#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-17/赤尾屋敷②
#21 小谷城-17/赤尾屋敷② 【小谷編】

赤尾屋敷が眼前に迫ってきた。
ここまでを振り返ると、

赤尾屋敷
▲小谷城赤尾屋敷図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

大広間からは黄色のルートを進んできた。途中、道から下方に
帯曲輪が見えたことから、赤く丸で囲った位置には帯曲輪があると
考えられる。(但し、公式で発表いている縄張図などには未掲載)

現在、ちょうど黄色の矢印先まで辿り着いていた。
赤尾屋敷手前まで来ていたが、ちょうど屋敷跡へ入る直前に、
こっちが虎口の跡か?と思えるようなクランクがあり、
少し盛り上がっている。

IMG_1061.jpg
▲赤尾屋敷跡虎口跡?

ここを入れば、広い削平地・赤尾屋敷跡へと入る。


赤尾屋敷

IMG_1038.jpg

>赤尾屋敷
>浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。
>家臣の屋敷では最も本丸に近くまた浅井長政最後の地となったことから、
>赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。
(首据石近くにあった立札より)

>赤尾屋敷
>本丸東側を取り巻く腰曲輪下にある3段構造をとる。浅井氏の重臣である
>赤尾清綱の屋敷といわれ、天正元年(1573)9月1日に浅井長政が自刃した
>場所でもある。
(現説板より)

三段の曲輪で構成されているが、辿り着いた場所は三段の
最上段の曲輪に当たる場所。というわけで、この削平地から
下方にあると思われる二段の曲輪を覗いてみた。

IMG_1040.jpg
▲赤尾屋敷二段目の曲輪を三段目から望む

一応、木の間からかすかに二段目の削平地が見えるのがやっと。
ここからは下に行けそうもないので、上から確認するだけに留まり、
最下段の曲輪は確認できなかった…

今度は本丸大広間側(上)の方を見上げてみた。この赤尾屋敷跡は
ちょうど大広間の真下にあり、本丸側の斜面は切岸で構成されている。

IMG_1039.jpg
▲大広間切岸

と言っても、石がゴロゴロ転がっていたから往時は石垣だったのかな?ここは。

赤尾屋敷跡最上段は三日月型のようになっていて、中央からさらに奥へ
行くと、“浅井長政公自刃之地”と刻まれた石碑がひっそりと建っていた。
浅井長政が信長に攻められた折、この曲輪で自刃したと伝えられており、
そのため、ここにこの石碑が建てられている。

IMG_1041.jpg

>浅井長政自刃の地s
>天正元年(一五七三)九月一日最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は
>信長の兵に攻められ、本丸(鐘ヶ丸)に帰る事ができずやむなく重臣赤尾美作守
>の屋敷に入り自刃した。享年二十九歳であった。

自刃の日は、九月一日というのが通説となっている。
今でも昔の説、八月二十九日自刃としているところも残っている。
片桐且元出生地の記事で書いたように八月二十九日の長政文書が
残っていて、見たことはないが、その文書はこれより以前の感状と
比べて折り目がついたりと、長政身辺の急変を物語っているらしい。
文面の中には、「皆々抜け出で候處」と書かれており、味方が逃散したり
信長方へ降伏する者が多かったと記されている。

また『総見記』には、「共の者百人あまり也」と記されていることから
赤尾屋敷までは、100人前後の人間が長政を取り巻いていたと思われ、
赤尾屋敷で自刃したと決めているのは、この『総見記』と地元の
伝承から間違いないとされている。

長政は、防矢を射させて自刃し、大村太郎次郎が介錯した
というのが最後らしい。(防矢って何なのかよく知らないけど…)

また、赤尾清綱はというと、信長の前に引き出され謀殺されたが、
子の虎千代は親類の多賀休徳斎に預けられてのち、京極高次
仕えて武功をたてたという。

―合掌―

なんとっ!ここでもお酒の奉納が!!
桜馬場浅井氏及家臣供養塔にもあったけど、ここにもあった。
浅井氏を今でも敬う人がここに置きに来ているのだろうか…
案の定、桜馬場で置いていた人と同じで“渡辺”と書かれていた。
さすがに歴女ではないだろ(笑)こんなお酒をかついで登城してきたとは
考えたくない。もしそうだとしたら、どんだけ豪快な人なのだろうか。
一度お目にかかりたい。

さて、ここまで来て初めて浅井氏家臣の名前がついた曲輪が出てきた。
この時点でまだ行っていないが、清水谷道には脇に浅井氏家臣の
曲輪、屋敷地が存在している。しかし、それらは小谷城主要部には
存在してらず、赤尾氏のみの曲輪しか主要部周辺にはないのである。

これについては、浅井氏と赤尾氏の関係性で解説されている。

浅井氏重臣には、「雨海赤の三傑」という言葉が江戸時代に編纂された
複数の文献に登場している。(但し、文献によっては表現の仕方が違う)

この雨海赤というのは、海北善右衛門・雨森弥兵衛・赤尾作州の三人を
指しており、浅井氏家臣の中でも、この三人は重臣であったとされている。
ちなみに、今では上記「雨海赤の三傑」というのは創作と言われていて、
海北氏と雨森氏に関しては捏造なのでは?と考えられている。

では、赤尾美作守(作州)清綱も捏造なのか?
というと、そうではないらしい。

赤尾氏に関しては、浅井氏の重臣であったことが紛れもない事実だったと
されている。赤尾氏は浅井長政の筆頭宿老をつとめ、他の重臣たちとは違い、
一人だけ山上の城郭に屋敷を与えられており、またその場所が本丸に
近いところから浅井長政が特別な地位を与えていたと考えられている。

つまり、「雨海赤の三傑」という伝承は現在否定され、長政の最終段階では、
赤尾氏をTOPとした家臣団構成になると想定されている。

ここ、赤尾屋敷は浅井長政が最後の時を迎えたということが伝わっている
ので小谷城の中でも一番特別な場所であるが、このときは誰一人として
訪れてくる人は現れなかった。

静かにこの場を離れ、大堀切がある場所へと向かう。



To Be Continued...



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