#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-12/桜馬場
#16 小谷城-12/桜馬場 【小谷編】

首据石がある場所には、桜馬場へ行く道と赤尾屋敷へ行く分岐点がある。
このときは、真っ直ぐ続く桜馬場へ行く道を選択した。


桜馬場

IMG_0893.jpg

桜馬場へ上がると、観光客で溢れかえっていた。
今までの写真は人を写さずに済んだが、ここからは人を入れずに
撮ることが厳しくなる。それほど人でごった返していた。
(と言っても、渋谷の人混みほどではない)

自分が嫌いなシチュエーションだけど、まぁ仕方がないか。
これほど大河の影響力は大きいものなのか…

山城の中で人っ子一人いないのも、それはそれで恐いが、多すぎるのも
ちょっと萎える。写真は基本的に人を入れて撮りたくない性分なので、人が
立ち去るまで待つことになって、ロスタイムが発生するのが嫌だった。

桜馬場だけあって、桜の名所で有名らしいが、
この時期、紅葉の名所となっていた。

IMG_0921.jpg
▲桜馬場東曲輪から黒金門跡を望む

超綺麗。

紅葉シーズン狙っての小谷城攻城だったから、人が多いのは当たり前か。
この曲輪の木々はどれも赤づいていて、ものすんごぉーく綺麗だった。

>桜馬場
>御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。
>西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。
(立札より)

>桜馬場
>大広間黒金門の南に存在した曲輪。南北に長い曲輪で、東西2段で構成される。
>西側の細長い曲輪は特徴的で、その南西端は信長の本陣があった虎御前山を見張る
>最適の地であった。また、馬洗池周辺は石垣が突出しており横矢懸けの構造を持っていた。
>(以下略)
(現説板より)

大河ドラマのロケもここで行われたんだとか。
どこの場所で行われたかは知らないけど…

現説には曲輪の特徴しかかかれていないが、この東曲輪の北には、

IMG_0896.jpg

浅井氏及家臣供養塔(上写真)”がある。
昭和47年に「浅井氏400年」に際して建立されたんだとか。

よく見ると塔の前には一升瓶が奉納されていた。奉納主は渡辺さん。
脇に志納箱があるのに、お酒?と思った。実用性あるほうが供養になるのかな…
お酒はこの辺で作られる地酒だったら、喜ぶかもね(笑)

東西二段の曲輪から成るというのは、東曲輪から西へ踏査すれば分かった。
西へ進むと、東側から見て一段下がった場所に西曲輪が存在する。
(一段高い東側の曲輪を東曲輪、一段低い西側の曲輪を西曲輪と勝手に
名付けています。正しい呼び名ではございません。)

東曲輪から西曲輪を覗き込むと、

IMG_0903.jpg
▲桜馬場西側の一段低い曲輪(写真中央には礎石が点在する)

確かに今まで登ってきた曲輪の中でも、一番南北に細長い曲輪だということが分かった。
そして、建物の礎石も確認できた。建物が建っていたという証拠だと思われる。
西側の段には2棟の長い建物があったと確認されるているらしいが、そんなに多くの
礎石は見当たらなかった…

東曲輪から西曲輪に下りてみる。

IMG_0904.jpg

このような石段を下りてきたが、これは当時虎口だったのだろうか。
石の配置がある程度整えられており、虎口跡と思えるような遺構だった。
(が、整備の結果?とも思える)

御馬屋跡にある馬洗池を記事にしたときに述べたが、桜馬場の南は
横矢掛けでL型に岸の窪みがあり、それがこの桜馬場西曲輪の先端になる。

西曲輪の南端へ向かう。

IMG_0906.jpg
▲桜馬場西曲輪最南端

ここから観光客数人が麓を見下ろしていた。

現説版にある曲輪のイラストには、この場所は井楼が描かれている。
確かにここからは視界が広がり、琵琶湖方面がよく見渡せた。

IMG_0909.jpg

竹生島に山本山、岡山や山脇山が見える。ここから降伏していく
味方の姿を見ていたんだろうか。特に山本山城阿閉氏が降伏したときは
城内衝撃が走っただろうなぁ…

天正元年八月八日に山本山城の城主・阿閉淡路守貞征が信長に寝返り、
投降した。これが小谷城攻防戦の大きな敗因であるかのように、この日の夜中、
織田信長は岐阜を発ち近江へ出陣している。この日から1ヶ月も経たないうちに
浅井氏・朝倉氏の両名が滅亡することになる。姉川合戦からは3年かかって
いることから、どれだけこの山本山城が重要な拠点だったかが分かってくる。
一方、長政はというと寝返った阿閉氏の質子を殺害させている。

さて、ここから折り返すことになるが、この桜馬場には
西側に南北に細長い帯状の曲輪・帯曲輪がある。

IMG_0912.jpg
▲桜馬場から腰曲輪を見下ろす

この帯曲輪は桜馬場から北へと続いている。また、確認は出来ていないが、
この付近には西に向かって数本の竪堀が存在する。
逆に東側は竪堀が存在していない。いや、少しはあるけど西ほど多くはない。
このことから、清水谷側の防衛が高まっていたことが分かる。
帯曲輪へは下りていけなくはなかったが、度胸がなかったので辞めといた。

東曲輪へ上がろうとすると、東と西で高低差が分かる。

IMG_0914.jpg

この高低差は、何のためにこうなっているのかが不思議だった。
そういった説明は今まで目にしたことがない。

武者溜り、とは違うかなぁ。
ここに城兵が隠れていて侵入してきた敵兵に対してここから出撃する…
なんていうための高低差?と思った。

斜面に近づくと、石垣に使用されていたものと
思われる石がゴロゴロ~って転がっていた。

IMG_0916.jpg

曲輪のイラストでは桜馬場から石垣で囲われている。
桜馬場の東西を分けるこの斜面も石垣で覆われていたのだろうか。
小谷城を攻城し初めて、この曲輪から石が多く見られた。

転がっている石が、その裏づけなのだろうか…
想像だけではなく、肌で感じることが出来た。

次回は大広間へと続く。



To Be Continued...



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