#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-1/清水谷
#05 小谷城-1/清水谷 【小谷編】

自転車で、ふるさと館から小谷城戦国歴史史料館へ向かう途中、
小谷城への登山口を見つけた。

しかし、周りに自転車を停める場所が見つからなかったので、
一旦自転車を置きに資料館へと向かう。

IMG_0610.jpg

資料館には旗がひしめいていた。
そこにレンタサイクルを置き、徒で小谷城跡へ。

小谷城への登城ルートはいくつか存在する。
この小谷城戦国歴史史料館脇の道を奥へと歩いて登ることも出来る。
その道は、清水谷コースと呼ばれている小谷城登城コースの一つであり、
小谷城の搦手道とも言われている。

この清水谷もれっきとした城跡の一部。

小谷山の東尾根と西尾根に挟まれた谷にあり、この谷の入り口には土塁や幅20メートルの
が巡らされ、城戸を築いていたとされている。この谷道の両側には、浅井氏家臣団
暮らしていたとされる武家屋敷群があったようだ。
構造としては、越前一乗谷と似ているらしいが、一乗谷に行ったことがないので
似ているかどうかは分からない。それとは別の佐和山城大手に似ていると思った。

清水谷は、本来「しょうずだに」と呼ばれていたらしい。
浅井亮政清水寺の信者だったことから「きよみずだに」と改称したと
地元の伝承には残っているとのこと。

行きは、この清水谷を利用しない。
そのため、資料館から南下し、来る途中で見つけた登り口へと歩き出す。

少しすると、

IMG_0615.jpg
▲追手道入り口

追手道がある。
>清水谷は小谷城の大手と考えられる。堀跡から谷へ約百メートル入ったところから出丸跡に、
>向かって道があり、地元で「オッテミチ」と呼ばれている。ここから出丸跡の北を経て尾根上
>の登山道につながり、金吾丸跡、番所跡を経て本丸へと通じる。湖北町所蔵の小谷城跡絵図には
>「追手道」と書かれている。
>谷から出丸跡へ向かう道の北側には、姉川の合戦で活躍した浅井氏の重臣、磯野丹波守員昌
>屋敷跡と伝えられる曲輪がある。
>清水谷から山城へ通じるこの道は、小谷城にとって重要な道であったと考えられる。
(現説版より)

ここから行けば、出丸の北側に出られるのか…
てことは、ここからだと出丸跡を経由して登城していくわけではないんだなぁ~
小谷城図はいくつか存在しているが、その図には「追手道」と書いてあったり、
大手道」と書いてあったりする。

磯野丹波守員昌って、佐和山城主だね。この時代の。
屋敷跡というのは、小谷城絵図に見られる屋敷跡の文字から推測されている
のだと思う。その文字はちょうど、この道の北側、上の写真で言う左の位置に値する。

この現説版、なんか石碑に近いんだけど、自然石に解説のパネルが施されている。
上には『湖北田園空間博物館案内図』とある。何それ?どこにあんの?
そこが、これを作ったって言うのかな…そのすぐ下には、
“いにしえの営みを守り・育てよう「北近江の郷」~先人の足跡、水と緑の恵み、文化と歴史~”
って書いてあった。おー!!いいこと書いてある。思わず納得。

というわけで、ここからも登らずにさらに南下していく。
すると知善院の現説版があった。

>知善院跡は、清水谷の入り口に位置し、両側は谷の斜面に南側は堀跡に接している。
>発掘調査で、庭園跡と考えられる方形の池が発見された。池跡からは陶器、磁器、かわらけ
>や数多くのこけら経などと共に笹塔婆が出土した。笹塔婆には、「元亀三年七月十四日」の
>年号が墨で書かれていた。
>この笹塔婆やこけら経から元亀三年(一五七ニ)七月十四日に、笹塔婆を作り、法華経全巻を
>書写するなど手厚い供養が行われていたことがわかった。この頃、浅井長政は織田信長と戦い
>ながらもまだゆとりがみられる。
>しかし、織田信長は、七月十九日に大軍を率いて岐阜を発し、二十一日には小谷城に迫り城下町
>を打ち壊し、清水谷を攻め、水の手まで追い上げた。
>この時、清水谷の屋敷群は破壊され、本丸での本格的な籠城が始まったと考えられる。

IMG_0617.jpg

今、知善院跡は駐車場になっている。
元亀三年(1572)七月十九日は信長が北近江へ出陣した日。
この時に虎御前山雲雀山を占拠し、清水谷を監視下に置いたとされる。
七月二十一日~二十四日には、信長公記に「(山本山)麓を放火候」や「越前境、与語、
木本(中略)焼き払ふ」とあるので、かなりの広範囲で火攻めしたと思われる。

水の手まで追い上げたっていうのに、小谷城落城まで後1年かかっているから、
その間、信長は長政に対して何度か降伏を迫ったんだろうか。
七月二十九日には、朝倉義景が15,000の大軍が小谷城に入城していることから
容易には攻められなくなったのか…

さて、この知善院は今も存在している。
と言うよりは、ここにあった知善院と同じものと考えられる「知善院」がある。
それが現在、長浜駅から徒歩圏内(長浜市元浜町)にある知善院。
小谷城落城後からまもなく天正四年(1576)、長浜城の鬼門を守るために、秀吉が
長浜城築城の際に移築したという話らしい。

これらの理由から知善院は重要な役割を果たしていたのではないかと考えられているんだとか。
いつかは行ってみたいと思いつつ、先を急ぐ。

清水谷道を挟んで、この知善院跡の東(右)隣には新庄屋敷があったとされている。

そこから目当ての登城口まで行く間、係りのおじさんがパンフなどを配っていた。

そのパンフを受け取り、砂利道の上を歩いて行くと、変なカカシ?がいた。

IMG_0620.jpg

いや落武者か?
これ、明らかに意図的に置かれているよねぇ......
顔が不気味、というかショッカーみたい。

そのカカシから数メートル先にようやく登山口が現れる。

IMG_0621.jpg

やっと、やっと、やっとキターーーーっ!!

というところで今回はお終い♪


To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント
おぉ~小谷城v-237
私も昨年に登城しました。その頃を思い出しましたv-410
私は出丸から登城して、大嶽城跡まで行きました。帰りは清水谷コースから下りてきましたv-355
続きを楽しみにしてますねv-411
[2012/02/14 23:16] URL | 流星☆ #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし
いつもコメントありがとうございます(*・ェ・*)ノ~☆
私も清水谷コースから下りましたが、大嶽城跡へは行けていないので、
リベンジせねばなりません(ノω・、)
う、羨ましす…

[2012/02/14 23:23] URL | こ~き。 #- [ 編集 ]


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