#oshiro/城郭記
プロフィール

#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



カテゴリ



最新記事



Link

このブログをリンクに追加する



検索フォーム



RSSリンクの表示



カウンター



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


小谷城-25/山王丸②
#29 小谷城-25/山王丸② 【小谷編】

大石垣で長居しすぎたので、攻城の続きを再開することに。
来た道を戻り、観察途中だった枡形虎口へと出る。

sannnoumaru2.jpg
▲小谷城山王丸付近図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

上図だと、左寄りに枡形虎口があるけど実際は、右寄りに近い。
麓にあった小谷城図はかなり簡略化されているので、実際登城すると、
全く異なることに気づかされる。


枡形虎口

IMG_1248.jpg
▲枡形虎口を右下より望む

山王丸中枢へは、この虎口から入っていくわけだけど、
かなりの量の巨石が横たわっていることが見て取れる。
と言っても、石が散在しているので、一見虎口とは見えない。

IMG_1255.jpg
▲枡形虎口の崩落した石

この崩落している石垣らは、秀吉の改修によるものだとか、
秀吉による破城の際に投棄されたとか言われている。
この虎口を改修した後に長浜城へ移る際、破城したと考えるべきなんだろうか。

浅井氏滅亡後の小谷城は、信長より近江の地を与えられた秀吉が
今の長浜に城を築くまでの間、この小谷城に在城していた期間があり、
そのため石垣の一部は秀吉入城後のものだとも考えられている。

石垣の本格導入は安土城、それよりも先行して石垣を導入したのが
南近江の守護六角氏領内の城に多く見られる。これまでに土留め用として
石積みで保護された切岸を持つ城は多かったようだけど、石垣は上記に
挙げたお城から採用されている。そして、この小谷城でも数箇所で石垣が
積まれていたことが分かる。それが先ほどの山王丸の大石垣であったり、
この枡形虎口であったり、前に出てきた本丸黒金門がそれに当たる。
これらの石垣の内、浅井氏時代のものはどれなんかねぇ~
また、浅井氏の支城には石垣が築かれている場所があり、
それは鎌刃城と呼ばれる城で、これまで小谷城を書いてきた記事には
数回登場させてきた。鎌刃城も石垣や石積みが採用されており、国境の
城だったため先進的な造りが導入されたと解釈されている。

多分だけど、佐和山城も石垣造りだったんだろうな。
あ、浅井氏の境目の城として利用されていた時期の話ね。

いや、境目の城ということは六角氏の城になったことも考えられるじゃん!!
って突っ込みが来そうだけど、確かに佐和山城は境目の城として、京極氏・浅井氏
六角氏の間で争奪戦が繰り広げられ、城主もコロコロ変わっている。だったら、
六角氏時代に、石垣が築かれたと思われるだろうけど、六角氏の観音寺城矢穴
認められる。佐和山城は石田氏時代のそれもちょろっとしか石がないけど、鎌刃城
は石垣の石を見る限り自然石をそのまま用いた積み方で矢穴は認められなかった。
(自分で見た限りはね…)ということは、この境目の城は六角氏時代ではなく、浅井氏
の家臣が砦として最新技術を導入していたんではないかと思う。この辺は、境目の
城だからと各書籍で同様の推測がされている。

さらに言うと、信長が築いた安土城は矢穴が認められない。これも観音寺城と
異なる部分で、安土の石垣は滋賀県坂本穴太衆が築いたとされている。で、
この石工衆は観音寺城の石垣普請には参加していなかったと。

信長が穴太衆に目をつけのたのが比叡山焼討の時。
比叡山焼討前に、信長はかなりの窮地に追い込まれているが、それが
志賀の陣であり浅井・朝倉との連合軍と約3ヶ月間、比叡山がある山中で
衝突している。(姉川の合戦で浅井氏が大敗したという説は、この対決や
合戦から3年も経過して滅亡した事からと否定されている。ちなみに滅亡の
原因は、この志賀の陣での和睦が大きいとされている。)

ちなみに焼討の口実は、この対立時に比叡山側に浅井・朝倉軍を山上に
入れないように求めたが、黙殺?して拒否したのが理由とされている。

また、後述予定だが、山王丸山王社があったことから名づけられている。
この山王社は比叡山の地主神・日吉社のことらしく、その存在は比叡山を
崇めることを意味し、浅井氏が近江の中世的権威である比叡山と共存共栄
を図っていく政治姿勢を表したものと評価されたりしている。

つまり、何が言いたいかと言うと、

山王社があることの比叡山との関係、志賀の陣における比叡山と浅井氏の
関係、比叡山は東の麓・坂本の石工集団を登用して石垣を築いていた事。

これらを踏まえると、その石工集団が小谷城や支城の石垣を築いたとも
考えられるんじゃ…穴太衆と呼ばれる石工集団が築いた安土は矢穴がない。
小谷城や鎌刃城の石垣は矢穴がない。これらの石垣は同一の石工集団が
築いたとしてもおかしくないような気がする。

と、あーだこーだ理屈を並べてみたけど、あくまでも自分の推測で
あって、そんな本見つけてはいない。

この記事の最初の頃に、石垣の一部は秀吉のものと書いたけど、
上の逆説として浅井氏時代の石垣はなく、全て秀吉時代のもの?
と考えてもみた。

最近の発掘調査では、安土城より先行して小牧山城でも石垣が
セットバックで築かれていたことが分かってきているので、信長もそれなりに
石垣もしくは石積みを築く何かしらの術は持っていただろうから、
浅井氏滅亡後に入城した秀吉が小谷城に石垣を築いたと考えられる
のも頷けるかも。元々浅井氏時代は石垣がなかった?なんてね。
(かなり話が逸れてしまった…)

先ほどからここを枡形枡形と言っているが、ここの枡形虎口は
直進して入るタイプ。これ聞いて違和感感じる人多いと思うけど
普通、枡形虎口って、近世城郭で見るような門が二重に向きを
変えて配置され、導線に折れをつけているイメージ思い浮かべるよねぇ
(丸亀城とか名古屋城などの大手一の門・二の門で構成された虎口)
実際、上のようなイメージの枡形虎口は、小谷城では京極丸
山崎丸・福寿丸で見られる。(現時点で見ていないけど…)

そもそも、これまで小谷城で出てきた馬出・石垣という言葉が本などでよく従来
定義されているそれとは違うように思う。軍学言葉を無理矢理当てはめたのか?
と最初は思ったけど、もしかしたら狭義・広義の意味で述べられているのかも。
石積みだと思えるような遺構も石垣と表現するのは、広義の意味で石垣だとし、
土橋がない前面の削平地を馬出とするのも、広義で捉えられているのかも。
そう考えれば、この虎口が枡形虎口だと捉えられているのも納得できる。

直進して入るといっても、平虎口の脇が前面に張り出している感じ。
『凹』を頭に思い浮かべると分かりやすいかも。ヘコんでいる部分が枡形に
当たる。このヘコんだ部分が四角くなっているから枡形なんて名づけられた
んだろうなぁと思われる。が、その枡形感かなり分かりにくいので、納得する
のはもう少し進んだ先にある曲輪のイラストを見ないと難しい。

で、登ってみたらこれがかなり登りにくい。
このとき、子供連れの親子が通り過ぎて行った。
へぇ~子供連れてここまで来るとはなかなかやるではないかと感心してしまった。

この崩落した石は整備してこの状態なのか?
ある程度、黒金門や京極丸の虎口のように虎口だと分かるように
整備しなかったのは何故だ?破城が分かるようにと、このままにしたのか?
粋な計らいと思ってもいいのか何なのか。とにかく登りにくい。足を石が
ない場所に、ところどころ足をかける場所があるので、そこに足を置きながら
上へと登った。

上端にやっとたどり着き、そこから下方をなめてみた。
(なめるって言葉、映像業界の言葉だから分かりにくいかな)

IMG_1258.jpg

石段とは呼べない状態になっていて、むしろ石が登城の邪魔をしている。
そこからさらに馬出方面を俯瞰してみると、

IMG_1256.jpg
▲枡形虎口上端から馬出を望む

あれ~?20~30人詰められると思ったのは誤算かな。
この広さなら30~40人くらい詰められそうだな。と思ったけど、
よくよく考えてみたら、写真中央まで今上に登った曲輪の斜面が
下に続いているので、やっぱそこまで広くないかと思い直した。

さて、上に着いた後も北へ行く道が続いている。
行軍をこのまま続けた。

IMG_1260.jpg

この道にも石が転がっていて、枡形虎口の規模が伺える。
この位置は何があった場所か疑問に思った。門があった場所は
先ほどの上端にたどり着いた場所だと思われるから、この道は
そこから曲輪内に続く登城道の続きと考えるのが妥当なのか、
それとも後世造られた道か。

IMG_1264.jpg
▲山王丸2段目削平地

曲輪構成を述べていなかったけど、山王丸は一番南側にある馬出
含めて南北に4段の削平地が連なっている。馬出を1段目、以降2段目
3段目4段目と名づけると、今いる場所は2段目の削平地にいる。

ここも割かし広い。
ちょうど枡形虎口から直進して入ってきたところで、
次の3段目へ上がる虎口は左前方にあることが分かった。

侵入しづらいように食い違わせているんだなぁ~ここも。
中丸の構成がここと似ている感じだな。虎口を振り分けて
攻めにくくしている。

二段目は特に見るものもなく、ズカズカと奥へ進んでいった。

IMG_1265.jpg
▲山王丸三段目へ入る虎口

次の三段目へ入る虎口までやってきた。

で、次回山王丸三段目へと続く。



To Be Continued...



にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック URL
http://shirozuki.blog.fc2.com/tb.php/80-8054cccd



< /body>