#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-5/岩屋寺
#42 虎御前山城-5/岩屋寺 【小谷編】

蜂屋頼隆陣地跡とされている場所から北へ行くと、
何やら物見台が聳え立っている。

IMG_0768.jpg

と言っても、現代のもので往時のものを意識していない。
この上には外からでも上がれるようになっていたので、迷わず
階段を使って登ってみた。(この建物もキャンプ施設の1つか?)

北と南、交互に覗いてみた。

IMG_0773.jpg

まずは南。先程の蜂屋頼隆陣地跡と言われている古墳(写真奥)が見える。
その北にある写真手前の平坦地はテントを貼ったり、レクリエーションが
出来るようにならされてしまったんだろうなぁ~と思われる。

往時も野営するようなテント的な類いが建てられてたのかも…
とか色々考えつつ北側を向く。

IMG_0775.jpg

北側には、ちょうど今いる虎御前山に聳え立つアンテナが高楼っぽく見える
その下あたり(写真中央左)に見える建物が次に行く丹羽長秀陣地跡

尾根が北へ北へと続いていく様が見て取れる。
虎御前山の奥に薄く見える山が小谷城がある小谷山

おぉー対峙している緊迫感がヒシヒシと伝わってくるー
もっと北側の陣跡へ行けば、その感覚がもっと大きくなっていきそうだ。

こちらから見えるということは、逆にあちらさん(浅井方)からも見える
というわけなので、ここら辺の陣所まで見えたんだろうなぁー当時は。

浅井氏について書いた最近の本は、ほとんどが『信長公記』の内容から
戦いの推移が書かれているので、本によって劇的に差があることはない。

その信長公記に沿って、元亀元年(1570)にタイムスリップすると、
最初に信長小谷城に迫ったのは、6月21日のこと。

虎御前山の築城開始は、元亀3年(1572)7月27日なので約2年もの差がある。
この元亀元年時は、虎御前山に一夜陣を敷き、小谷周辺の町々を焼き回ってる。

つまり、今の写真の麓あたりが焦土と化している状態なのかな。
そして、モクモクと煙が辺りから上がっているのを想像してしまう。
今は空がモクモク状態なんだがね。

この一夜陣を敷く時に、特に戦闘があったことは書かれていない。って、あれ?
前回の記事で記述したように赤尾氏なのか井口氏なのか誰が守っていたか
不明なところが多いけど、虎御前山の南尾根には八相山城が構えられていたはず、
そこを守備していた浅井方の軍はどこ行っちゃったんだろ。織田軍が進軍してくる
や否や小谷城へと籠っていったのだろうか。

この段階で織田方の狙いとしては、浅井氏を野戦に引きずり出そうとしているが、
浅井氏はそれに呼応して城を出てこないので、信長は転進しようとする。
(小谷城は比高が高く、力攻めではすぐに落とせないことから、横山城などの
浅井氏支城に挟み撃ちされるという恐れがあるというのが、この転進理由で
よくある話)

その転進の際に、織田軍はおしりを浅井氏側に向けることになるので、今度は殿戦が始まる。

焼き討ちされていた時は、出て来なかった浅井氏が一転、転進していく織田軍の
ケツ目がけて、攻撃をしかけているところを見ると、セオリーどおりの戦闘をしてる。
東北の関ヶ原・長谷堂城の戦いで言うと、東軍大勝の報がもたらされた後の兼続
殿軍長谷堂城主・志村氏(最上側)の構図。

信長公記には、「八相山の宮の後で戦い…」と見られるので、前回までに行ってきた
矢合神社・成道寺の場所を指すと思われるが、ちょうど今見ている小谷山からここに
張っていた一夜陣から敵兵が引いていく姿が見えたんじゃないかなぁ~なんて妄想。
人1人ダニやノミに見えても、大軍になればそれなりに動いてたことが分かるよねぇ。

で、この後織田軍は24日に竜ヶ鼻(横山城がある山のさきっちょ)に着陣し、横山城
包囲を経て、姉川合戦を迎えていき…(これ以上は話が脱線しすぎなので止めておく)

物見台から下りると、フェンスに囲まれた一画(確か鉄塔があったと思うんだけど
記憶があやふや)があり、ふと注視すると、

IMG_0781.jpg

面白い看板があった。山の上が削られてならされてるの分かるかなぁ。
コレ古砦図をモチーフにして描かれてるね。

P1050484.jpg

虎姫館にあった古砦図と比較してみると、虎御前山を見ている方角が
同じだし、上に築かれた砦も同じ。

こんな遊び心を発見するのが城攻めの楽しみの1つでもあったりする。
勝龍寺城では、テーブルと椅子で九曜紋が出来てたのを見てニヤニヤ
してたなぁ。あぁ~ここは家紋をモチーフにしてるのかって。

そこから北へ進むと、キャンプ場の施設と思われる建物が右に確か
1棟建っており、その間を通り過ぎると、小さなお堂が見えてきた。


岩屋寺

IMG_0785.jpg

資料Ⅰには、蜂屋頼隆陣地跡周辺に成相寺址の石柱と岩屋寺
誌された小祠堂が建つとあったが、これが岩屋寺に当たる。

成相寺址の石柱はどれだろう?と探してみたが、このお堂前にある
弘法大師”と書かれた石碑しか見当たらない。

IMG_0784.jpg

うん?四国八十八之内四十五番札所?なんでここにあんの?
と思いながら、中に入ってみると、

P1050551.jpg

こんな感じ。真新しいなぁ~と思ったら天井の柱に、
“奉上棟 平成二十年十月吉日 棟梁 横田 勉”とあって、
ごくごく最近に建てられたものだと分かる。資料Ⅰって、そんな新しくないけど
記載されていたってことは、これが建てられる前からも岩屋寺はあって、最近
建てなおされたってことなんかな。

P1050552.jpg

写真が飾られていて、四国霊場代四十五番“岩屋寺”と書かれている。
中央の写真は岩屋寺の大師堂で、一番左は御朱印?のようなもの。
この四国の岩屋寺は弘法大師が開基しているので、お堂の前に石碑が
あったのか。

さて、ここは注目する場所でもないし、よく分からない場所だから
先を急ぐことにした。

もう少し歩けば、丹羽長秀陣地跡。先ほどの蜂屋頼隆陣地跡から
丹羽長秀陣地跡までにも小砦があったことが古砦図を見ると分かり、側に
ニ拾三とあるので、23個もあったのかぁ~なんて歩いてみた。実際、それも
古墳の跡なんじゃないかなぁ~とは思うけど。

元亀年間まで遡れるなら、遡ってみたい。
昔、戦国時代にタイムスリップしてみたいなぁ~って友人に話してたら
死にたいの?なんて切り返された。あんな時代生きていけないでしょ?って。
確かに…そうなんだけどそうじゃなくって。

で、話を6月21日に戻すけど、ここからはまたもや推測で、
虎姫館や虎姫駅に置かれていた虎御前山の絵には、このお堂が建っている
場所から東西に抜ける道が描かれている。東には“小関坂”という名前がある。
古砦図には、蜂屋頼隆陣地跡(実際は家康公と書かれている)の北から麓に
向かって道が下りている。もし、この記事の中盤で書いた殿戦があったのなら、
浅井軍はこの道を駆け上がってきたんではないだろうか。

ちょっと、これじゃあ自分の考えたことが分かりづらいと思うので
可視化してみると、

元亀元年
▲虎御前山図(虎姫駅にある図に追記)
黄色の破線…小関坂
○で囲んだ部分…お堂
①…浅井軍追撃隊の進路
②…織田軍撤退路

こんな感じ。全くもって想像ですけどね。

これなら殿戦を想像出来るけど、別に八相山を降りてきた織田軍を浅井軍は麓で
蹴散らせばいい気がするんだけどなぁ~このときまだ軍用道路ないはずだし。



To Be Continued...



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