#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-19/大堀切
#23 小谷城-19/大堀切 【小谷編】

本丸の西側にある竪土塁を過ぎると、本丸の北側に出る。
そこには大きな堀切、“大堀切”が存在し、小谷城の見所の一つと言える。


大堀切

IMG_1084.jpg
▲大堀切を西から望む

>大堀切跡
>本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。
>番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。

めちゃくちゃデケぇ~

これまで見てきた堀切の中では、ダントツだと思った。
彦根城にもあるけど、あれは整いすぎだし、中世城郭だと鎌刃城でも
大堀切があったけど、あれとは比べ物にならないほどの大きさだった。

もうちょっと引いて撮れば良かったかなぁ~って思う。
これだと迫力がやっぱ伝わらない。お城の遺構を写すには
広角レンズがベストだと言わているが、持っていない自分は
引いて撮るしかない。(早く広角レンズ手に入れないとなぁ…)

にっぽんの名城”では、千田先生と美甘子さんがこの大堀切の
底辺の長さを歩測で測っていたのを思い出す。
美甘子さんの歩幅が70センチで、17歩あったから約12メートル。
というわけで自分は測らなかった。

中央に進んでみれば、その圧倒的な規模を体感することが出来た。

IMG_1096.jpg
▲大堀切中央底から本丸を望む

IMG_1097.jpg
▲大堀切中央底から中丸を望む

本丸側は頂点までが高いので攻め登るのが厳しそうだが、中丸側は
そんなでもなさそう。岩盤がむき出しになっていて、角度はついて
いるが高さはそんなになかった。

本丸へたどり着くのがいかに大変かと言う事が一目瞭然。

堀底をぐるりと歩いてみた。途中一段下がるように高低差があった。
これまで体験してきた堀切って、少し歩けばすぐ折り返したりする
ことになるが、ここは歩けども歩けども折り返すことには全くならない。

東側へとやってくると、

IMG_1099.jpg
▲本丸西側竪土塁

大広間から確認していた土塁にたどり着く。前回の記事で扱った
竪土塁とは間逆の位置になる。つまり、本丸からは左右の空きを
補うために、土塁を東西に延ばしていることが分かる。

IMG_1098.jpg

大広間から見たときも思ったが、土塁周辺には、多数の石が
散在していた。このことから、ここも往時は石積みで囲まれた
竪土塁だったのではないかと推測される。

horikiri.jpg
▲小谷城本丸付近図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

これまでのをまとめると、上図の青い部分が一個前の記事で書いた
本丸西側の石積みで固められた竪土塁。そこから北をぐるりと東へ
向かって歩いた。それが黄色の矢印になる。その歩いた部分は黄色の
点線で囲んだ大堀切に当たる。見て分かるように、矢印の始点と終点
には本丸から延びた竪土塁が堀切側からの侵入を防いでいる。

書籍ではこの大堀切を弱点とも言い、強みとも解説している。
弱点の理由としては、大堀切より北の京極丸・小丸などの曲輪と
本丸側が大堀切によって分断されることにより、連絡が密に取れない
からだと解釈されている。一方、後者の強みに関しては、京極丸から
秀吉に攻められ、浅井久政が8/27に小丸で自刃した後も、本丸側に
詰めていた浅井長政が9/1に自刃するまでの数日間立て籠もることが
出来たことから、この大堀切があったからではと考えられている。

各書籍の意見をまとめれば、大堀切はメリット・デメリット両方備えた
諸刃の剣だったと言えるんだろうけど、デメリットに関しては結果から
挙げられているだけで当時はそんなこと思いもよらなかったんじゃ?
この大堀切がある理由として大嶽城が落とされても大堀切で敵を
食い止めるという意図があったのではとも言われているので、どちらかと
いうとメリットの方が強かったんじゃないかなぁ~って思う。

そもそも何故久政と長政は大堀切を境に籠っていたのか?というのも
疑問に残る。よく目にするのは、クーデターを起こした長政に家督を
譲った久政が引退して小丸へ籠ったとある。

二代久政から三代長政への家督相続はすんなり行われたものでは
なかったというのは有名とのこと。
(自分は調べるまでは知らなかったが…)

このことから久政と長政の関係性が少しばかり見えてくるが、
上で言うように多くの書籍では、これだけしか書かれていない。

そんな中見つけた竹生島の本には、このクーデターに
関して他の書籍より詳しく書かれていた。

浅井亮政が国人領主の位置から、京極氏や上坂氏、浅見氏に対して
クーデターを起こしたように、長政は自分の父に対してクーデターを
やってのけた。と言っても、重臣の説得によるもの。小谷城和りんごの
記事でも触れたように久政の時代は、初代亮政と違って六角氏とは主従
関係を貫いていたという。これを不満に思った重臣が長政を説き伏せた
というのがクーデターの前口上。

これは『浅井三代記』を元に発せられている説の一つで、
さらに、クーデターの一部始終を追ってみると、

>重臣たちが長政を説き伏せた後、久政が遊興にふけっている間を
>狙い、長政を小谷城本丸へと移動させた。その時、久政は早崎浦で
>鴨鷹狩りを楽しみ、次いで竹生島詣に出かけていた。竹生島から
>早崎浦に戻ってきた久政を待っていたのは、鎧物を具した赤尾美作守ら
>四人の重臣たち。重臣たちは長政を本丸に入れた旨を久政に告げた。
>久政は激怒したが、近習・小姓四、五十人の小勢であったので、
>一旦竹生島に引き返し籠もることになる。その後、久政も家督相続を
>承引し、自らは長政の後見として小谷城小丸に退いたという。
(参考文献:戦国武将の竹生島信仰)

『浅井三代記』は江戸時代のもので、浅井三代の興亡を描いた軍記物
脚色や創作している箇所があり、信憑性はあまりないとされている。

これらのことから、一考してみると、久政は対六角氏派の重臣から
追いやられ小丸(大堀切より曲輪三つ北側)に隠居し、長政は大堀切
南側に面する本丸・大広間におり、赤尾氏は本丸東一段下に位置する
曲輪(赤尾屋敷)にいた。ということは、父よりも近い場所に赤尾氏が
詰めていたことになり、久政を近付けさせないようにしたとも思える
配置になっている。ということは連絡もへったくれもなかったんじゃ…
長政にとって、久政はいてもいなくてもあまり関係なかったのかなぁ~
と思った。(大堀切についての論述はまだまだ続きます。後述予定)

大河ドラマ江では時任三郎演じる浅井長政と寺田農演じる浅井久政は、
演出では久政がギャーギャーわめきちらして長政の政に対して不満を
ぶちまけているが、実際はそうではなかったんじゃ~って思った。
あんなふうに家中での発言力はなかっただろうし、評議には参加
させてもらえなかったんじゃ…

まぁ、浅井三代記を信じればの話だけど。

次回、中丸へと続く。



To Be Continued...



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