#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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二条城-5
【二条城-5(Date:2011/12/24)】

本丸櫓門までやっと来た。
今まで歩いてきたのが、おおよそ家康築城期(約半分)の規模の二条城になる。

ここから西側が家光増築部分の二条城になり、家康築城期にはない遺構。
(これから記事にしていく内容)

3006.jpg

本丸櫓門

一度、目にしたことがある人は感じたかもしれないが、
この櫓門、少し形がいびつで違和感を感じる。

なんかこうキュッと引き締まった感じの門に見える。

元々は、このような形ではなかった。という表現は相応しくなく、今見る櫓門は往時とは
違う様相だったことが、多くの本に紹介されている。

前回の記事最後に触れたが、この本丸櫓門は二重廊下橋だった。

この櫓門を少し横の角度から見ると、もっと違和感を感じるはず。
なんせ橋の途中に、この門が聳え立っているからである。
拝観順路をそのまま歩くと違和感を感じることなく渡ることになるが、
くぐった後に何かものすごく違和感を感じる。(自分はそうだった)
鳴子門桃山門方面から見ると、すごく分かりやすい。(が、写真がない)

橋の中央くらいに、この櫓門がある。

橋を横から見ると『T』を180度回転させた『⊥』にイメージが近い。
下の横棒が橋で、中央に立つ縦棒が櫓門。まさにこのような形で建っている。

前述したが、“二重”なのがポイント。
普通の廊下橋であれば、大分府内城にある廊下橋を想像していただきたいが、
それとも様子が異なる。

にも二重、天守にも二重と言葉が使われるように、
外観を見て二層の造りになっているので二重。
つまり、この櫓門の上ないし櫓門上部あたりに二層目の廊下があり二階建の渡り廊下が存在し、
この櫓門はその渡り廊下を支える中継用の建物になる。(字で表すなら、『工』のようなイメージ)

櫓門の上の瓦には葵の紋を削り取ったような跡があった。菊紋にすら置き換えられていない......

本丸櫓門を抜けると、二条城内で初めて威圧感を感じる石垣と出会う。
うぉ!?っと、体を反らすぐらいの勢い。
両端から石垣が迫ってきているように感じる。(これが先に述べた違和感の正体)

IMG_3010.jpg

ただ単に通路を狭めただけなのかもしれないが、
往時はこの上に二重目が載っていたのでは?と想像を掻き立てられる。

振り返って櫓門の本丸側を見てみると、上に上がる階段があるが、
これはさすがに往時のものではないだろぉ~と思った。(ここから2階に?まさかね......)

IMG_3014.jpg

石垣と櫓門の間にはがある。これは狭間かな?と思った。

IMG_3015.jpg

二条城で初めて狭間が出てきた。表側は白漆喰で塗り籠められていて、
こういった無粋なものは外側からは見えないようになっているだろうが、
内側は蓋?付きのようだった。
(あれ?こういう仕組みを他城でも見たような…名古屋城は裏側に蓋はなかったので別の城かぁ~?)

上段に上がる石段が見えてくる。
つまりは、二ノ丸より本丸は少し高地にある。(と言っても、平山城ほどではない。)

IMG_3021.jpg

石段は狭められているわけでもなく、雁木と合体したような形で登る。

一応、折れ(内枡形)もあるので攻めにくいようには設計されているようだが、
どことなく均整が取れていて、防御に特化しているようには感じられない。

IMG_3024.jpg
▲一段高い本丸側から見た本丸櫓門方向(折れが分かりますか?)

本丸に建つと塀にふさがれていて、そのまま四方へ分散することが出来ないように
なっている。これは当時の遺構?と思いつつ、

IMG_3026.jpg

順路通り進んでいくと、すぐ現れるのが桂宮御殿である。
本丸の殿舎は、天明八年(1788)の大火の類焼により焼失。
その後再建されることなく、現在は桂宮御殿が本丸内に移築されている。

3044.jpg

>明治26年から明治27年にかけ桂宮家の屋敷の一部を移築。
>宮家の遺構を見ることが出来る。桂宮家は別荘桂離宮の本宅にあたる所です。
(元離宮二条城HP二条城探訪マップより)

うん、まぁ違和感はないやね。

本丸南側には本丸庭園がある。明治時代に作庭されたもので、
築城期のものではない。それよりも奥に見えるものが気になった。

3046.jpg

見える?

見えない方のために、拡大して......

3047.jpg

そう、雁木。この時はこのぐらいの感想しかない。
雁木があるんだなぁ~くらいにしか思ってなかった。

さて、本丸庭園をどんどん奥へ進んでいくと、人が集まる場所がある。
それは何かと言うと、天守台

3069.jpg

人間は高い所が好きだからね。(高所恐怖症でもない限り)

天守台も石段は狭くなく、本丸の雁木と連結された石段である。
天守は前回の記事で書いたように、家相学は無視された本丸西南隅にある。

3055.jpg
▲天守台から北に続く雁木

天守台上では、多角度を俯瞰した。
先ほど通ってきた桂宮御殿やまだ行っていない南中仕切門・本丸西の枡形・土蔵(米蔵)などなど…

そして、天守礎石があるかな?と思ってみてみたが、
それらしいものは見つからなかった。

3056.jpg
▲天守台頂部

さて、天守台を後にし、北へ向かった。

3073.jpg

桂宮御殿を左に回り込む形になる。
北へ抜け、外枡形である虎口から二ノ丸西側に出る前に
本丸の北西を観察していると、ここも雁木だらけである。

3083.jpg

二条城って雁木だらけだな。
ここで、ようやく色々と考え始めた。(考えは数日続く…)
雁木の説明には、よく書籍などで萩城などが取り上げられる(と思うんだけど、思い込み?)。
天守台に続く雁木がよく写真で掲載されている。

名古屋城にも雁木はあるが、二条城ほどはない。
徳川大坂城は雁木が特徴的と言っても過言ではないほど、雁木が多い。

今出てきたお城に共通することと言えば、どれも近世城郭慶長期以降に建てられたお城たち。

■二条城/慶長六年(1601)…家康築城期
■萩城/慶長九年(1604)
■名古屋城/慶長十五年(1610)
■徳川大坂城/元和六年(1620)
■二条城/寛永元年(1624)…家光築城期

さて、前回までの二条城の記事(1~4)までは二ノ丸東側を取り上げてきた。
この記事の冒頭でも述べたが、二ノ丸東側は家康築城期の頃の遺構。
2の記事の時にちらっと、雁木という言葉出てきているが、その時は言い切っていないし、
雁木ではなかった。

今回の記事でようやく出てくる言葉、それが『雁木』。

つまりは、家光が大改修を行った城域でやっと出てくる遺構になる。
名古屋城に少し遺構があり、徳川大坂城ではふんだんに駆使され、二条城の家光増築部分に
多用されていることから、慶長期以降に発達した城郭防御アイテムと推測(あくまでも自分の考え)できる。

この考えに至ったときは、数学の問題が解けた時の感覚を味わった。
今でも、あの時の感覚があるとは驚きだったが......

さて、話を戻すと、本丸西側の外枡形から水堀を越えていく。

3086.jpg
▲本丸西側の外枡形虎口

再び二ノ丸の地に足をつくと、ほとんどの人が右(北)へ向かう中、自分は左(南)へ向かった。

二ノ丸の西側も見所は多数ある。

それは、次回の記事に回して、本丸天守台について前倒しで触れておく。

左側に進んでいくと、米蔵(次回の記事記述予定)を通り過ぎ、
本丸天守台を外側から見ることが出来る。

3099.jpg

この天守台、先ほど登ってきた天守台なんだけど見ての通り天守はない。
建てられなかったわけではなく、本丸御殿同様ここも焼失してしまっている。
理由は、寛延三年(1750)の落雷によるもの。

二条城天守は、色んな本でその構造などについて議論されている。
伏見城の移築だとか、新築(家康の新築or家光の新築)だとか、淀城へ移築したとか…
とにかく二条城の天守について調べていると、二条城・伏見城・淀城の三城の天守の移築論で
いっぱいだ。もう、読んでいて頭がぐちゃぐちゃになるので、いつも途中で諦めるwww

なので、ここでは天守の築造秘話については書くことはない。
が、後水尾天皇行幸時の面白いエピソードは書いておきたい。

この時は、まだ五層の天守が天守台上に建っていた。
想像力豊かな人は、この上に建つ天守が見えるだろう。

後水尾天皇は、この天守に2回登っている。

9/8と9/10である。

なぜ、2日も登ったのか?
別に天守好きではなかっただろう。(いや、もしかしたら好きだったのかもしれないw)

当時の記録としては、最初に登った9/8の時は、天気が悪く遠目がきかなかったため、
還御される10日の日に望まれて天守に再登城したという。

もうこの時代の天守は、最後の砦的な役割はなく、
現代の人たちと同じく高楼から見下ろすという展望台の役目に
代わってしまったというエピソードである。

今まで、戦国武将が命削って奪い合い攻め合い守り抜いた城。
実際、戦闘が起きた城は少ないかもしれないが、それでも戦時の際は
あらゆる攻撃に耐え抜くために防御を高めて造られ、そして発達していった城。
その頂点とも言われる近世城郭・二条城。
その天守が防衛目的ではなく、展望台としての役目で生涯を
閉じてしまったのは、なんかやるせない気持ちがするのは自分だけだろうか......

To Be Continued...



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二条城について、Wikiで見ていたら、
家康築城時の単郭では、防備が弱いのでは?ということについて、
少し触れられていた。

>家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」
>「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」
>と答えたと伝えられる。
(Wikipediaより抜粋)

Wikiがどれだけ信憑性があるものか分からないが、読んだ時は「なるほど」
と思った。

この単郭を家光が西側へと拡張・増築するわけだけど、
西側は東側に比べて、防御の類が多い。

西門内枡形になっていたり、上記記事でも書いたように雁木が多い。

これは、単郭を補う目的もあるのだろうが、西国への警戒心から西側の
防御を固めたと思ってもいいのかも。
一方、東側が二ノ丸御殿などの殿舎で防備は薄いまま。
やっぱり、天皇の行幸のためか城らしい防御施設は建てなかったのだろうか。

西側と東側で様相が異なるのも二条城の特徴と言える。

それでも天守を西側に持ってくる理由が分からないけど…
普通は奥まった場所に持ってくるはずだから。

[追記終了(2012/2/2)]

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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