#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-2/出丸
#06 小谷城-2/出丸 【小谷編】

IMG_0625.jpg

小谷城東尾根先端にある『城跡・登り口』にたどり着いた。

“至出丸”と書いてあるから出丸を経由するルートだぁ~と歓喜した。
約10分とある。そんな短時間で着くのか?

この登山口がある場所は、小谷城絵図を見ると「三田村屋敷」「三田村下ヤシキ跡」とある。
とにかく、三田村氏の屋敷があったと思われる。
浅井氏家臣で、本拠地は姉川北岸の伝正寺にあったとされ、姉川の戦いでは、
その屋敷に朝倉景健が陣地にしたことでも有名。

一応、登山者用に杖が置かれていたが、持ってきていたステッキで、
登ることにした。
(博覧会終わってからも杖は用意されているのだろうか…)

IMG_0629.jpg

最初の登城道はこんな感じ(上の写真)。
(このブログが、小谷城訪城したことがない人のための指針にもなるように、
遺構でもなんでもない写真をこうしてたまに掲載していきますのでご了承ください)

少し登ると車道と合流した。
紅葉がいい感じになっている。

IMG_0635.jpg

ここからどうやって行けば???
何も案内がないじゃん!!と思って少し戸惑ったが、他の観光客などが
登り下りしている階段に「歩行者ルート」とあったので、上の写真右に
見える階段を登って奥へと進む。

番所跡・本丸跡はこちら的な案内板があるのだが、
出丸はこちらという案内がなかったので、出丸跡に行けるか心配だった。
(出丸跡を見るためにこっちから登ってきたのに。)

IMG_0643.jpg

心配するのも束の間、出丸跡と思われる遺構と遭遇。
しかし、最初は出丸だと気付かなかった。

自然とは違う地形になっているような気がして、ようやく気づいた。


出丸跡

小谷城主要部尾根(小谷山東尾根)南端に位置する。
上下二段の曲輪で構成され、土塁切岸が残る。

demaru.jpg
▲出丸図(清水谷にあった小谷城鳥瞰図より抜粋)

出丸下段曲輪

上下二段ある出丸跡の下の曲輪。
下から登ってくると最初に出会う小谷城の遺構。

登山道から分岐し、曲輪内へ行けるようになっている。
最初、この分岐した道を登って、下段の曲輪内に入ったので、あぁここが出丸跡なんだと気づいた。
これが自然の地形と違うと思った違和感。

IMG_0652.jpg
▲出丸下段曲輪へと入る虎口(分岐した道が続いている)

土塁で三方(コの字型)を囲まれている。
広さはさほどない。人が40人入るか入らないかくらいだと思う。
曲輪内で動き回るなら、多くて20~30人詰められるくらいかな。

IMG_0662.jpg
▲出丸下段曲輪(上段曲輪から撮影)

この状態じゃあ、何の写真か分かりにくいと思うので加工してみた。
(上の写真と下の写真を比較して、お読みください。)

IMG_0662 のコピー

赤い部分が土塁で白い部分が曲輪内を表している。
コの字型に土塁が取り巻いているのが分かるだろうか。コというよりはノの字に近い。
(山城のブログ書くにあたって、写真がほとんどがこういうのばっかり。
はたから見れば、「何コレ?」と思うかもしれない。美しい景色を載せているわけじゃないし…
この記事を読むのはほとんどが城に興味を持つ人だと思われるが、一応分かりやすいように
してみました)

出丸下の曲輪の先端部分を見ていなかったので、少し下りて見にいった。
切岸っていうのかな。

IMG_0650.jpg
▲出丸下段曲輪先端の切岸

出丸上段曲輪

IMG_0653.jpg
▲下段の曲輪から見た上段の切岸

下段曲輪から少し上がると広い削平地に出る。ここが上下二段ある出丸の上の曲輪。
ここは下の曲輪より広い。人が…100人、いやもっとかな?それぐらいは詰めれると思う。

IMG_0668.jpg
▲出丸上段曲輪(曲輪中央から南先端を撮影)

下段同様、土塁が三方にあるのが確認出来た。

曲輪南土塁際に出丸と書かれた石碑と現説がある。
このの現説に書かれている図は、『長浜み~なvol.105』に掲載されているものと同じ。
『滋賀県中世城郭分調査7』に掲載された縄張図をもとに、中井均氏がアドバイス、
太田浩司氏の原案で牛谷訓子氏が描いたもの。
(詳しくは、長浜み~な編集室のバックナンバーからご確認ください。)
実際、この現説の右下には“資料提供:長浜み~な編集室”とある。
(以降、現説に曲輪の画が書かれているものは全て、これと同じ)

解説には、
月所丸(小谷城後方にある曲輪)の土塁と共通性があり、朝倉の来援によって
築造された可能性が高いと考えられていると書かれている。

やっぱ現地に来ないと気付かないなと思うのは、ここから下るんだぁ~と思ったこと。
先端部分で出丸だけ少し標高が高い。

IMG_0670.jpg
▲出丸上段曲輪から北側への下り坂(下りてから出丸方向を撮影)

下りた先に出丸跡の現説板があった。
>出丸跡
>主郭尾根の最先端にある曲輪である。独立した砦となっており、
>上下二段の曲輪と土塁からなる。小谷城を守る最前線の砦で、城下を
>見下ろすように設けられている。

なぜ、ここにこの現説板?とふと思ったが、清水谷を歩いていて見つけた「追手道」を登ってきた人たちが
出丸を北側から登るのだろうと思った(この後、すぐに追手道と合流するから)。
出丸の上にある現説や途中あった案内板は新しかったし、今登ってきた道も博覧会期間用に準備
されたものだと思える。

出丸跡の現説板脇には舗装道がある。

IMG_0672.jpg

歩いてきて、ここがとは感じなかったが、縄張図を見ると、ここから
次の金吾丸へはかなり距離があるので、独立していることが分かる。
そして、前述したように、この出丸は標高が高くなっており、登って下りて
という感じで通過した。ここから金吾丸へはまた登り坂を登っていく。

イメージとしては、動物のサイの顔を思い浮かべた。
サイの角がちょうど、出丸に当たる。出丸だけ突き出ている。
その角から顔をよじ登っていくのが、これから登る登城道に近い感覚だった。

だから、砦と表現するのも納得できた。

もし、月所丸と同時期に築かれたものだとしたら、前回の記事にも書いた
朝倉義景が元亀三年七月二十九日に小谷城に入城してから後のことだと思われる。
朝倉義景は着陣した場所が小谷城の大嶽城で、そこを朝倉氏は改修している。
さらにこの時、月所丸の他、山崎丸福寿丸も築いたとされている。

この義景が着陣する数日前・七月二十一日には信長が小谷城に迫り、
二十七日には虎御前山に陣を敷き、虎御前山に砦を築いていく。

つまり、虎御前山に砦が築城されていくのが見えた小谷側が急遽、
最前線でもある出丸の地に砦を築いたのではないだろうか。
そこから虎御前山を俯瞰し、逐一本丸の方へ築城の経過及び周囲の動きを
伝えていたのではないかと思った。

そういうことなら、小谷城主要郭からかなり離れた位置にポツンと
ある出丸の存在が理解できる。

ここから金吾丸跡へと向かっていく......


To Be Continued...



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