#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-7/滝川一益陣地跡
#44 虎御前山城-7/滝川一益陣地跡 【小谷編】

丹羽長秀陣地跡を後にし、ワン公のオシリを追いかけながら、次の陣地後へと
歩いて行く。100メートルくらいは平坦な道が続き、東側の眺望が優れていた。
前回記述したように穀倉地帯が広がっている。

IMG_0818.jpg

写真の通り平坦な道から上り坂へと変わる。
ここから車はNG。側には杖が置かれている。前に小谷城へ行く時に
通った虎御前山北側の登り口にも杖が置かれていたのを見たので、
ここから1本頂戴し、北側に返すのもアリだけど、荷物になるので
止めておいた。

先ほどのワン公は見失ったが、虎姫無線中継所まではしばらく舗装した道路を
歩き、この場所からは3回のクランクの後、次の陣地跡へとたどり着く。

途中、この舗装路から信長道秀吉道という道に分岐するらしいのだが、
どこからどう入ればいいのか分からなかった。『長浜み~な』にはその道が
道無き道と表現されていたことから、もし自分でも行けそうな道なら…という
安易な考えだったが、登山の猛者でもないし、一人なので止めておいた。

IMG_0823.jpg
▲舗装路から西側斜面を見下ろす

秀吉道があるという方向を除いてみると、歩けなくもない道?が
あるにはあるけど、度胸がないせいか舗装路から眺めるだけに終わった。

IMG_0828.jpg

そうこうしているうちに中継所が見えてくるけど、まぁ写真じゃちと
分かりづらいですよね…
道の左右にはいつからか盛り上がった状態になっていて、最初の頃は
なかったけど、いつのまにやら山を削ったような道を歩いていた。
3曲りしかないけど、これは登城道でもあったんだろうか。
左右に見える部分はところどころ凸凹している。

中継所まで来ると、石碑がポツンと立っているのが見えた。
ここから秀吉道に行くと、あまり見る人がいないという大木戸堀切
というものがあるらしいが、これまた度胸がないので行かなかった。
古砦図には木木戸堀切と書かれている。

また、この鉄塔付近に福島正則陣地跡があると何かで調べていたが、
どこからどうやって行くかここも全く分からなかった。もし、あるの
ならリベンジしたいが、古砦図には福島の福の字すら出てこない。
まぁ福島正則の活躍はこれよりも後だから大将格として陣地を敷く
なんて到底考えられない。何かの間違いだと思いたい。

さて、まずはその碑へと足を運んだ。


滝川一益陣地跡

IMG_0837.jpg

>滝川一益
>近江甲賀町大原の人。父は一勝。幼年から鉄砲を稽古し、達人と言われるほどの
>腕をもっていたが、一族内で問題を起こし国を離れる。その後信長が美濃斎藤氏
>を攻める際にその家臣となる。若き頃の一益は、信長四天王の一人といわれその
>出世は早く、信長の勢力拡大とともに、その部隊長として各地に転戦する。元亀
>3年(1572)の小谷城攻防戦では、信長に属し虎御前山に陣を構えた。さらに長篠
>合戦や武田氏討伐等においては、射銃の腕をいかし、先鋒の大役を務めている。
>その後一益は手柄により関東を管領して上野国厩橋城主となった。しかし、本能寺
>の変後はつきがなくなったのか北条氏に敗れ、本領の伊勢長島に逃げ帰っている。
>賤ヶ岳の合戦では勝家についたが敗れて秀吉に降伏。その後小牧の合戦では秀吉方と
>して家康に敗れ、秀吉の怒りをうけ京都妙心寺で出家。越前大野に引退した。天正14年
>(1586)、62歳で逝去。茶人としても知られている。不運な後半生をおくった近江の
>武将である。
(現地説明板がなかったので、虎姫館の解説より)

ここからは今までと打って変わって、石碑の横に現地解説板がなかった。
この碑のみが、ここを滝川一益陣地跡と示してくれているのみ。

この石碑の隣にある木には“ウコギ科タカノツメ”と書かれた札が
掛けられている。鷹の爪かぁ~とか、またくだらないこと考えながら
付近を散策してみた。

資料Ⅰでは、石碑近くに1.8メートル~2.7メートルほどの土饅頭(古墳か)が
3つあるだけで、一面藪におおわれ、十分な砦跡の判別が難しいとあったので、
さほど期待はしていなかったが、時期的に藪などが一切なく、見て回れることが
出来た。ただ、『長浜み~な』に掲載されている写真と比べると大分姿が変わっている。
木があまりにも少ない。その理由はまた別の記事で書こうと思うのでここでは省略。

とにかく、ここの陣地跡は“土饅頭3つと削平地”っていうのがポイント。
コレ以外はない。というのもNTTの鉄塔が建てられていて、大きく改変されている。

IMG_0841.jpg
▲NTT鉄塔

虎姫館では電波塔付近で採取した茶臼(茶磨)が展示されていた。電波塔付近と言うのが、
このNTT鉄塔だったら面白いなぁーって思う。滝川一益が武田氏滅亡戦の後に信長公に
珠光小茄子」という茶器を所望したが、結局もらえずに上野の地をもらうという逸話が
あるけど、解説にあるように茶人だった滝川一益の陣地側で遺物が見つかるのは面白い!!

この鉄塔を横目に西側へと入っていくと、たんこぶのような土饅頭が
3つほどある。その3つは、さほど規模に差異があることはなく、
単に高さが少し違う程度。

IMG_0856.jpg
▲真ん中の土饅頭から北の土饅頭を望む

規模はこのぐらい。写真じゃ分かりづらいけど、何て表現したらいいだろうか。
駅のトイレぐらいの大きさかな。いやもうちょっと狭いか。

ギューギュー詰で15人くらいが上に立てるぐらいかなぁ~
当たり前だけど、ギューギュー詰でいるのはありえないので、ここには
建物は建てられなかっただろう。もし仮に建てられていたとしても、
先ほどトイレに例えたように、仮設トイレくらいしか建てられない。
とかアホなこと考えつつ、これじゃ床几で座ることしか出来ないんじゃ…
その周りにお付の人がいてってくらいの広さなんだよね。

床几も最初は儀礼的な時に使われてたらしいけど、室町桃山になると、
陣地では多く使われていたらしい。あの仙石秀久ですら床几に座って
いたようだから、ここにいた滝川一益もでーんと座っていただろう。

陣城だったことから持ち運び便利な畳床几だったのかなぁ~とか
座っている姿を妄想してみた。あ、床几は腰掛のことで畳という
のは折りたたみ式のこと。今ではよくアウトドアで使うような
折りたたみ式の椅子だと考えてもらえれば大丈夫です。

さて、次の陣地へ行こぉーっと思って歩き出したその時、
ふと立て札があることに気づいた。お、現説か?と思って覗くと、

IMG_0858.jpg

あ、そう。古墳群という看板かぁ…
知っていたから、大して大きな発見ではないことに残念だったが、これにも
色々と思うことはある。この木札については後の記事で記述しますのでここ
では省略。

この位置から先ほどの土饅頭(墳墓)を見ると、3個連なっていることが
分かりやすい。

IMG_0857.jpg

と言っても、やっぱり写真じゃ分かりづらい。
うーん、山城って写真じゃ伝えにくいシロモノだなぁ~

ここからは

IMG_0859.jpg

舗装道は終わり、このような山道が奥へと続いていく。
すると、先ほど木札でみていた縄張図?もどきで見られる堀切まで来た。

IMG_0862_20120518220508.jpg

堀切と言ったものの、これも古墳跡の窪地だな。
先ほどの木札で確認すると、

takigawa01.jpg
▲木札にあった滝川一益陣地跡図(加筆及び上下入れ替え)

今の進行方向に合わせて、絵をさかさまにしてみた。
Sが南、Nが北。今は南から北に向かって進んでいて、下側に見える
3つの丸で書かれた場所が先ほど見てきた土饅頭。その右には虎口
と思われる開けた箇所がある。そこから堀切と指した場所まで来た。
それが1つ前の写真。見て分かるようにその堀切と指した場所の北地は
土饅頭の形をしている。だから、これも古墳群の1つだろうね。

なんか城を見に来たというよりは古墳を見に来たと思っていいほどの
古墳数。あははははは…




To Be Continued...



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