#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-2/多賀貞能陣地跡②
#39 虎御前山城-2/多賀貞能陣地跡② 【小谷編】

多賀貞能陣地跡碑があった古墳跡から矢合神社境内に向かって歩き出すと、
脇にあったプレハブ前に解説板らしきものが横たわっていた。

IMG_0728.jpg

あぁ、なんと無惨な光景だろうか。
どれどれ、よっこいしょと膝を折って裏を除くと、やっぱり現説板だった。
書いてある内容はというと、

>中野八景
>一本松古墳
>虎御前山は南北に長い尾根から成り立つ独立した丘陵です。尾根上には
>いくつかの古墳が点在しており、一本松古墳もその一つと考えられています。
>かつて古墳の上に一本の大きな松の木があったことから自然と「一本松古墳」
>と呼ばれ、その墳形から前方後円墳ではないかと言われています。
>虎姫町ではこれまでに、三川丸山古墳や五村遺跡等の発掘調査が数回行われて
>います。舶載鏡や円形溝墓など当時の生活を知る貴重な資料が多数出土しており
>県文化財保護課は、「弥生時代後半にはすでに大陸文化を吸収するような勢力者
>がこの地にいた」と発表した。ここ一本松古墳にもそんな時代の人物が眠って
>いるのかもしれません。

一本松古墳ってのは、さっきの前方後円墳を指すのだろうか。
それとも、この後の古墳を指すのか。古墳がありすぎてよく分からない。

その解説板を立てることはせずにそのまま元の姿に戻した。
北を向けば、目の前が神社になっており、鳥居まで来ていた。


矢合神社

IMG_0729.jpg

>矢合<やあい>神社
>式内社。平安時代の法典「延喜式」に「江州浅井郡八相山鎮座八相社」とあり、
>古くは八相社または八相大明神と称されていたことが考えられる。矢合神社が鎮座
>する虎御前山南尾根は、別に「八相山」と呼ばれ、織田信長が浅井氏の居城・小谷城
>攻略に備え砦を築いた。神社の主祭神は、水辺を司る神・葦那陀迦神である。この地
>は古から水利に恵まれず、境内社である岩上神社のいわれや世々開長者の伝説、義人
>清介<ぎじんせいすけ>碑など、水にまつわる歴史の祭儀が多く、人々の水を獲得する
>ための苦労とともに、水に対する感謝の心を偲ぶことができる。
(現地解説板より)

現説板には“水”にまつわるものが多いとあるが、境内には
読んで字の如く、“矢”にまつわるものが多い。

P1050542.jpg
▲弓矢の像

P1050543.jpg
▲社紋?

この紋、どこかで見たことあるけど…

近くにあった由緒記を読んでみると、先ほどの現説板と重複する内容も
あるが、それ以外にも記述があった。

>当神社には往古弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行い
>多くの矢が行き合うことになり矢合の文字を以って社名とせり。
(前後省略)

なるほどーそういうことか。
てっきり、読み進めていくうちに神事というよりかは戦が絶えず、
矢が飛び交っていたからなんて話に発展していくのかと思った。

他にも面白いことが書いてあって、これまでの記事に数回登場してきている
世々開長者の“せせらぎ”っていう字は水の湧き出ずる状を表わす語にして
村民篤く敬仰す。ってあるから、ほぉ~そういう解釈ですかーって思ったのと
やっぱり世々開長者ってゆー人は、伝説の人なんかなぁ~って想像する。

続いてある内容には、
>天正年間信長の小谷城攻戦の際戦禍に遇い多くの古文書逸散したるも
>現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれた
>道成寺のものを移築したものなり。

あぁ~焼き討ちの被害者なんですね、ここも。
信長公記読んでると、小谷周辺だけでもどんだけ~って思うほど焼き討ちしてる。
解説には天正年間とあるが、小谷城攻めは天正元年で終わってるので、
この天正元年で小谷周辺で焼討があったんだろうかと考えた。

ちなみにこの天正元年の1年前の元亀三年には虎御前山を信長は勢力において、
そして陣城(虎御前山城)を構築している。信長公記にはその年に小谷周辺を
放火とあるので、もしかしたら天正年間ではなく、元亀年間を指すのかもしれない。

で、境内に現存する鐘楼というのはこちら。

IMG_0730.jpg

道成寺のものを移築したとあるが、道成寺というのはこの後、
信長陣地跡に行くまでに通るので後述予定だけど、つまりこれ
が戦火をまねがれたってことはだよ。小谷合戦時に存在していた
鐘ってことで、もしかしたら信長もちらりと横目で見たかもしれ
ないよね?

(んなわけないか。)

奥へとズカズカ歩いていくと、拝殿とその後ろに本殿がある。

資料Ⅰにおいては、社殿の東西両側は土塁の痕跡だと見られる
土の盛り上がりがあるとあったが、確かにあった。

IMG_0745.jpg
▲社殿右(東)側の土塁痕跡

IMG_0746.jpg
▲社殿左(西)側の土塁痕跡

西側の土塁写真の奥には社殿が見えてるけど、
もしここが砦跡なら、臨時の建物があったかもしれず、その建物は
この社殿ぐらいの大きさぐらいでないと用をなさないと思う。
そう考えると、こんなに近接して土塁が築かれているとなると、
ちょっと身動きとりづらいんじゃ…って思うので、これ土塁跡では
ないと思う。

土塁跡なのかそうでないものかで感動するよりは、この神社で
見てもらいたい場所がある。それがこの次の写真の本殿。

IMG_0736.jpg

石燈篭、左右に狛犬。中央に本殿。
この神社は江戸時代に建造されたとあり、この本殿の彫刻は
長浜の曳山を手がけている藤岡和泉氏の作だとされている。
(ちなみにこの人、後々すごい人だと知る。後述予定)

IMG_0738.jpg

どーですか?この彫刻。
そりゃ~東照宮や奈良・京都の社寺には負けるかもしれませんが、
滋賀でもこんな外れにある神社境内のこの本殿にこういった彫刻
が見れるのってスゴいと思いません?



To Be Continued...



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