#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-11/首据石
#15 小谷城-11/首据石 【小谷編】

ちょいと昔話を。

浅井氏は、

初代・亮政-二代・久政-三代・長政

の浅井三代が有名。
これ以前の血筋もいるが、亮政の代から表舞台に出てきた。

元々、浅井氏は北近江を統治する京極氏の被官で、
他にも同じく京極氏の下につく国人領主たちは数多くいた。

その家臣団の中でも、最大勢力を誇っていたのが上坂信光という人物。
京極持清の死後、子の高清政経との間で内紛が起こり応仁の乱
両者は東西に別れて戦うほどだった。この結果、高清が近江の支配権を獲得し、
高清を上坂家信が補佐する政権が確立。この家信の子が信光にあたる。

さらに持清の時に続き、京極高清の継嗣問題(高清の長男・高広と次男・高慶)が起きる。
この政権を不満に持つ国人領主たちが結託して、京極高清・上坂信光に対してクーデターを起こす。
上坂信光は次男・高慶を推したが、一揆を起こした国人領主たちは、長男・高広を推した。
この一揆を起こした領主たちが、浅見貞則・三田村忠正・今井越前・堀元積・浅井亮政
面々だった。

この一揆は大永三年(1523)三月のことで、京極高清・上坂信光は失脚して、尾張へと奔ることになる。
結果、高清の長男・高広(高延)が一揆に推される形で家督を継ぐことになった。

この時一揆を起こした領主たちのなかでメインとなった人物が浅見貞則で、
しばらくはこの貞則が、北近江を支配していたようだが、横暴な統治を行い、
他の領主たちから反感を買っていった。
(浅見氏の居城・尾上城に京極高広を迎えていた。)

しばらくして大永五年(1525)、国人一揆第二段階が起こる。
このとき中心人物となったのが浅井亮政で、浅見氏を討ち取り盟主となった。
このあと、亮政は自己の居城・小谷城に高広を迎えている。このことから、浅井氏が
北近江の実権を握ったと見られる。

実権は握るものの、あくまで京極氏の家臣ということは変わらない。

実際に、京極氏と浅井氏が出した文書には違いがあり、
京極高広は書下(命令形式の文書)を出しているが、浅井氏は奉書(大名の命令を奉じる書)を
出していることから違いが分かる。志賀の陣朝倉氏と浅井氏は同盟して織田信長と戦うが、
このとき出している朝倉氏と浅井氏の禁制も書下(朝倉氏)と奉書(浅井氏)で分かれている。このことから、
浅井氏は朝倉氏の家臣だったのではないかという説が出てきているらしいが、それは奉じた大名を
見誤っているとして、浅井氏は京極氏の家臣だったから奉書を出していると指摘している。

が、京極氏は浅井氏の傀儡に成り果てた。
守護京極氏よりも国人領主である浅井氏が台頭し権力を握った。京極高広を
自己の居城・小谷城に迎えている。(この点では、浅見氏と同じ過程をたどっている。)
大永五年(1525)五月、南近江を統治していた六角氏から速攻浅井氏は
攻められて国外逃亡している。
発端は、京極氏の没落がきっかけだと思われ、勢力拡大のため六角氏が北近江に
軍事行動を起こし始めた。

北近江の指導者が京極氏から浅井氏へ変わったことを如実に物語っている。

浅井亮政は、次は自分が他の国人領主たちにクーデターを起こされるかもしれないという
気持ちは抱いていたかもしれないね。自分が追い出した上坂氏や浅見氏のように…

しばらくして天文二年(1533)のとき、事件が起こる。
京極氏の家臣の中でも有力武将だった坂田郡箕浦の国人領主・今井秀信(秀俊)は、
神照寺庭園で催された茶会に浅井亮政から呼び出され謀殺された。
謀殺した直接の理由は分かっていないらしい。北近江の支配権を確立しつつあった
浅井亮政が、強大な勢力だった秀信を早めにつぶしたという解釈がされている。

前置きが長くなったが、小谷城攻城に話を戻すと、
前回は、御馬屋跡まで終わっていた。

御馬屋跡から少し登ると、登城道が二手に分岐する。
真っ直ぐ行けば桜馬場へ、脇道は赤尾屋敷曲輪へと行く。

ちょうどその手前に首据石と呼ばれる大きな巨石がある。


首据石

IMG_0867.jpg

>首据石
>黒金門跡の手前にあり、天文二年(一五三三)一月、初代亮政は六角氏の合戦の際、
>家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたという。
(立札より)

金吾丸の時の記事でも書いたように、浅井氏は六角氏に何度か攻められている。
現説にあるように天文二年の時期に戦いがあったかというと、
二年前の享禄四年(1531)四月六日に、浅井氏と六角氏はやりあっている。
(これより近い日付の戦闘は、現時点で把握していない)
このとき、浅井氏は敗北しているらしい。(箕浦川原で行われた箕浦合戦)

確かに、今井秀信が六角氏に内通した可能性はあるかもしれない。
しかし、事前に調べていた内容(前述した内容)では殺した理由は分からないとし、
勢力が比肩するのを恐れて殺したというのもあり得るかもしれないとあった。
とすると、内通していたというのは単に殺す口実だけだったかもしれないなぁ~と思う。

石は伝承を裏付けるように、上部が平らになっている。

IMG_0868.jpg

伝承を知ってか、人がお賽銭を上に置いている。
ちと写真じゃ分かりづらいか。

1円玉と10円玉。みんなケチだな。
どーんと、置いていけばいいのに。という自分は置いていない。
なので、自分の背後には今井秀信氏が憑いているかも…

で、

ここに来た時も、○○班のグループがガイドさんの解説で首据石を囲んでいたので、
去るのを待って撮影したが、このときもガイドさんの話を盗み聞きした。

なんでも、登城道のこの石に、謀殺した今井秀信の首を置いたのは、
家臣に対しての見せしめだったとのこと。
裏切ればお前らもこうなるぞぉ~ということを、この道脇に置いて、
アピールしたのではないかと考えられているらしい。

へぇ~確かに道の脇にあるから、面白い話しだなぁ~
聞けてよかったよかった。

もしかしたら残念石の類なんかなぁ~って思ったりもしたんだよね、このとき。
伝承はあくまでも伝承で後付け。

実際は、小谷城に積まれている石垣は、小谷山で産出される石灰岩を使用されている
と言われているので、その一つだと思った。(石垣の石と質は似ているようだったので)
これ一つが残念石にしては大きすぎるけど、加工する前だとしたら?
石垣に積む用でここまで運ばれてきて…
しかし落城までに、この石から切り出して積まれることはなかった。
と、想像してみた。

で、話が変わるが、小谷城の現説板。
立札タイプと曲輪イラストが書かれた2種類が現地では置かれている。

前者は昔から置かれ、後者は博覧会に合わせて新たに置いたものと思われる。
前者の立札も実は博覧会に合わせて新調されていることに気づいた。
見りゃ真新しいから、最近立てられたものだと分かるかもしれないが、
内容が昔と違うことにも気づいた。あらかじめ来る前に現地解説板の内容を
他人のブログなどで調べていたが、前の内容と異なる内容が書かれていた。
新調する際に、内容を書き換えている。全く違う内容というわけではなく、
表現を少し変えていただけなんだけど…
それでも前のは天文二年(一五二三)となっていたように見えたから、
もしかして修正ついでに文言変えたんかな。

と、どうでもいいことに引っかかりながら、
次回は桜馬場へ突入していく。



To Be Continued...



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