#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-22/京極丸
#26 小谷城-22/京極丸 【小谷編】

中丸の最上段にあった刀洗池脇の登城道から上へと登っていくと、
先には京極丸が待っている。中丸と京極丸と呼ばれる曲輪の間は
複数の削平地があり、この2つの曲輪は境がアバウトなのではない
のかなぁ~と思った。

滋賀県教育委員会の縄張図でも複雑になっているのが見て取れる。

IMG_1140.jpg
京極丸手前の削平地から下方を望む

上から望むと段差が付けられていることがより一層分かる。
ここは小さな曲輪がかなり密集しており、建物があったとは
思えず、攻めにくいように段差をつけていただけなのかな?と
この時は思った。

IMG_1141.jpg
京極丸手前の削平地虎口

中でも京極丸手前の削平地はそれなりに大きかった。
広さが分かるような写真が一枚もなかったので、虎口部分を
掲載するけど、ここも立派?な平虎口の様相を呈している。

IMG_1147.jpg
▲京極丸虎口左側切岸

そこから京極丸を見上げると、高さがそれなりにあるので、中丸と京極丸の間に
あった曲輪群と比べて少し異質な感じがした。やっぱり、ここからが京極丸と
呼ぶのが相応しいのだろうか。虎口脇の切岸上は虎口上端より高さが
あるので、当時はもう少し高い土塁だったんだろうか。


京極丸

IMG_1149.jpg
▲京極丸東曲輪虎口

とうとう来た。
小谷城落城を決定づけた曲輪へと…

>京極丸跡
>京極氏の屋敷があったと伝えられている。大広間に次ぐ広大な曲輪である。
>天正元年(一五七三)八月二十七日夜半羽柴秀吉によって攻め落とされ、
>久政の守る小丸と長政の籠もる本丸との間を分断された。
(立札より)

>浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北四段の構造を持ち、
>清水谷側(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。この虎口は清水谷から登る
>「水の手」からつながるが、小谷落城の際に秀吉が攻め上がった道である。須賀谷側
>(東側)に造られた高さ3メートルほどの土塁小谷城最大の規模を誇る。
(現説板より)

虎口(上写真)をよく観察すると、左(西)側に石が多く残っていて、
石垣で覆われていたことを物語る遺構だと思われるが、実はここも
環境整備事業で復元されている。

IMG_1151.jpg
▲京極丸東曲輪虎口拡大写真

これで復元というから面白いよね。でも、この復元のおかげで
虎口の遺構が!!って感じられるわけで、近世城郭の門や櫓、
天守の復元とは規模が違うけど、立派な復元整備だと思う。

規模は大広間の虎口・黒金門と同じぐらい。黒金門に比べて石が
あまり残っていないせいか、インパクトがない。

現説には京極丸の構成が南北四段とあるが、どれとどれを指すのか。
本によっては、京極丸が東西二段の曲輪構成と解説しているものも
中にはある。

東西二段というのなら、上の虎口を登った場所にある曲輪(東曲輪)と
その曲輪の西にある曲輪(西曲輪)のことを指す。もし、四段の構成なら
この東西二段の南に位置する二つの曲輪が含められていると思うが、
はっきりとコレとコレとは言えない。
(東曲輪と西曲輪はこれ以降呼びやすいように勝手に名づけました。)

曲輪構成の記述に差異が出てくるのは、小谷城絵図というデフォルメされた
絵図によって各曲輪の名前が付けられているからではないだろうか?

また、一番最初に述べたように中丸~京極丸の間は複数の削平地が
あり、境が釈然としないので、これも原因の一つだと思われる。

ところで京極丸という名前は現説にもあるように、浅井氏の主君・京極氏
屋敷があったこと・居所として用意したことからだと説明している。

浅井亮政が盟主となる前は、京極氏の継嗣問題が発端による国人一揆で
浅見氏がリーダーとなったが、この時、浅見氏は京極氏を居城・尾上城
迎えていたことから、自分の居城に主君を招き入れるという行為は、
他国や領内へのアピールだったんではないかなぁ~って思う。

新しいリーダーになると、京極氏を招き入れるという構図が見えてくる
と思った時、中丸~京極丸までの間に数ある削平地は主君・京極氏を
守るための防御だったとも思えるし、もしかしたら京極氏を見張るために
浅井氏家臣などが控えていたのかなぁ~と思った。

監視されていたと思ったのは、江北の京極氏に対して、江南の六角氏
居城・観音寺城で囲まれるように重臣たちの曲輪(屋敷地)があるので、重臣に
監視されていた形だったと考えられているからと本で読んだばっかりだったから。
(観音寺城に行った事がないので、各重臣の曲輪規模が分からないで述べている)

ところが、麓でもらった資料を見てみると、現説とは全く異なる解説があった。

なんでも、京極丸は京極氏の屋敷があったところと言われているが、実際は
京極氏は亮政時代には神照寺におり、久政・長政の頃は坂田郡河内城にいた
と書いてあった。(神照寺って首据石の記事でも出したけど浅井亮政今井秀信
謀殺した場所じゃん。河内城はどこだ?現時点で把握していない)

はぁはぁ、なるほど………
えっ?、じゃあ普段はいなかったのか?

さらに先程の東曲輪に上がる前の大きな削平地は“馬出し
ように”と解釈している。

そーいえば、京極氏をここで饗宴しているんだったっけ?
近江の山城ベスト50』には、大永5年(1524)に浅井亮政小谷城京極丸で
京極高清を饗応していると書いていたので、この出来事から、ここは京極丸と
名づけられたんだと思った。大永5年はじめに浅見氏の後、浅井亮政が盟主に
なっていることから、これを祝う宴でもここで催したんだろうか。

虎口から登ると、東西二段に大きな曲輪の内、東側の方に上がる。

IMG_1156.jpg
▲京極丸東曲輪(虎口より撮影)

確かに広い。
この規模なら饗宴を催せるかも…

この東曲輪の東端には、遺構として土塁が残っている。

IMG_1157.jpg

城内で最大規模だと言われていて、確かにデカい。
これまで出丸・御馬屋・大広間土塁が出てきたが、ここはそれらに
あった土塁より高さがあるように感じたので、最大規模というのが納得できた。

この土塁上に溜井戸跡があると調べていたが、確認し忘れた。
(次回、リベンジだな)

しつこいが曲輪構成が東西二段もしくはこの東西二段に南の曲輪を2つ加えた南北二段と
解説されている京極丸は、縄張図を見ても分かるように、これらで言われている曲輪以外
にも小規模の曲輪が確認できる。実際、この東曲輪のさらに東には曲輪が接続していた。

IMG_1158.jpg
▲京極丸東曲輪から腰曲輪を望む

東曲輪の東側の覗くと腰曲輪があった。意外と広い。
この曲輪も京極丸なら、曲輪構成は南北四段ではなく、南北東西五段
とも表現できる。縄張図を見ると、この先さらに東奥にも曲輪がある
ようで、この構成は小谷城本丸赤尾屋敷跡の曲輪構成に似ている。
(だから曲輪構成は五段以上か…?)

腰曲輪へは下りず、逆側・東曲輪の西へと向かってみた。

IMG_1160.jpg
▲京極丸東曲輪から西曲輪桝形虎口方面を望む

ここが、そのあれだ。
その時歴史が動いた”で取り上げられても
よさそうな出来事が起こった場所。

信長公記』の第六巻には、下記のように記されている。

>八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ取り上り、浅井下野・
>同備前父子の間を取り切り、先ず、下野が居城を乗つ取り候。
(現代語訳より抜粋)

京極つぶら”というのが、今いる曲輪・京極丸を指していて、
このことから、多くの書籍では下記のように解釈されている。

天正元年(元亀四年)八月二十七日夜半、
清水谷から小谷城主要部へと続く“水の手”谷から駆け上がった秀吉が、
この京極丸西曲輪南西に位置している桝形虎口を突破し、京極丸へと侵入。
浅井久政がいた小丸を攻めて、久政を自刃に追い込んだ。

約1年前に信長軍水の手まで追い上げていたことから、清水谷には信長軍
が出入りできるような状態で、京極つぶら=京極丸へ上がるには、清水谷から
京極丸へと続く道“水の手”から駆け上がったとし、その道先に枡形虎口
あったことから、この虎口を突破したと解釈されているんだろうなと思った。

この写真には写っていないが、西曲輪には枡形虎口が現存しているらしい。
が、見て分かるように下へ下りていくには至難の業のような感じがしたので
今回はパスした。次回来たらリベンジしたいと思うが、その虎口から秀吉
突破してきたかと思うと、ゾクゾクしてきた。

ここからワラワラと敵兵が入ってきて、城兵と切り結んだかと思うと
楽しくなってきた。いや失敬、当時は楽しくもなんともないか。
必死だっただろうな。浅井軍の防戦一方だったかと思うと感慨深い。

この写真は浅井軍の視点になるが、秀吉軍が突破してきた時、
城内に詰めている兵は、どのような気持ちだっただろうか…

これまで小谷城を力攻めで落とそうとしなかった信長軍が、ここにきて何故京極丸
から突破するという力攻めを行ったのか?出来るんなら3年も浅井氏に手こずること
もなかったんじゃ?と思うだろうけど、やはりそれは浅井氏の本城・小谷城の強固さ。
それに支城とのネットワーク。バックグラウンドとして同盟?を組んでいた朝倉氏
存在が大きかった。

しかし、すでにこの時は西の脅威・支城の1つである山本山城が落ち、北へと展開した
信長軍によって、越前朝倉氏が詰めている木之本との連絡を絶たれており、そして、
小谷城一番の最高所にある大嶽が今や敵の手に渡り、京極丸より北に詰めている兵
たちは後ろからの援軍はなく、むしろ挟み撃ちにされるという脅威にさらされている。
しかも、すでに朝倉氏は越前大野において滅亡していて、援軍は見込めない。
完全に退路を絶たれた浅井軍。

確かにこうして考えると、あの大堀切は弱点、つまり本丸にいた長政と小丸に
いた久政が連絡を取れない理由だったというのも頷ける。もし容易に連絡が
取れ、兵の行き来が出来るのであれば、京極丸枡形から突破してきた敵兵を
小丸からと本丸からとで挟み撃ちに出来たんじゃなかろうか…などと妄想が
膨らむ。

この位置から振り返ると、東側にある土塁が見えた。

IMG_1161.jpg

やっぱあの土塁長いし高さあるわぁ~

ここまで京極丸について述べてきたが、分かりにくいと
思うので図で説明してみると、

kyougokumaru.jpg
▲小谷城京極丸付近図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

馬出”と書いてあるのが、この記事で最初の方に書いてある京極丸手前の
削平地のことを指しており、その中央を通る道を上がると、京極丸東曲輪
名づけた削平地にたどり着く。その東曲輪右(東)隅には土塁が聳え立っており、
さらにその右(東)奥には黄色で示した帯曲輪があった。ちなみにこの帯曲輪
右(東)奥にも削平地があるみたい。縄張図を見る限りでは。
今度は東曲輪の左(西)側に行くと、西曲輪を眼下に見下ろすことができ、
図でも写真でも分かるように見下ろすという表現になるくらい高低差があった。
西曲輪の南西隅には枡形虎口があり、そこには清水谷から水の手と呼ばれる道が
続いており、そのルートは秀吉が攻めあがってきたルートとして『信長公記』には
書かれている。

これが京極丸の全容だが、枡形虎口を見れなかったのは残念かなぁ~

というわけで、京極丸は終了。
次回は、久政自刃の地・小丸へと続きます。



To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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