#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



カテゴリ



最新記事



Link

このブログをリンクに追加する



検索フォーム



RSSリンクの表示



カウンター



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


松江城?-25/カソウタイショウ(仮)
松江城?-25/カソウタイショウ(仮) 【松江編 #26】

今回は家相学について。

家相と聞くと、家を建てるときに気にしたり、
また引っ越す先の間取りを気にする時のもの
という認識がある。

実際、そこまで気にしている人は多くないだろうけど、
現に家相などの風水で飯を食っている人がいるくらい
なので、それなりに需要はあるんだろう。

裁判もあるくらいだしね…。
トイレが鬼門の方角にあるからと言って訴える人がいれば、
Yahoo知恵袋で、「鬼門にあるトイレの運気をよくするには
どうすればいい?」なんていうものまである。

そんな家相学だけど、古代中国からあって、日本でも思想は
少し変わっているようだけど、家の間取りについて発展を
遂げていったらしい。

文和3年(1354)の円覚寺文書の中に、山門を建てる際に風水を勘考したという
ものがあり、これが日本本土における風水という言葉の初出とされている。
江戸時代後期には、家相見が登場したり家相書の出版が流布し、庶民の間に
家相判断が普及していく。しかし、鎌倉時代室町時代の風水については
不詳な点が多いとされていて、まだ研究途上と言ったところだと思う。

そして、その家相学について触れた城の一般書がある。
自分が目にした書籍だと、三浦正幸氏の『城のつくり方辞典』。

この中のコラムでは名古屋城を例に挙げ、城における
家相学を紹介している。

これによると、名古屋城は家相学から見ても優れた城なんだとか。
※先日の記事でも名古屋城を最強の縄張だとか、今回は家相学で
最強だとか、別に名古屋城びいきしているわけではない。


以前、二条城の記事で、すでにこの名古屋城の家相学について
紹介したので、今回で2度目ではあるものの再度取り上げる。

名古屋城では現在、復元中の本丸御殿が間取りを東南から北西に
かけて雁行形に造られている。これは二条城の二の丸御殿とも
同じ形であることから、二条城の記事で取り上げた。家相学では、
この“東南―北西ライン”で建てられた雁行形は吉とされている。
※名古屋城の本丸御殿の形状は慶長期と寛永期で大きく分かれる。
慶長期は御書院までは東南―北西ラインで造られていて、寛永期
(今復原されているのはコッチ)は、家光上洛時に増築された上洛殿
さえ除けば、全体的に東南―北西ラインで造られている。


名古屋城本丸御殿平面図
[Photo]名古屋城本丸御殿平面図、左下が上洛殿

また、玄関は東南と北西にあると大吉だそうだ。本丸御殿は
東南にある玄関の車寄から上がるようになっている。まだ
復元中なので、想像出来ない人は二条城の二の丸御殿を
想像すれば納得頂けると思う。

さらに、本丸全体を見ても、本丸へと入る虎口が東南にある
表二之門からで、また北西にも不明門という虎口がある。

名古屋城案内図
[Photo]名古屋城案内図
※この写真サイズだと分からないかもしれませんので、下記URL(PDF)から
名古屋城の案内図を開いて合わせて確認すると分かりやすいと思います。
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/04_guide/pdf/guidemap.pdf
(↑クリックすると、別ウィンドウで開きます。)

辰巳玄関、戌亥蔵”という言葉があるように、戌亥(北西)の
方角に土蔵があると大吉ともされている。
※辰巳(東南)の玄関は前述済。

これは三浦氏の書籍には書かれていなかったが、名古屋城の戌亥には
何があったか。本丸で見れば「大天守」と答えられてしまうが、そのさらに
北西には何があったか。「戌亥隅櫓(清洲櫓)でしょ」と、言われるかも
しれないが、それだと少し行きすぎで、大天守と戌亥隅櫓の間、そこには
深井丸という曲輪があり、殖産事業として御深井焼という焼き物を生産
していた場所ではあるが、火薬庫などの武器庫があった場所でもある。
つまり、北西には土蔵があったということで、これも大吉。
※現在、深井丸には乃木倉庫という旧陸軍の火薬庫がある。

また、家相学という言葉で触れる城の書籍は少ないけど、“鬼門欠け
という言葉はよく目にするんじゃないだろうか。鹿児島城やみんな大好き
上田城など、鬼門欠けという北東の鬼門を嫌って城内側への隅欠け
あるとして紹介している。

これも家相学の1つ。

家の“張り欠け”というものがあって、張りは吉、欠けは凶。
また、方角によっても吉凶があって、鬼門(北東)と裏鬼門(南西)の
張り欠けは凶、東南と北西の張りは吉とされている。

あれ?これだと鬼門の欠けは凶だから、良くないんじゃ…
と思う人がいるかもしれないが、一応鬼門の欠けが吉という説もある。

ところで、また名古屋城について考察してみると、上で述べたように
本丸から見て、東南と北西の位置に曲輪が張りだしているのである。
東南には二の丸があり、北西には先ほど武器庫があったといった
深井丸が。なのでこれも吉。

さらに名古屋城に1箇所だけ斜めに築かれた石垣がある。“斜め”という
のは石垣の反りを指すのではなく、平面上で見た時の塁線を指す。
他は北―南、東―西と正中線で築かれているのに対し、本丸から見て
鬼門の位置に塩蔵構という曲輪があるが、そこの石垣は鬼門の方角
だけ斜めに築かれている。これは鬼門という方角を失くすといった目的
で築かれているのではないだろうか。確か他の城でも鬼門という方角を
失くしてしまう目的で、斜めに築かれた石垣というのが紹介されていた
(気がする…うろ覚え)。

家相学という観点から名古屋城を見ると、縄張以外でも最強じゃん!!
って思うだろうけど、こういうのって自説に当てはまるように言葉巧みに
展開すれば、「確かにその通りだ」って納得できるような話になって
しまうんじゃないだろうか。家相学に当てはまるところだけ紹介して、
当てはまらないところを伏せておけば、あたかも全部理にかなっている
ように見えてしまう。

家相学は上に挙げた以外にも、たくさん吉凶判断があってキリがない。
天守が北西にあるといいとか…

また、四神相応というのもあるが、それはまた別の機会で扱うとする。

(もうここまで来ると、名古屋城の記事になってる…)

まぁ、でも頭から否定してしまっては、この松江城編で家相学の
話を出してきた意味がないので、松江城でも家相学という視点
から見るとどうなのか?というのを考えていきたい。

松江城について、家相学から見た書籍にはまだ出会ったことがない。
鬼門欠けですら書かれたものはない。なので、これから書くことは私見。

まず本丸で見ると、北東隅が他に比べて大きく欠けている。
なので、これは鬼門欠けとして石垣を城内側へと入隅したと思われる。
また、本丸内の建築物では天守を除けば北東に祈祷櫓があるのは面白い。
コノシロ伝説や以前記事に書いた石垣崩落などの理由で祈祷櫓が築かれた
とされてはいるが、方角に着目するのもありかもしれない。

松江城本丸図
[Photo]松江城縄張図、本丸部分
※分かりやすくするため、北が上になるように画像を回転させている。

本丸へ入る虎口はというと、一之門が東南側から入るようになっており、
また北門が北西にあるので、玄関の大吉に当てはまる。

そして内郭全体を見ても大手口馬溜は東南にあり、これまた大吉。

ただ、土蔵はというと、藩の米を納めたとされる米蔵などは全体的に
見たとき東側(二の丸下の段)に築かれている。北西方向にあったか
どうかは現状把握しきれていない。

二の丸御殿の形はというと、これは名古屋城や二条城の御殿のように
東南―北西ラインの雁行形ではなく、とくに方角を意識した造りには
なっていないように見える。三の丸御殿も同様。

こうして見ると、確かに家相学というものは当てはまるところはあるが
当てはまらないところもある。家相学で優劣がついてしまうのであれば、
確かに三浦先生がいう名古屋城が一番勝っているのかもしれない。

さて、松江城自体の家相学については触れられた記事は見たことがないが
鬼門封じの記事は目にしたことがある。なので、それを最後に紹介する。

松江市内から車で30分行ったところに、「華蔵寺」という寺がある。
車で30分なので、この前の松江遠征時には行けなかった......orz

この寺は、松江城の鬼門とされる北東に位置することから、松江城の
安泰を祈願し、歴代の松江藩主の加護を受けてきたという。

歴史は古く、平安時代からあるらしく、戦国時代には尼子氏毛利氏
合戦で消失してしまったそうだが、松江開府時に堀尾吉晴が鬼門封じの
ために祈願所として、また松平氏時代には手厚く加護を受けて、不昧公
ゆかりの茶室や小林如泥作の透かし彫りなどが残っている。

寺から出てきた棟札から、松平家初代直政が建立したとされる建物が
あるが、実はまだ本堂に関した棟札は見つかっておらず、また棟札も
全部が全部整理出来ているわけじゃないため、未整理の中にもしかしたら
本堂に関する棟札があるんじゃないかとも言われている。そして、本堂が
堀尾氏時代の建立物ではないか?とも考えられている…。

ちなみに、名古屋城にも鬼門封じがある。

それは北東方向にあるお寺・龍泉寺。これは尾張四観音の1つで、
他には北西に甚目寺観音、東南に笠寺観音、南西に荒子観音
ある。

うん?北西・東南・南西?
何から見て?

名古屋城の鬼門(北東)に龍泉寺があると言った。その名古屋城
から見た方角に統一してある。つまり、尾張四観音は名古屋城
の四隅にあり、その四方の寺を名古屋城築城の際、名古屋城
鎮護の守護神と定めたことに由来する。

名古屋城が最強と言われる所以はここからも来ているのかもしれない。
松江城の記事だけど、名古屋城には“家相大賞”を授けたい。

“欽ちゃんの仮装大賞”ならぬ“金ちゃんの家相大賞”

金ちゃんは、名古屋城の金鯱から取った。
世界の金シャチ横丁(仮称)”という名前よりはまだマシな気がする。

以上

今回はここまで。また次回。



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック URL
http://shirozuki.blog.fc2.com/tb.php/127-acd1151c



< /body>