを喋るので、案外タメになる。

そんな“匠”という建築士は、この番組で出てくるような“匠”もいれば、
番組には出てこないけど、自分たちが知らないところで今も依頼人の
顔を笑顔にするべく活躍していたりする。

その中には、もちろん私たちが愛する“”も含まれている。

日本には現存する12天守があり、また現存する城郭建築物は日本各地に
ごろごろ転がっている。また、現存するだけでなく復元した天守や櫓・御殿など、
これらを維持する“匠”もいれば、他にも名古屋城では本丸御殿が今復元中で、
世界遺産となっている姫路城では天空の白鷺で大修理中。今も城のために
奮闘している“匠”がいる。

今日、城の美しさを眺めることができるのも、そうした“匠”たちが
城を支えているおかげ。

現在連載している松江城にも“匠”がいて、
今回は、その内の1人を紹介したい。

松江城は、廃藩置県が進む明治8年(1875)に無用の長物と化した櫓や
多門など多くの城郭施設がことごとく壊されていったという解体撤去の
記録が残っている。

松江城に現存として残るのは、日本で12残る天守のみ。
二の丸には今、南櫓・中櫓・太鼓櫓が建っているが、これらは平成の世に
125年の時を経て復元された城郭施設で、ほんの10数年前はまだ櫓が建つ
前の石垣しかそこにはなかった。

いや、正確に言うと松江城とは無関係な茶店があった…。

この櫓や土塀の復元を成功させたのは、建築を指揮した宮大工で
文化財建造物木工主任技術者の後藤史樹さん。
※後藤史樹さんは安来にある有限会社後藤屋の代表取締役で、
出雲大社本殿大工も務めている。


しかし、ここにかつてどんな櫓が建っていたのかを
記した記録は何も残っていなかった…。

櫓を復元するにあたり、後藤さんが手掛かりに出来たものは、
明治8年撮影されたという写真1枚だけだったという。
※解体撤去以前の櫓を三の丸から写した古写真は2枚あり、
上で言う写真は下の写真とは別のもう1枚を指す。


松江20121128_422
[Photo]三の丸から写した古写真
※この古写真は、全く使われなかったかと言うとそうでもなく、
塀が一部軸組が露出している状態で見えるので、復元資料の
1つとして使われている。


後藤さんは復元後、こう語っている。
「この写真(上の写真とは別の写真)を頂いた時に、この櫓(南櫓)を復元するわけ
ですから、今は出来てますけど、ない状態でまず石垣(南櫓下)を見たんですよね。
石垣を“ぱっ”と見たところ、今と全く一緒で石垣自体はいじってないことが分かり
ました。そうすると、今度この石垣のどの石の位置に櫓の幅があるか、それはもう
現地で実測できます。」

古写真に写る南櫓は、2階出格子窓が解体されはじめているが、外観が良くわかり
復元意匠の参考となった。櫓下石垣隅の天端石は特徴の分かる平らな石が3個並び、
現在も残っていて、遺構実測寸法から南面一辺の割合を算出し、棟高さ・軒高さを
推定していった。

松江20121127_南櫓遺構
[Photo]南櫓跡の発掘図

後藤さんは石垣に残されていた基礎から寸法を割り出し、遺構発掘データ
城内建造物の規模や形態を記した古文書、城の縄張図などを照らし合わせて
設計図を書いた。さらに櫓の外観は写真を参考に図面を起こすことで、それと
寸分違わぬ建物を復元した。

「また、瓦の枚数も全部数えて、それで発掘調査で出てきた櫓の瓦の幅でかけると
軒先の長さも出ます。つまり、色んな角度からこの写真から読み取れる寸法を、
今度は尺貫法で建てているから尺に置換して正数が出るはずです。すると、この
高さもきちっとある正数にたどり着くんです。」と、後藤さんはさらに語る。

屋根は本瓦葺で葺かれていることが古写真から分かり、割付本数も数えることができた。

平成10年に始まり、足掛け4年間続いた復元工事。
写真には写っていない北側などは現存している天守の造りなどから
推測し、屋根の構造や内装なども天守を研究して造り上げた。

そして平成13年、ついに南櫓が姿を現した。

明治時代に撮影された1枚の写真、それを頼りに宮大工の後藤さんは
南櫓をかつてと同じ場所に寸分違わず復元することに成功した。

松江20121128_松江城南櫓01
[Photo]復元された南櫓北側

特に苦心したのは屋根の梁の部分だったと、後藤さんは続けて語る。

「お城づくりというのは、仕上げていない造りというのが原則と言いますか。
建った当時の時代背景から言いますと、戦国時代ですから、とにかく急いで
建てる必要があったということです。機能優先で、戦国時代に対応した戦術に
対応した造りを心掛けていますね。ということは、もう当然仕上がりというのは
大雑把なんです。」

江戸初期の柱、ちょうなという道具で荒く表面を削るだけで、仕上げに
鉋をかけることはしなかったと。そこで後藤さんは同じようにちょうなを
用い、柱を仕上げていった。

ちなみに、ちょうなで仕上げている梁などは他の城でもよく見かける。
実はちょうなではつったほうが強度が上がるということを耳にしたことも
あるので、急いで造り上げたためにちょうな仕上げになったのかもしれないが、
強度を増すための創意工夫だったのではないかとも思う。(これ自分の意見)

後藤さんは梁と梁の組み方にも苦心し、天守の梁などに何度も上がって
研究したと言う。天守の木組みを参考にし、複雑に組まれていた梁を
図面に起こしてから、同じように巨大な梁を組み上げた。

さらに戦国時代ならではの荒々しい造りを再現するために、あえて垂木
屋内に残したり、使用した輪釘にしても1本1本鍛冶屋に造ってもらい、
それを使用するなど、工法にも徹底的にこだわっている。現代の技術は
頭から消し、江戸時代の大工になったつもりで建築を進め、天守と同じ
松やクリなど出来るだけ同じ素材を使って完成させた。
※整備事業報告書を見ると、ごく一部だがヒノキやスギなどの部材も
使われている。


「400年前に出来た時も、お殿様はここからやはり見渡されたんだろうなと
考えると、なんか非常にタイムスリップしたような雰囲気はありますね。」

松江20121202_4062
[Photo]左が復元された南櫓、右が現存する天守

松江城の昔の姿を復活させたい。

今、後藤さんは「とにかく写真と同じものを造ろうと取り組んだ。
名誉な仕事に携われて、本当にありがたかった。」と、振り返っている。

屋根工事に左官工事、建具工事や設備工事、瓦製作、木材納入など
復元には他にも色んな職人が関わっている。後藤さんだけでこの復元は
成し得なかったのも事実。

築城時も同じように職人たちが作事に携わって櫓や天守を造り上げた。
残念ながら天守を除く全ての城郭建造物は解体されて、それらの職人が
建てたものはなくなったが、現代の職人がその時の職人に畏敬の念を
抱きながら建てた櫓は“復元した”という一言で終わらせるよりも、
松江城の長い歴史の中で、南櫓の“新たな歴史が始まった”と、そう
捉えるとまた復元櫓に対しての見方が変わってくる。

現在南東方向から松江城を見上げると、往時の姿さながらの
景観を楽しむことができる。

今も日夜、どこかの城で“匠”が活躍している。

以上

今回はここまで。また次回。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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