#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-3/八相山
#40 虎御前山城-3/八相山 【小谷編】

矢合神社社殿左脇にあった土塁の左隣には記念碑があった。

IMG_0733.jpg
▲虎御前山縦走道路開始端

右脇の石碑に“史蹟○虎御前山縦走道路”と書かれている。
おぉー縦走!!ここから出来るのかぁ~
(○の部分は何て書いてあるのかよく分からなかった…)

縦走記念碑の側面には、“虎姫中学校勤労奉仕”と
“紀元二千六百年記念”が書いてある。

紀元2600年を記念して昭和15年に虎姫中学校の生徒が奉仕した
ということだが、整備したということだろうか…

ここを登ること約20秒。

IMG_0748.jpg

あ、あれ?車道に出たんだけど…
てっきり、縦走路とあったから、山道が続くのかなぁ~と
想像していて、ちょっぴり拍子抜け。

昭和15年にあの縦走道路碑が建てられたんだったら、
当時よりこの虎御前山も様変わりしてるんだろうな。

つまり、当時は山道だったけど、今では舗装された立派な道に
変わったんじゃないだろうか。昭和15年って言ったら、自分が
生まれる40年以上も前だもんなぁ~

地元の人は詳しいだろうから、何か知ってるかもしれないけど、
特に周りには民家等ないので聞くわけにもいかない。そもそも、
突撃訪問して、そんな事をいきなり聞く勇気はない。

この車道が麓から登るときにあった車道になるので、
ここで合流することが分かる。

下方を見てみると、

IMG_0749_20120425122252.jpg

ばっくり山の尾根を削りとった感じ。
もしかして当時はここ堀切だった?なんてことを思わせるように
なっている。よく城跡行くと、堀切の底辺が車道または歩道に
なっていることがあるので、ここもその類い?なんて考えた。

でも逆にそういう各地にある“ここは元々堀切だった”なんてある
話は、本当なの?という疑問はある。いつもブログで疑うようなこと
ばっかり記事にしてるけど、実際見たことあるのか?開発時の様子を
知ってるのか?と思ってしまう。後付けじゃないの?なんてね。

別に全てを疑ってるわけじゃないよ。地方誌読んでると、昔は土塁
あってもあって、でも開発で消滅して写真はなく、記憶を地元の人
たちが語り継いでるなんて話も見たことあるから、本当にそういう事も
あるだろうなぁ~とは思う。後、最近開発されたなどの場合とか。

話が逸れすぎた…元に戻すと、
さらに奥には何やら見える。ここで少し車道を下りてみた。

IMG_0752.jpg

おせじでも冠木門とは言えない…あっ、いや別にこれが
模擬されたものだなんて誰も言ってないんだけど。

上の方に書いてある文字読めるかな?キャンプ場って書いてある。
この虎御前山、実はキャンプが出来るようになっていて、後々行くけど、
コテージ?みたい宿泊施設まである。この時はオフシーズンもあってか人は
いなかった。今回の城攻めは当初のプランではこのキャンプと合わせても
いいかなーなんて思ってた。キャンプとしてくればこの虎御前山城を充分
楽しめそうな気がする。元亀3年から天正元年の1年間の間にタイムスリップ
してみて陣城に詰めていた織田軍の気持ちになってみるのもありだよねぇ。

というわけで、次回来るときはそうしてみたいな♪
なんて乙女な言い方で願望を吐露してみた。

この門の脇には次の目的地への案内がある。

IMG_0753.jpg

そうそう、お次の陣跡は“蜂屋頼隆”さん。
100メートルって、案外近いな。

くぐり抜けて、最初に分岐道が現れた。左を登ると“テントサイト”。
右に進むと、“管理棟・宿泊棟、テントサイト”とある。

いや、これじゃどっち進んでいいか分からないよと内心突っ込みながら、
直感に従い、右(真っ直ぐ)に進んでいくことにした。

すると、また分岐道が現れる。

IMG_0756.jpg

またかよ。選択肢多いなぁ。

と、ここまでを今回の行軍記事にして、ちょっと虎御前山の歴史を…

虎姫館の記事から一環して、織田信長VS浅井長政小谷合戦にばかり
触れてきてはいるけど、この虎御前山はその時に信長が虎御前山砦を築く
前に歴史の表舞台に立っている。

これまでの記事を読んできた人なら、あぁ古代の話?さんざん古墳出てきた
もんねぇ~と思うかもしれない。確かに合っているけど、その時代の事は
よく分からないのでパス。(いや、次の話もよく分かっていないんだけど。)

信長VS長政の小谷合戦、それよりも前に戦いが繰り広げられている。

南北朝時代に“八相山の戦い”という足利尊氏足利直義がこの虎御前山で
戦をしている。虎姫駅で頂戴してきたハイキングマップ(以降、資料Ⅱと称す)には、

>室町幕府で二頭政治を行なっていた足利尊氏と弟の足利直義との間に不和が
>生じ、内部紛争が起こります。観応2年(1351)夏、尊氏軍と直義軍が八相山で
>戦を交え、破れた直義は敦賀へ逃れました。翌年尊氏に降伏しましたが、その
>直後謎の死を遂げています。直義の死は尊氏による毒殺説が有力です。

とある。が、この時代の事は無知に等しい。
なので、こんな戦い虎御前山を調べるまでは全く知らなかった。
(ご存知の方すみません。大げさに表現してしまいまして。)

前回の記事(多賀貞能陣地跡②)で触れた“矢合神社”。
その現地解説板を全文載せていたが、それには多数“八相山”の文字が
出てきていたので、もしかしたら気づいていた人はいるかもしれない。

八相山は虎御前山南尾根の事を指し、今いる場所に当たる。
地元では虎御前山を、“中野山”別名“八相山”と呼んでいるらしい。

前々回の記事で虎御前山~横山間の軍用道路を触れたとき、明記は
しなかったけど、信長公記の元亀3年の項に、

>虎ごぜ山より横山までの間三里なり。程遠く候間、其の繋ぎとして
>八相山・宮部郷両所に御要害仰せつけらる。宮部村には宮部善祥坊
>を入れをかせられ、八相山には御番手の人数仰せつけらる。虎後前山
>より宮部まで路次の一段あしく候。
(信長公記現代語訳原文巻五より抜粋)

とあり、八相山という文字が複数出てくる。

というわけで、ここは別名“八相山”と呼ばれる場所で
南北朝時代に激闘?が繰り広げられた場所。

尊氏軍10000 VS 直義軍20000

だったという。数的には直義軍が勝るのに、敗走しているから
戦術的に負けたんだろうか。このとき尊氏軍の主力を成していた
のは、佐々木導誉という人物で、別名“京極高氏(導誉)”。

小谷城浅井氏京極氏の被官なので、ようやくここで自分の
守備範囲につながった。佐々木京極氏は近江の地頭で尊氏に仕えた
導誉が勢力を拡大している。

この戦いも含めて、近江では足利内部の抗争が繰り広げられ、
この時代に多くの城砦が出来たとあるから、この八相山にも
その時から小規模ぐらいの砦があったんだろうか。

太平記』には南北朝頃に南朝側の高倉入道左兵衛督が籠ったと
日本城郭体系にはあったので、確かに砦的なものはあったかもしれない。

この後起こる小谷合戦時で、ここより高い標高に虎御前山砦が築かれて
いくことを考えると、この南尾根のまだ標高が低い位置が舞台というのが、
まだまだ発展途上段階を示しているようで、何か自分としては面白く感じた。




To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント
こんばんぬはっす(^^)/
確かに、城攻めしてたら、堀切なのか、そのように見せているのか分からないことがあります。
やっぱり縄張り図とか持参して登城しないとな…(^_^;)

一つの地で時代を変えて幾つもの戦の場になってますね~自分の好きな地で起こった戦について学ぶのも楽しいですね(*^_^*)

そうかぁ~虎御前山はキャンプ場なんだ…
城好きでコテージ借りて、夜に松明の日だけで語ってみたい(●^o^●)
[2012/04/27 21:57] URL | 流星☆ #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし
こんばんぬはっす( ゚▽゚)/
城跡でキャンプいいですよねぇ~
虎御前山なら、浅井氏を攻めた織田軍の気持ちを
味わえると思うんですよ。他の山城でもいいと思うんですよね。
寝袋とかで敷地で泊まりが許される場所ならいいかなぁ~
なんて。テントだと保護?の類いに引っかかるのでダメだと
は思うんですが…
[2012/04/27 23:10] URL | #oshiro #- [ 編集 ]


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