#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-14/大広間②
#18 小谷城-14/大広間② 【小谷編】

大広間の南・黒金門跡を抜けると大広間中心へと道が続く。

黒金門跡の西には顕著に土塁が残っていた。城内側から南を見ると、

IMG_0940.jpg

幾ばくか高さが見て取れる。南西へ少し続いていた。

IMG_0964.jpg

石がここでも散在しているので、内側も石垣で囲われていることを
示しているのだろうか…
しかし、石は小さいため、石垣というよりは石積みに近いかも。

近くには大広間跡の現説と立札があった。


大広間

IMG_0971.jpg
▲大広間跡(北端から望む)

>別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約八十五メートル・幅約三十五メートルで
>前面に高さ約四メートル石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出
>されているほか石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。
(立札より)

現説板もだいたい同じことが書かれている。

大広間は、今までの曲輪とは比較にならないほどメチャクチャ広い。

今は大広間のどこを歩いてもいいようだが、大抵の人は曲輪中央を
真っ直ぐ歩いている。昭和の整備事業の際の写真を見ると、大広間に木は
生えておらず、真っ平らな曲輪の中をジグザグに道が形成されている。
現在は脇に鬱蒼とまではしていないが、少しばかり木が生えている。

現説でもあるとおり、発掘調査では曲輪ほぼ全域に南北二群の御殿跡
礎石建物が配置されていたことが判明している。
南の御殿跡を中心に三万点以上もの“かわらけ”や“古銭”、“儀式用の
土師器皿”をはじめとする遺物が城内では一番多く見つかっており、実際に
御殿があったのでは?と考えられている。

また、遺物の中にはが一片も含まれていなかったことから、
御殿は杮葺きもいくは板葺きだと推測されている。

足元に目を落とすと、礎石があちこちに点在している。

IMG_0943.jpg
▲大広間礎石

発掘調査時に分かった礎石建物は、柱門一間を六尺三寸(約191CM)ということが
検出されている。山上でこれほど大規模な礎石建物が検出された事例がないと言われ、
居住空間だったのでは?とも見られている。一方、六尺三寸という幅は当時の建物
として見合うものかどうかは不明ともされているようだが。

今整然と並んでいる礎石は整備事業によるものなので、
当時の間隔通り並べられていないと思われる。
それでも、往時を偲ぶには十分な整備具合。

敷石が発見され蔵跡と推定されている北西隅へと向かった。
他にも、そこからは鏡・銀製の化粧用具・貨銭・陶器片などが発掘されている。

IMG_0966.jpg
▲土蔵があったと思われる場所

敷石と思われる石がこのへんには多数並べられていた。
ここが蔵跡と言われている場所だろうか…
発掘時の写真では、石で隙間がないほど詰められているように
見えたが、今はそこまで石がなかった。ただ、礎石の間隔とは明らかに違うし、
周囲に比べて多少ここには石が密集しているかなぁ~と思った。

大広間西端に近かったので、西端に近づいてみると大広間西側下方には、
桜馬場から続いている帯曲輪が続いているのが確認出来た。

IMG_0965.jpg
▲大広間に接続する帯曲輪(木々の隙間から削平地が見える)

今度は、逆の北東側へ行くと、そこには大きな石組みの溜井戸
残されていた。

IMG_1013.jpg

ここで城主一家が住んでいたとも考えられていることから、御馬屋跡でガイドさんが
馬洗池を城主が使っていたのでは?と考えられていると言っていたことに疑問を感じた。
だって、この大広間跡に溜井戸があるんだから馬洗池は使用しなくても済むでしょ~と
思ったけど、籠城してたら使う可能性もあるか。と、思い直した。

井戸跡から少し北へ歩いてみた。
大広間は長方形の曲輪かと思っていたが、どうやらそうではなかった。

IMG_0975.jpg
▲本丸東脇の大広間跡(一番奥に土塁がある)

本丸へは登らず、北東へと進むと大広間の削平地が続いている。
本丸の幅は大広間よりも短く、大広間が本丸左右を囲んでいるため、
本丸脇に腰曲輪のように大広間が接続している。
が、奥へ行くと土塁があって進むことが出来なかった。
この土塁は曲輪を仕切る“仕切り土塁”だと思われる。

発掘調査でわかった事実により、大広間には御殿があったとされ、この一画は
浅井長政お市ら小谷城主一家の生活場だったのではないか?と考えられている。

また、その御殿は政治や儀式の場として機能し、浅井氏は争論裁定に
あたって登城を求めていることから、ここで裁判が行われていたとも
考えられている。

つまり、生活の場であり、政を行う場所でもあったということになる。

さらに天正元年(1573)はが生まれた年で、このとき織田信長と交戦中で
あったことを踏まえると、江が生まれたと考えられる場所はここだと考察されている。

ここで生まれたと思うと、何だか感慨深い。

で、お昼はここで取ることにした。大広間の礎石の上で。

往時はこの上に建っていた御殿で長政やお市、三姉妹が食べていたかもしれないっ!!
と考えると、お昼が楽しくなってきた♪

米原駅で買っていた駅弁をここで広げて食べていると、観光客がゾロゾロ横を
通っていく。遺構ばっかりに気がとらわれてご飯を簡単に済ましちゃうよりかは、
御殿跡で往時を偲びながら食べるといった楽しみ方もありかなぁ~って今回思った。

その場所からは、本丸南面の石積みがよく見えた。

IMG_0947.jpg
▲本丸南面石積み

このとき、ちょうど石垣が日に照らされて綺麗だった。
次はこの上へと登る…



To Be Continued...



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