#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-28/六坊
#32 小谷城-28/六坊 【小谷編】

山王丸最上段から北にある六坊へと向かう。
山王丸の最北端に到達すると、下り道が続いていた。

IMG_1293.jpg
▲山王丸4段目から六坊へと続く下り道

前回山王丸④で書いたように、山王丸が小谷城主郭群東尾根の
最高所に当たり、本丸より高い。本丸から登ってきた東尾根は
山王丸で最高所に達し、北側の六坊へはゆるゆる下り道が続き、
その坂道を約5分くらい下ると、平地へとたどり着く。


六坊

IMG_1298.jpg
▲六坊最南端部

小谷城東尾根では最後の曲輪・六坊も山王丸と同様に南北に連なる
曲輪の1つで、ちょうどこの辺りから北側へと削平地が続いている。

少し足を踏み入れると、足元には石垣があった。

IMG_1300.jpg
▲六坊石積み

おぉーここも石垣で覆われていたんだな。結構広範囲に石垣が
あったんだなぁ~歴史人歴史群像シリーズなどに描かれる
小谷城の復元CGもまんざら嘘ではないんだね。

そこから少し歩き、ようやく開けた場所に出る。

IMG_1303.jpg
▲六坊の碑がある削平地(腰曲輪)

この場所には立札と石碑があった。

>六坊跡
>二代城主久政の文書に「當城搦手」と書かれている。
>久政は軍務や政務を司っていた六つの寺院が江北各所に散らばっていて
>不便であったため、ここに集めたと言われている。
(立札より)

ちなみにこの六坊跡には曲輪のイラストが描かれた現説はなかった。
(何故ここだけなかったんだろう?単に見落としただけだろうか)
長浜みーなから抜粋すると、

>六坊
>浅井氏領国内にある寺院の出張所が置かれた曲輪と伝えている。
>削平地が南北に5、6段連なる。西側には腰曲輪が確認でき、図には
>ないが東側には竪堀数本が掘られている。また、南側の土段には石垣
>が見られる。
(長浜みーなvol.105より)

ちなみに六坊は“ロクボウ”じゃなくて、“リクボウ”って読むらしい。
この時はロクボウなんて言ってたけど、後でリクボウって読むことを
知った。あぁ~恥ずかしい。

山王丸を下りてからこの地までは、尾根の西側を歩いてきた。つまり、
今立つ削平地が長浜みーなにある“腰曲輪”を指すのだろうか。また、
長浜みーなにある曲輪のイラストにはこの削平地を指すと思われる画
から左(西)に接続している削平地も確認出来るので、もしやこの削平地
よりも左奥にまだ腰曲輪があったんだろうか…(清水谷方向の西側斜面
を覗き忘れたのであったかどうか分からない)

イラストを見る限り、曲輪の中央にある六坊と思われる建物が建つ場所を
歩いてきたように思われるので、やっぱり後者の方が正しいのかな。

IMG_1306.jpg
▲六坊東側切岸(ただの段差)

今いる場所から東(右)側を見ると段差がある。切岸とは言えない
レベルで、このような段差が5、6段連なっているとイラストには
あるが、現地では遺構が少ししか確認できなかった。

立札にあった解説では、古文書から六坊を説明し、長浜みーなは
曲輪の構造を解説している。曲輪の構造は読んでいて、多少現地
では確認しづらいところはあるけれども、一応“ふんふん”と納得
できるところはある。しかし、立札にある内容は読んだだけで理解
出来ないと思うのは自分だけだろうか…

立札に書かれている「當城搦手」。“當”は“当”の旧字なので、
「當城搦手」は「当城搦手」を表し、久政の古文書には「当城搦手」
と書かれていたことが分かる。さらに立札には6つの寺院が江北に
散らばっていて不便だったから、集めたとか何とかかんとか。
どこがどうつながっているのかが全く見えてこない…

自分は古文書なんて読めないし、読んだ人の本を読むことで精一杯。
なので手当たり次第、小谷城・浅井氏について書かれた書籍を読み
あさって得た情報によると、

まず「浄信寺(木之本地蔵)文書」に浅井氏の文書が2通存在しているとのこと。
2通とも浅井久政からの文書で、1つは「当城搦手に諸山より一坊立ち置かれや候」
と書かれており、小谷城搦手下に諸山が一坊を建立するので、浄信寺も設置する
ように命じている。このことから、小谷城の「六坊」に設けられた諸寺院の出張所
の1つと判断されている。この4/24付の浅井久政書状は宛名が欠損しているが、
その伝来の経緯から考えて同寺に宛てたものであることは間違いないんだとか。
(木之本地蔵院は後々の『賤ヶ岳の合戦』で秀吉が陣を敷きます。)

上記の内容が簡潔に立札にまとめられていたんだなぁ~
そして、この内容から山王丸北に配された寺院の出張所群は、
浅井久政の時代に創始されたことも読み取れる。

これ以外にも文書はあって、
己高山<こだかみやま>寺院の「飯福寺文書」に「当城出房」と記述がある
のがこの六坊と見られていて、この「飯福寺文書」には、浅井氏当主が出した
書状5通の他、浅井氏家臣の遠藤直経らからの文書も複数確認できている。
「当城出房」と記述がある1/23付の田村直清書状で浅井久政が「当城出房」
まで懸銭を持って出向くように命じていることを、その家臣であった田村直清
が飯福寺に伝えている。これらの文書から飯福寺が浅井氏に対して経済的・
軍事的支援を行なっていたと解釈されている。(遠藤直経姉川合戦時に
信長陣中深くまで行くが竹中重矩により討たれている)

ここに出てきた浄信寺飯福寺小谷城から見て北側に位置する。
小谷城の東尾根主郭群の中で六坊跡は北側に位置しているから、
これら六坊の出張所が置かれていたと思われる2寺には月所丸
ある方向から抜けて連絡を取っていたのだろうか。もしくは大嶽
介して脇坂谷の方へ抜けて連絡を取っていたのか。どちらにせよ
2寺に連絡は取りやすい北側に位置しているので地理的にも頷ける。
とすると、他の4坊も北に位置する寺社なんだろうか。分かっていれば、
立札とかにも記載してもいいと思うが、研究がおっついていないのか、
残念ながら詳しくは書かれていない。

また、山王丸にあった山王社、そして六坊と信仰対象となる建物が
この北側に集中しているのは、奥まった場所に位置させ、信仰を厚く
していたのかなぁ~

ここが六坊だったというのは「当城搦手」という文字が文書にあることと、
複数ある小谷城絵図にも「六坊」という字が見受けられるのが決め手だと
思われる。小谷城の曲輪名は絵図を元に付けられていることから、この六坊に
関しては絵図を裏付ける古文書が存在していてかなり信憑性が高い。

こうして城の中に寺院が建つのは何も珍しいことではないんだよね。
中世の時代、知っているように戦や飢饉などが続き、宗教などへの信仰が
厚かったのは言うまでもない。このことから、宗教活動拠点にもなる寺院
や神社は、中世社会において社会的地位は高く、発言権・経済にもその力
は及んでいたため、これらの力を掌握するために久政は関係作りに奔走
したんだと思う。

初代亮政や三代長政六角氏と徹底抗戦を唱えていたが、六角氏とは
戦わなかった久政が領内政治に力を注いだというのは、こういう政策から
きていることだとようやく分かった。亮政や長政も寺院宛てに、文書を
出しているようだが、前述したように六坊の創始は久政だということや、
さらに久政は他にも用水裁定なども行なっていることから外交よりは内政に
長けていたのかな。大河ドラマ「江」では愚鈍な演出だったけどそうでは
なかったんだろうね。

同じく城に寺院関係の曲輪があった場所はというと、
謙信春日山城には毘沙門堂が建てられていたり、安土城摠見寺
そうだし、小田原城弁財天が勧請されている。城の鬼門に鎮守となる寺院を
置くのも多い。小谷城の六坊・山王丸も福寿丸山崎丸・大嶽を含む小谷城
全体で見ると、北東方向にあり鬼門を抑えているとも考えられなくない。

あぁ長篠城もあったっけか。稲荷社だったかな、あそこは。
挙げたらキリがないのでこの辺にしておく。

話が逸れだしたので、攻城の続きに戻ると、
中丸から少し駆け足で回ってきて、ここに来たのが15:30。
だいぶ日が暮れて薄暗くなっていた。1つ1つ丁寧に見て
回りたかったけど、時間がなくなってきて道に沿って見て
回ることしか出来なかった。

上へと登る道があったので、これを登ることにした。

IMG_1307.jpg

登る途中、先程いた削平地を覗いてみた。

IMG_1304.jpg

ここに出坊があったのかと思うと、かなり狭い気が…
祠みたいな感じだったんだろうか。長浜みーなのイラストでは
たいそうな建物が描かれているんだけどなぁ~

話変わるけど、そもそも滋賀県って民家の先にが建っている所多いよね?
あれなんでかなぁ~?なんて考えていたけど、あれも出張所の類なのかな。
遠い場所に参詣に行けないから、あぁして勧請していたりするのかな。

振り返って引き続き奥へと進むと、この辺は木々が乱立していて、
とてもじゃないが削平地なんて確認しどころじゃなかった。

IMG_1309.jpg

歩ける程度。ここまではあまり人が来ないから伐採はしていないのかな。
やっぱり見晴らしがいい桜馬場馬屋だけだったんだな。

で、ようやく六坊の終点にたどり着く。
ここはちょうど清水谷コースの終点でもあり、大嶽月所丸
行く道の分岐点でもある。分岐点に差し掛かる前、六坊の終点には
土塁らしきものがあった。

IMG_1314.jpg
▲六坊最北端にある土塁(?)

これも六坊跡の遺構だと思っていいのかな。ここは防御施設の
類があまりなかったので、これだけここにポコンとあるとすごく
違和感を感じる。もっともな理由をつけるなら北側への防備だろうか。

てなわけで六坊跡の踏査終了。

って、あーーーー
竪堀見忘れたーーーーーっ!!

て事に、後日気づく…



To Be Continued...



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