#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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二条城-4
【二条城-4(Date:2011/12/24)】

二ノ丸御殿を出た後は、
順路通り進んでいく。

初めて二条城に来た時の記憶はここぐらいまでしかない。
城巡り最初の頃だったし、なんせ城に関心がない友人が一緒だったので、
さらりと見学して終わった気がする。
(それでも、その友人は行った先々の観光名所は大事に巡るという考えの持ち主ではあるが)

唐門二ノ丸御殿に間に少しスペースがある。
右側に回れば前述した記事の団体入り口があり、左に行くと、鐘楼がある。

京都所司代との連絡に使われた鐘楼
それが2つ並べられて置かれている。

2954.jpg

>この鐘は幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。
>鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の辰櫓跡に所司代の千本屋敷から
>火の見櫓を移築し、鐘楼も建て鐘が設置された。
>明治時代二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていた。
(現説版一部抜粋より、なお写真より起こしたため一部誤植の可能性あり)

京都所司代跡は日を改めて行くことになるが、
二条城北側の一帯に京都所司代の広大な屋敷(現在は石碑が残る)があった。
(今後、記事にする予定。と言っても石碑のみだけど)

その所司代と二条城に置かれた鐘が今では2つ、
二条城内に並べて置かれている。

古写真でも、このときの火の見櫓が写ったものが本に掲載されていた。
櫓と言っても、近世城郭に見られるような白漆喰で覆われているような櫓ではなく、
木を素組みした中世城郭に見られるような物見櫓である。

政情が一変した幕末の中では、天下普請などする余裕も力もなく、
所司代から移築することしか出来なかったのかなぁ~と想像を掻き立てられる。

さて、鐘の近くにある門を抜け、二ノ丸庭園の方へ向かう。

2956.jpg

振り返ると、二ノ丸御殿の外観を別角度から見ることが出来る。

2957.jpg
▲二ノ丸御殿遠侍・式台・大広間一部(二ノ丸庭園方面より)

二ノ丸御殿は東南から北西へ斜めに雁行型
配置されている、と前の記事で記述した。
これは家相学というものにのっとっているとも言われる。
具体的にはよく分からないが、北西は吉とされ、北東は凶とされる。
昔から呪術や占い的なものにすがる風習もしくは、それを信仰する考えが
多かったと思われるため、古建築などにも応用されているのだろう。
現在でも、Dr.コ○の風水とかあるしね......

お城も鬼門とされる北東に寺社仏閣を建てたり、鬼門を無くすということで、
北東隅の石垣を欠いたりすることがある。
(鹿児島城など)

南東に入り口を持ってくることが吉とされ、さらには北西方向へ延びていくことが
吉とされるから、この形になったのでは?

もっと望むと、天守はこの御殿の延びた先の北西隅に
あるのが吉とされる。

ここまで読んだ方でピーンと来る方がいると思うが、この家相学で
最も吉とされている造りの城が名古屋城である。
手元に名古屋城の縄張図がある方は見ていただきたい。
本丸の入り口は東南、さらに本丸御殿の入り口も東南、北西に御殿が連なり
その先に大天守がある。
占い的には、マジ最強のお城なわけだ。
が、戦災で天守はなくなった。

まぁ、おまじないというものはそんなものだ。
これを書いている本人も今年はたくさん参拝したが、HDDをぶっ壊すという
残念なことが起きたしね…

さて、話が逸れたので元に戻すとしよう。

二ノ丸御殿は中の様子が外からは覗くことが出来ない。
外側には縁側がある。

とある本にその縁側の下に潜り込むと“鴬張り”の仕掛けが確認することが出来ると
書いてあったので、勿論潜り込んだ。

2964.jpg
▲庭に張り出した二ノ丸御殿の外縁

これに潜り込むんですよ。
この日はダウンを着ていたので、引っかいたらアウトだなぁ~なんて思いながら、
そして他の観光客の目を気にすることなく潜り込んだ。

さて、潜り込むと「これかな?」と思うような仕組みが見えた。

2963.jpg

二ノ丸御殿の廊下を歩いている時に気づいた人は多いと思う。
「キュッキュッ」と音がすることから“鴬張り”と名づけられている。
元々は廊下に釘を出さない工夫から生まれた音。

そういえば、前に矛と盾のテレビ番組で鴬張りの職人VS絶対に音を立てないで歩く人
というのをやっていたが、そのときは鴬張り職人の圧勝だった。
また、話が逸れたが、鴬張りの廊下に侵入しようものなら、すぐに見つかって
成敗されるだろうな。

で、実際に二ノ丸御殿内で歩く鴬張りの廊下と上に載せた写真(外縁)の廊下は
ちょっと仕組みが違うのかな?と思った。

というのも、二条城のパンフには上に掲載した写真と違う構造の
鴬張りの廊下が図示(勾玉みたいな画)されている。
もしくは、上の写真の構造が違うか......そうは思いたくない。
苦労して潜ったんだから。
さぁ、気を取り直して、次々。

外縁そばには二ノ丸庭園がある。

2969.jpg

この庭園は後水尾天皇の行幸の際、
小堀遠州が大改造したと伝わっている。

庭について、全く知識がないので、何も思うことがない。
小堀遠州くらいしか分からない。

>古来からの造庭術に従い、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した書院造庭園
(二条城パンフより)
とあるが、ピンと来ない。

ちなみに、池の南側に後水尾天皇の行幸御殿が建てられたとされている。

さて、この庭は三方向から見られるように配されているとパンフに載っている。

三方向とは、二ノ丸御殿大広間・黒書院、そして行幸御殿

この三点から見れるように配されていると、パンフ以外の本にも掲載されていた。

ここまでの話を踏まえて、二条城の天守の位置の話をしよう。
現在の場所はどこか?

二条城の縄張図をご用意出来ますか?
(残念ながら、二条城の縄張図の写真はなくなってしまったので掲載不可)

現在は本丸の南西隅にある。
これは二ノ丸含めて全体を見渡しても南西にある。

つまりは、先ほど述べた家相学とは反する。
なぜなら、天守の位置が北西ではないからだ。

じゃあ、なぜこの位置にあるのか?
全ての城の天守が北西隅が吉という家相学には当てはまらないにしろ、この城では実際当てはまらない。

ここで思い起こして欲しいのが、前回記述した二条城の二回の築城期の事。

家康築城期
このときは、現在の二ノ丸東側の部分だけの一郭時代だった。
この時は、北西隅に天守があったとされる。
つまりは、家相学に合致する。

それが、家光築城期には北西にあった天守が南西へと変更される。
なぜか?実はこの位置が選ばれたかについて記された資料は残っていないらしい。

憶測として、後水尾天皇の行幸の際、
二ノ丸御殿の大広間からの眺望を考えた際、二ノ丸の庭園背景に天守を取り入れようとする
意図があったのではないだろうか?といった意見が日本城郭体系に掲載されていて、
これを初めて読んだ時は、「おぉ~なるほど!!」と思った。
※上の話の展開は少し自分で手を加えていますが、大まかな筋は踏襲している。

大広間の上段の間に座り、西側の庭園を見てみると、現在は幻の状態ではあるが
正面にあたる木立の上に天守がそびえることになるらしい。

二ノ丸御殿からは天守の方は見ていない。
というか、障子があって見れなかった(はず)。

なので確認していないが、上の憶測が本当だとすると、
天皇の行幸への幕府の意気込みはえらいもんだったんだろうと予想できる。

失敗できない一世一代の大仕事。
武家が天皇への権力をアピールするイベント、その行幸のための縄張。

城とは元来、防衛施設のための建物のはずであるが、
この時代になると景観も重視されて築城されたということになる。

2976.jpg

二ノ丸庭園を抜け、二ノ丸御殿の脇から奥へと進んでいく。
だいたい二条城の城域中心部にたどり着く。
目の前には本丸櫓門がそびえている。

3006.jpg

すぐに渡りたい気持ちを抑え、周りを見渡す。
二ノ丸内にすっぽり本丸がある輪郭式縄張なので、水堀がある。
もちろん、本丸は石垣で固められている。

本丸について先に述べてしまったが、まだ二ノ丸側にも
ポイントがいくつかある。

橋を渡る前に左右に首を振ると、門が目に入る。

2981.jpg
▲鳴子門

北側には鳴子門、南側には桃山門と呼ばれる仕切門(長屋門)がある。
今回は時間の短縮で、近くに寄って観察は出来ていない。
カメラのズームで見学した(笑)

橋を渡る直前には掻き揚げた土塁らしきものがある。

2988.jpg

事前に読んだ本では、特に出てきてはいないものだった。
この掻き揚げた土塁らしきものは、橋の付け根から先ほどの桃山門・鳴子門の方へ
延びている。特に防備のためのものではなさそう。
本丸櫓門が往時は二重廊下橋になっていた時の名残だろうか?
と思ったところで今回の記事は終了。

今回も長くなってしまった。
さて次回お楽しみに~♪

To Be Continued...



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後日、二条城についてWEBで調べていたら、面白い記事を見つけた。

天守の「四方正面」が完成するとき』という記事である。
(↑クリックすると、サイトに飛びます)

この中(最後の部分)で、少し二条城の天守について触れられている。

何が面白いかというと、

>ご覧のような天守が完成したとき、
>すでに徳川特有の層塔型天守は各地にいくつか前例があったにも関わらず、
>西面に比べて、本丸や二之丸に向いた東面(表紙イラストのこちら側)は
>「破風の数が多かった」というのです。
とある。(詳しくは上のリンクをご覧ください。)

つまり、二条城天守の破風は東面と西面で数が異なるということ。
西面の数が少ないのに対し、東面は数多く破風が存在した。

西面が少ないという記述については、西国の外様大名に対する警戒心のため、
破風を少なくして、窓を増やしたと解釈している。
なるほどなるほど。窓っていうのは、狭間のことを指してたりするのだろうか…

一方、東面はというと、二ノ丸御殿大広間から見える面。
この東面の破風の数が多いという話と、破風が単なる飾りであり、
見栄えをよくするものであるならば、
>後水尾天皇の行幸の際、
>二ノ丸御殿の大広間からの眺望を考えた際、二ノ丸の庭園背景に天守を
>取り入れようとする意図があった(二条城-4の記事で触れた内容より)
という考えが十分納得できてくる。

天守の破風からも、そういった意図が読み取れると思った。
記事を読んで、なぜか、天守を防衛施設と見るよりは見た目について感心してしまった。

実際、天守が残っていないので、本当かどうか分からないし、
他の意見があるかもしれない。

[追記終了(2012/1/31)]

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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