#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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浅井氏と年号について
【浅井氏と年号について】

浅井氏が滅亡した1573年は、
よく書籍などでは、天正元年と記されていることが多い。
多いと言ったのは、別の書き方で表している書籍もあった。

織田信長浅井長政姉川合戦で衝突した年が元亀元年(1570年)。
織田信長は、将軍義昭による織田信長包囲網で苦しめられることになり、
元亀年間の信長との対立を元亀争乱とも言う。

元亀元年の1570年から数えれば、1573年は元亀四年に値する。
そのためか、少数ながらも本によっては、元亀四年と記すものもあり、
最初の頃、「?」と思うことがしばしばあった。
ただ、多くの書籍で天正元年とされていることから、元亀四年は間違って
書いているのだろうと思うことにした。

それから数日後、『浅井長政のすべて(新人物往来社)』の小谷落城という
項目を読んで間違いではなかったことを知った。

実際、1573年の年号は元亀四年だったのだが、七月二十八日から
改元されているとのこと。

昭和から平成に改元されるときは、物心がつく前だったのでリアルタイムでは、
記憶に残っていない。後々、テレビ番組などで当時、内閣官房長官だった小渕
恵三氏が“平成”の二字を掲げていたことを目にしたことがあった。

その改元は天皇の大権に属することであるにもかかわらず、織田信長は
「元亀は不吉也」として改元を強要したという。

しかし、浅井長政は改元された以降も、文書には「元亀四年」または
「元亀四」の年号を使用している。
この点を、改元の事情を知っている長政が、発給する文書に元亀の年号を
頑なに貫き、信長に反抗する抵抗を示していると解説していた。

これを読んだ時、今までしっくり来なかった元亀四年と天正元年の
両表記が混在することに納得がいった。

浅井長政側から見れば、元亀四年。
織田信長側から見れば、天正元年。

本によって違いがあるのは、書き手の思い入れがあるかもしれない。
元亀四年で書いている本は浅井氏に肩入れして、執筆してるのかも
しれないなぁ~

んなわけないか。


参考文献:浅井長政のすべて(新人物往来社)



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