#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-27/本質
松江城-27/本質 【松江編 #28】

松江城が描かれた絵図は複数残されていて、今まで書いてきた記事で
いくつか紹介してきた。これらの絵図のおかげで、現在の復元や研究が
進んでいるのは城好きにとって嬉しい話。

『絵図』というのは江戸時代に作られた(古)地図のことで、
多種多様な絵図がこの時代作られた。幕府、藩庁、町人地、村などで。

その中に上で挙げた『城下町絵図』が含まれている。
城下町絵図には、大きく“公用図として描かれたもの”と
私用図として描かれた絵図”の2種類に分かれる。

公用図には、“幕府へ献上する用”と“藩庁用”にまた分かれる。
前者は、これまでに記述した石垣などの修復願い時に添付する絵図や
他には正保期に幕府が提出させた絵図などが挙げられ、後者は築城
際しての計画図・記録図作戦図屋敷割図都市改造計画用図
などがある。

築城の際の計画図や記録図、作戦用図が描かれるのは稀だと言われている。
もしかしたら見つかってない・公表されてないだけかもしれないけど、秘密裏に
事を進めるために作らなかったのかもしれない。

私用図は、まぁコピーの類い。
自分たちが図書館で市史や貸出禁止のものをコピーするように、
武士の間や町人の間でコピーされたもの。

松江藩では、開祖の堀尾氏から京極氏、幕末まで続く松平氏へと3家の
領主交替があるけど、こういった領主の交替の時は、城内に置かれた武具・
年貢
だけでなく、城の請取時に国絵図や郷町などの行政資料が引き継がれる。

現在、国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることが出来る正保城絵図は、
正保年間(1644~48)の国絵図作成にあわせて、諸藩に命じて作成させ徴収
した「城絵図」。この絵図の特徴として、城門などの防御施設、石垣(高さ)、
(幅や水深)などの軍事情報を細かく描かせており、城下町の様子・山や川の
配置なども描かれている。

正保松江城絵図_詳細
[Photo]松江城正保年間絵図から馬溜南部分抜粋、詳細情報が描かれている

松江で販売されている書籍では、堀の水深や幅などの軍事機密を正保城絵図
などに細かく記載した理由を幕府の権力に怯えて描かざるを得なかったと紹介
している。

だけど、武家諸法度による城郭修理の幕府許可制、幕府による転封・改易・断絶
による領主交替、城請取時に幕府の上使が派遣されるなど、これらのことから城郭は
藩主の私用物ではなく、幕府の管理するものであったと言われている。
この解釈を知ったときは、頭を金槌で打たれたような感覚に襲われた。
(言い過ぎか…)

諸藩は地方行政に過ぎないというと言い過ぎかもしれないけど、城の修復を
勝手に行うとお家取り潰し・城郭の修復は控えられることになったと、幕府の
強権性がよく取り上げられる。でも、それは武家諸法度発布後も各城郭で
修復が行われている事例があることからも、許可さえ取れれば修復可能
だったので、幕府怖さに修復を遠慮したと誇張するのは時代遅れな気が
している。

前置き?が長くなったけど、松江城下町絵図も各藩主時代のものがあり
研究が進んでいる。

松江に『雑賀町』という町がある。
これは江戸時代からある町で、名前からピンと来るかもしれないが、
雑賀衆(鉄砲足軽)という松江藩の下級家臣が団地のように
家族住まいで暮らしていた町。

堀尾期、京極期にはまだこの町は整備されておらず、松平氏の
治世になってから配置されたと最近の研究で示されている。

松平期の松江城下町絵図と整合する碁盤目状の町割りが今も残っている。


大きな地図で見る
[Map]松江市雑賀町、碁盤の目がよく分かる

松江は水の都として、今も昔も堀川が生活に密着していた。
松平氏の時代、この堀川を維持するために、主に雑賀町に住む御小人
呼ばれる末端の家臣が毎年5月中旬~8月始めに、堀底の「泥さらえ」など
掃除を行っていた。

泥さらえ以外にも、石垣がない堀の土手の「藪」を結び直したり、
土手筋の竹を伐採せずに留めておくなど、水際の土手の保全も
努めていた。これは外郭の防衛体制で書いた“藪の丁”という
場所辺りのことかもしれない。

自分が社会人になって、今でも思い出す言葉に「人がやりたがらない
仕事にこそ、その会社の本質がある。」というのがある。

実際、自分がこの雑賀町の人たちの仕事を同じように「やれ!」と
命令されたら正直やりたくないというのが本音。だって、5月中旬~
8月始めって一番水が汚くなる時期じゃん。そんな時期に堀掃除って…
だからと言って寒い時期にやるとなると水が冷たいし…

でも、誰かやらなければ堀川に堆積物が溜まってしまい舟の運行に
支障をきたし、また防御機能も弱まってしまう。雑賀町の人たちの
仕事は、まさに城の本質・水運の本質と言える。

京極期・松平期の絵図には幕府に提出されたもの以外でも細かい情報が
描かれている。それは以前外郭の防衛体制で四十間堀川の幅が京極期と
松平期で違っていたと書いた。もしかしたら、それらは城郭の維持管理で
描いていたかもしれない。そこに書かれている幅や水深を維持するよう
堀掃除し、藩に設置されていた城代組が見て回っていたんじゃないか?
と自分は考えてしまった。
※松江藩の家臣団構成の中に“城代組”という城内に居住し、樹木の
手入れ、掃除などの役目を勤め、小人(人夫)を使用する組があると
島根県史にある。


そんな雑賀町から維新後、若槻礼次郎岸清一が世に出た。
若槻礼次郎は首相になり、岸清一は政治家で、また日本スポーツ界の発展に
尽くした人物で、今では松江城三の丸(元藩庁があった場所)跡地にある
島根県庁に銅像が建立されている。

堀掃除とは直接関係ないだろうけど、雑賀町から輩出されたところが
何か思わせる。パナソニックの松下幸之助が研修でトイレ掃除を
させていたのも今では納得できる。

以上

今回はここまで。また次回。



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