#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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小谷城-26/山王丸③
#30 小谷城-26/山王丸 【小谷編】

山王丸の2段目まで上がるが、特に見るものはなく、
ズカズカと3段目に上がる虎口まで来た。

IMG_1265.jpg
山王丸3段目へ入る虎口

とくに石は見当たらない。この上に登ると、
山王丸3段目に出る。


山王丸

IMG_1277.jpg
山王丸3段目削平地

>山王丸
>標高約400メートルに位置する小谷城の詰の丸。南面に馬出を配し、
>鎌刃城(米原市)と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。
>南側の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して
>登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。
>南側正面の石垣の石は、小谷城でも最大の大きさを誇り、この図
>の裏に当たる東斜面には、今も大石垣が残っている。
(現説板より、一部追記)

>山王丸跡
>山王丸跡は四段からなり最頂部に山王権現(現小谷神社)が祀られていた。
>小谷城の詰めの丸と考えられている。小谷城跡絵図には山王丸から清水谷に
>向けて搦め手道が描かれている。
(立札より)

鎌刃城と同形態と言うのは、前回の山王丸②で述べた枡形虎口のことで、
導線が折れるタイプではなく、直進して入る枡形タイプを指している。

他の内容について順を追って遺構を確認していくことにする。
まずは、“虎口を二重に備える”という意味から記述していくと、
馬出(1段目)から2段目へ登る際の石が崩落しまくってた枡形虎口と、
2段目から3段目へと登る虎口を指している。

ただ、現説には“虎口を二重に備える”の前に“石垣で固められた”と説明が
加えられており、この記事最初の写真は虎口を指していないことになる。
(石垣で固められたのなら石が周りにあってもよさそうだけどないから)

じゃあ、2段目から3段目へ入る虎口はどれか?

それは最初に2段目から3段目へ入る虎口の左側を見れば分かり、
実際先ほど登った虎口の左には窪地が存在する。

IMG_1269.jpg
▲虎口の左にある窪地(従来の虎口)

ばっくりとエグられている。
これが2段目から3段目へと上がる従来の虎口
最初に登ったのはと言うと、多分後世に作られた人工的な道。

この窪地の上(山王丸3段目)から今来た方向(山王丸2段目)を見ると、

IMG_1275.jpg
▲従来の虎口を北より望む

奥に道らしきものが見え、こちらが虎口だと分かるようになっているが、
麓にある小谷城図(下図)を見る限り、最初に通った道が正式ルートのよう
に掲載されていて、ほとんどの人が後世作られたと思われる虎口から
3段目に上がってるように思われる。

sannnoumaru3.jpg
▲小谷城山王丸付近図(清水谷にある小谷城図から抜粋及び追記)

“現在の虎口”とあるのが、最初に通った2段目から3段目に上がる虎口で、
“従来の虎口”とあるのが、現在の虎口の左にある当時の枡形虎口の遺構と
考えられている。(上図の“従来の虎口”と白く囲んだ部分が凹んでいるの
分かるかな?)

従来の虎口に目を落とすと、石がチラホラ残っており、確かに石で
固められていたことが納得できる。

次は、“中央の曲輪には山王社を祀っていた”という表現。
小谷編のブログを始めてすぐに書いた小谷寺や前回の山王丸②でチラっと
出てきたけど、山王丸の名前の由来にもなった山王社がこの曲輪の3段目に
祀られていたことが分かっている。

山王社、正式には日吉<ひえ>山王権現社が祀られていた。
近江木間攫』には「山王権現 社二尺 当城内ニアリ 浅井三代ノ生土神ナリ
落城後小谷寺ヘ引移ス」とあり、また天正十九年(1591)の「称名寺文書」でも
山王の存在は確認できるところから、本当に存在していたと思われている。

山王丸②の記事で小谷城支城石垣比叡山穴太衆の関係などを
記述したけど、日吉山王権現社は比叡山の地主神・日吉社と考えられている
ことから、これを祀った理由を比叡山信仰と解釈して信長への反発の一つと
されているが、これは無理矢理当てはめただけ?の説なのかな。

曲輪のイラストを見るかぎりでは、その山王社が建てられていた場所が
今は使われていない従来の虎口から真っ直ぐ参道が続き三段目の削平地
の奥まった場所に表現されている。

IMG_1270.jpg
山王社と参道があったと思われる場所

やはりこの状態だと理解しがたいだろうから、写真を加工してみた。
(上と下の写真を比較してお読みください。)

IMG_1270-2.jpg

写真左下を白く塗った場所が山王丸の従来の虎口。ここから、奥へと
黄色の破線で記した参道が続き、その先に山王社がある。参道には
鳥居も表現してみた。(写真加工の際、なぜか木々の葉の色も変わって
しまった。あと鳥居と社殿小さすぎたか?)

今回の小谷城攻城前に麓の小谷寺に行っていたので、そこの一角にある
小谷神社を頭に浮かべながら、ポワァ~んと妄想してみるのも面白い。
頭に出てこない方へのために、小谷神社をここで掲載すると、

IMG_0491.jpg

これが麓にあった小谷神社。これを先ほどの曲輪に重ね合わせて…
なんて考えてみると、ここが特別な曲輪だったことが体感できる。
(体感てゆー表現はおかしいか。)

山王丸へ入る際、通った虎口は枡形であるものの、平虎口であったことを
前回述べたが、それは軍事的に導入したものではなく、極めて儀礼的な
城門空間として導入したものと考えられている。

山王社があることから、こういう結論になったのかは分からないが、
京極丸にあった枡形虎口は二重の門が備えられてものだとされている
から、今いる山王丸の枡形虎口とは確かに様相が異なる。
なので、儀礼的というのも納得できるんだよなぁ~

話が変わって、
現説にある“小谷城跡絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が
描かれている”というのは、これまでの記事に数回登場させた小谷城絵図
のことを指しており、確かに長浜城歴史博物館蔵彦根城博物館蔵の絵図
には搦手道が描かれている。ただ、これに書かれている搦手道は山王丸に
接続されているというよりは、一つ手前(南)にあった小丸に接続されていた
ように見える。小丸に久政がいたことを考えれば、脱出用の道?なんて考え
られなくもないかな…

ただ、滋賀県教育委員会の縄張図を見る限り、山王丸or小丸から清水谷
伸びている搦手道は描かれていない。“水ノ手道”と“清水谷から六坊まで伸びる
道”しか描かれていないので、最初の清水谷の記事で書いたように清水谷コース
として整備されている後者の登城道が、やっぱり搦手道と考えていいのかな?

最後に“小谷城の詰めの丸”という表現に触れたいが、
これは次回の山王丸④で扱うことにする。

次回、山王丸④へ続く



To Be Continued...



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