#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-10/馬洗池
#14 小谷城-10/馬洗池 【小谷編】

小谷城の御馬屋跡はL字型の曲輪になっている。
北東方向にはみ出している。(下図参照)

umaaraiike.jpg
▲小谷城主要部先端図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

そこには馬洗池(上図で黄色く丸で囲んだ場所)があり、今も水を溜めている。
(L型と言ったのは、この池を含めた範囲で述べたけど、実際御馬屋跡に
池を含んでいいか分からない。この中では含めた前提で話を書く。)


馬洗池

IMG_0853.jpg
▲馬洗池(南より撮影)

御馬屋跡入り口付近にあった立札には、
>馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかった。
と書かれていた。

昨年NHKで放送された『直伝和の極意 体感・実感!にっぽんの名城』で、
千田先生と歴ドル美甘子さんが、この小谷城を紹介いていた。
先生の独特な喋り方で、「豊富な水を確保できる山城なんですねぇ~」
と言っていたのを思い出す。

この池は周りを石垣で固められていて、さらに南北二段に分けられている。
南の方が広く、北のほうが狭い。その間を石積で仕切っている。
その仕切りを確認するには、上に登って見下ろすと分かりやすかった。
下の写真を見て分かるとおり、南の方は水が溜まっているが、北は涸れていた。

IMG_0862.jpg
▲馬洗池(上より俯瞰、右側が北に当たる)

馬洗池という名は、実際に馬を洗っていたというわけではなく、
この池がある曲輪・御馬屋跡から命名されたと推定されている。

小谷城の曲輪名は、江戸時代の絵図を元に命名されているのに、
この池だけ曲輪名から推測されているのかが、意味分からない。
実際、小谷城絵図には馬屋の横に『』とだけしか記載されていないから
単に『池』とだけ名付ければいいものを。

ところで『廃城をゆく』には、下記のようなエピソードが書かれている。
>籠城戦で浅井方は織田方に水の補給路を断たれていたが、
>城内には水が豊富にあると見せかけるために、この池で
>白米を用いて馬を洗い敵の目をごまかしたという。

ここで言う池は前回述べた御馬屋曲輪中央にあるガイドさんが必死に
説明していた井戸かもしれない。

まぁ、実際この手の記述は意外と多く、最近だと苗木城で耳にしたことが
あるけど、米が水に見えんのかねぇ~
籠城しているわけだから、兵糧として使った方がいいと思うんだけどな。

さて、前回の御馬屋跡の現説には、次のように書かれていた。
>北東にある馬洗池は、文字通り馬を洗った池と解するよりは、
>桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀と考えたほうがよい。
(全文は前回の記事でご確認ください。)

ガイドさんは、馬洗池城主が生活水として使われていたと言っていた。
上に書いた現説では、馬洗池は桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための
水堀と言っている。

生活用水だったのか、防御施設だったのか。
それとも両方兼ね備えていたのか。

この記事の最初には御馬屋跡をL字型の曲輪と書いた。
御馬屋がL字型の形をしているため一つの上の曲輪・桜馬場にも影響していて、
桜馬場もL字型になっている。(南西が張り出している。一番上の図参照)

御馬屋から一つ上の桜馬場のこの張り出している部分を横矢
解釈している本があった。

さらに、桜馬場の切岸に敵が近づけないようするための
馬洗池とその本では位置づけている。

umaaraiike2.jpg
▲桜馬場横矢掛け説明図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

登ってくる敵兵に、桜馬場曲輪にいる城兵が狙い撃つ。
馬洗池がなければ、桜馬場下直下に取り付くことが出来、城兵側は
狙いを定めにくくなる。ということで合ってんのかな?
ここに来てようやく戦術的な意図がある遺構に出会った。

現地で横矢掛けを想像してみると、

IMG_0859 のコピ-2のコピー
▲桜馬場横矢掛け

このような感じ。右上へ進むと本丸跡の方へ行ける。
攻城者は右上へと攻めていくわけだけど、守城者は登ってくる敵兵に向けて
側面から攻撃する。ここで攻撃されたら…
道の右は崖・左は池。進退ままならずパニくる攻城兵。
なぁ~んて考えると理にかなった縄張かも。

湧水ではなかったことから地形的にこうなったというわけではなさそう。
地形によるものでなければ意図的?横矢という言葉は江戸軍学から使われるように
なった言葉だというので、この時代はなかったと思われる。言葉がないにしろ、
何かしらこういう横矢がかけられることを意識して築城したのだとすれば
すごいなぁ~って思った。

と、言っても前回述べたように縄張の巧みさは
あまり感じないというのが事実。

築城時期が1500年代中頃だから仕方ないか…



To Be Continued...



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