#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-13/大広間①
#17 小谷城-13/大広間① 【小谷編】

桜馬場の北は大広間に当たる。
その大広間へ上がるには南にある虎口・黒金門を通ることになる。

これまでは登城道から曲輪に入るにあたって、はっきりとした虎口跡
の遺構は全くなかった。現説にある曲輪のイラストで偲ぶことしか
出来ない状態。が、大広間へと入る黒金門跡は遺構がはっきりと残る。


黒金門

IMG_0877.jpg

>黒金門跡
>大広間に設けられた重要な門である。「黒金門」と呼ばれているところから、
>鉄を打ち付けた扉であった考えられる。

門の両脇は石垣でメッチャ固められていることは現地で見て
すぐに分かる。脇には石垣の巨石が多数点在していた。

今は石段で構築されているのが分かるが、これは番所跡の記事で書いたように
昭和四十年代に進められた整備事業によって積み直されている。
それ以前は、痕跡がある程度というものだったので、このまま残っていた
というわけではない。整備の賜物。

整備内容が分からないので、発掘したのかパーツを寄せ集めたのか、
謎ではあるが、人の手が加わっているのは確か。

とはいえ、これほどの虎口は小谷城で初めて出会った。
小谷城主郭部で最も大きな門跡だと言われているのも首肯できる。

日本100名城公式ガイドブックには、この黒金門の両脇には
多聞櫓が構えられていたとあったと記載されていたが、現説の
曲輪イラストを見る限り、塀で囲まれていたようにしか描かれていない。

桜馬場からは黒金門西に続く土塁の上に登れる。

IMG_0891.jpg
▲大広間南黒金門西に続く土塁斜面

その土塁斜面には多数の石が転がっていた。
このことから、大広間の曲輪は石垣で囲われていたのではないか?
と推測できる。なので土塁という表現は相応しくないかな…

石が散在しているのは、小谷城落城後、定番に入った秀吉
今浜(現在の長浜)に長浜城と築城するために石を持ち去ったと
されていて、その際破城が行われたと考えられているらしい。

土塁上端へ上がると、石碑が2つある。

IMG_0889.jpg
▲小谷城址碑①

IMG_0887.jpg
▲小谷城址碑②

①の碑は、どこにでもよくあるタイプ。
一方、②の碑は題字が徳川家十六代当主徳川家達によって書かれている。
長浜みーなによれば、この基壇には長浜から引かれた石が使われているらしい。
なんでも脇にある黒金門跡にあった巨石を使おうとしていたところ、「城石は
動かしちゃいかん」という声が上がり、長浜から引かれてきたんだとか。
しかし、どう見ても基壇は石垣に使用されていたと思われる石にしか見えないんだが…
もしかして、この碑の方をさしているのかな。としたら、基壇って言葉はおかしくないか?

この場所から桜馬場を覗いてみた。

IMG_0890.jpg

あまり高さはない。土塁石垣で覆われていた。もしくは土留め程度の
石積みで囲われていた。と考えると、あまり高さが築けなかったから、
このぐらいの高さに納まったのかも。

一方、黒金門の東側はというと、

IMG_0926.jpg

このように巨石が積まれている。
大広間は石垣で囲まれていたことは、間違いないかな。
これほどまでに厳重に囲まれているということは、、徐々に
主要部、それも本丸へと近づいていることが見て取れる。

黒金門を通り過ぎ、

IMG_0938.jpg

振り返って桜馬場方面を見た。グループがまたいるや…
と、そんなことどうでもよくて。

桜馬場から見てて、ずっと疑問だったけど、この虎口
平虎口じゃないよねぇ?

滋賀県教育委員会や日本名城百選の縄張図、長浜みーなの曲輪のイラスト。
どれも全て黒金門は平虎口(まっすぐ城内に入る)で描かれている。

どうもそう思えないんだよね。少しカーブがついている。
これが整備によって改変されちゃったのなら、元々は真っ直ぐだった
かもしれないけど、現在は喰違虎口(食い違わせて真っ直ぐ入れない)に思えた。

黒金門を通り過ぎた場所から大広間曲輪中央側を見れば、

IMG_0937.jpg

カーブしている。黒金門前の石段は右曲がり、門を通り過ぎた後は
大広間に向けて左曲がりになっている。これが後世人口的に出来た
ものなら仕方ないけど、やっぱり平虎口には思えなかった。

織田信長に攻められた小谷城。
最後の城主・浅井長政はこの黒金門から突出して最後の反撃に出たという。
その雄姿を脳裏に焼き付けながら、次回大広間内へ侵入していく…


To Be Continued...



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