#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-6/丹羽長秀陣地跡
#43 虎御前山城-6/丹羽長秀陣地跡 【小谷編】

岩屋寺のすぐ北にキャンプ用の施設があり、お堂から
すぐの場所に位置する。

IMG_0786.jpg

写真を見て分かるように、かなり改造されていて山城の面影がどこにもない。
中央の階段を登って行くと、虎御前山キャンプの中央管理棟が見えてくる。

IMG_0791.jpg

この階段もテクテク登る。雨天時にも様々な活動ができる多目的スペースを
備えたUFO型の管理棟が眼前に聳え立つ。ドラゴンボールで悟空がナメック星に
向かう時に乗っていた宇宙船みたい。

P1050554.jpg

猿ですか。別に“本日”と書かなくてもよかったんじゃないだろうか。
今日は9/29ではないし。とりあえず、これから行く人はご注意をば。
虎御前山には猿がいるようですぞ。ちなみにこの日は出逢いませんでした。
もしかしたらこの後に行く羽柴秀吉陣地跡で出るのかもしれません。

IMG_0792.jpg

この丸みを帯びた盛土。懸造りチックにこの建物を建てたのはなんでだろう?
均等にならせば、こういう風に建てずに済むものをならさなかったのには何か
ワケがあるのだろうか。先程の階段での踊り場と言い、これも古墳の跡と
言わんばかりの様相。

で、左隅にちらりと見える階段を登ると、

IMG_0793.jpg

あぁ、中は広場になっているのか。外からじゃ気付かなかった。
ここでキャンプした子らが遊べるようにちょっとしたスペースを
構えているのかな。


丹羽長秀陣地跡

IMG_0795.jpg

>丹羽長秀
>尾張
>天文四年(一五三五)~天正十三年(一五八五)四月十六日
>天文十九年(一五五O)頃から織田信長に仕える。
>永禄十一年(一五六八)九月の上洛に従い、六角氏の近江箕作<みつくり>城
>を攻略した。元亀元年(一五七O)の姉川合戦後は、佐和山城攻めを担当し、
>翌年浅井氏の将磯野員昌<いそのかずまさ>を降して佐和山城主となる。
>元亀三年(一五七ニ)の江北出陣では、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆ら
>とともに小谷の町を破り、虎御前山に陣を構えた。以後も織田信長の戦い
>にほとんど従軍し、戦功をあげている。また大船建造や安土城普請の総奉行
>を務めるなど技術官僚としても有能であった。
>天正十年(一五八ニ)の本能寺の変後は、羽柴秀吉とともに明智光秀を討伐、
>その後近江高島・志賀の二郡を得た。
>天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳合戦後は、柴田勝家の旧領が与えられ、
>越前北ノ庄城主となる。

現代の世で、築城の名手と謳われる長秀さんの陣地がここ。
信長公の居城、小牧城・岐阜城・安土城普請に携わってきている。
そんな人がここに陣を張っていたのは、伝承だとしてもかなり有力な
場所なんではないかな。

ちょうど中間に位置し、北と南にも目が配れる場所に長秀が陣地を
構えていたとしたら、虎御前山城でも同じく普請の陣頭指揮を取って
いたんじゃないかなぁ~

信長が築いたとされるこの虎御前山城。普請奉行が誰だったかまでは
調べてきれていないが、この丹羽長秀さんだと考えたら面白い。

米五郎左”と歌われるように、各陣地へ普請作業の指揮を取りに
せっせと足を運んでいる姿を想像してみた。

資料Ⅰには、南側に長さ約14.4メートル、高さ約90センチの土塁
長さ9メートル、幅約5.4メートル深さが1.8メートルの凹地が残ると
あったが、それらしいものは見当たらない。

分かるのは、これまで見てきた蜂屋頼隆陣地多賀貞能陣地よりは
広いってこと。どこからどこまでがですか?って聞かれたら、答えられない
けど、この一帯が陣地跡なのなら、それなりに大きい気がする。

IMG_0802.jpg

これは土塁の跡だろうか。左右に見える建物が、この地形に合わせて
作られているところを見ると、これ元々あったんじゃないだろうか?
とすると、これ往時の遺構なんじゃないかなぁ。

とはいえ、この陣地跡は今まで見てきた2つの陣地跡よりも改変されて
いることは否めない。丹羽長秀さんの陣地であったことから、それなりに
立派な防御施設が構えられていたんじゃなかろうか…

さて、ここからの眺望はというと、今まで木々で視界が遮られていたが、
ここに来てようやく麓に目を落とせるようになってきた。

IMG_0800_20120501122506.jpg

南東側は穀倉地帯が広がっている。
虎姫駅からの行軍で、何度か記事に書いてきた世々開長者の民族伝承
にあるように、水の便は元々悪く、田植え時には雨乞いをするようだった。
今、こうして緑の田園風景が見られるのも伝承に見られる高時川からの分水
のおかげだと思われる。(ちなみに写真の中でかすんで見える低い山が横山で
その先、センター左寄りが姉川合戦地の場所。)

この取水工事は井口氏が高時川を支配していた時の話なので、浅井氏の時代
に直結する。何の本で読んだかまた忘れてしまったが、この一帯の穀倉地帯
を浅井氏が治めていたものの、信長との戦で虎御前山まで詰め寄られると、
この虎御前山付近から兵糧としての収穫が得られなかったのも敗因の1つだと
あった。

往時も今も、あまり変わらない景色が望めることに感動。

IMG_0809.jpg

キャンプ施設は南北に3棟の建物が連なっており、最北端の建物までやってきて、
ふと脇を覗いてみたら、おせじでも切岸とは呼べない高低差があった。最南端で
見た建物同様、懸造りチックな様相を呈している。一段下がった場所は、犬走り
腰郭的なものだろうか。

そう思いながら、次の陣地跡へと足を向けた。
と、その時前方にこちらを見ている動物が…

IMG_0808.jpg

俺を次の陣地まで導いてくれるって言うのか?

コラ、待てーーーーーっ!!



To Be Continued...



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