#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-9/堀秀政陣地跡②
#46 虎御前山城-9/堀秀政陣地跡② 【小谷編】

横堀・竪堀を伴う土橋を渡ると、次に待ち受ける遺構は、前方後円墳
開削した郭郡がここより北側にあり、その前面つまり南面に塹壕堀切
というものが配されている。

※麓の虎姫館にあった城郭原図を本記事以降、資料Ⅳと称す。

IMG_0901.jpg
塹壕堀切を右横から望む

資料Ⅳには、
>塹壕堀切とは
>堀切の土を敵方に積み上げ、攻撃する側の防御に使う
と書かれている。

こういった名前の遺構、ここが初めてなんだけど、塹壕っていうのは、
よく戦争映画でも描写されていて兵隊が戦場で鉄砲を持って走っていたり、
伏せたりしている堀を表していて、アニメでも鋼の錬金術師の戦争シーン
で描かれていることから一般的には認知されているけど、意識しないで
見ていることが多い。城に至っては、こういった郭内に小規模で存在して
いたりするんだねぇ~

他の城でも小規模な堀切の所で、こういった内容と類似した内容をたまに目にする。
賤ヶ岳砦なんかも、そういった説明がある城の1つ。

ここに城兵が身を潜めて、攻めてきた敵兵に射撃する。
正直、その用途にしては堀の深さがあまりにも浅いのでは?という気がする。
鉄砲も銃身が長く、とてもじゃないが全ての所作を身をかがめて行うことは難しい。
弾込めする時には、必ず立たなければならず、今のSATや警察のように
伏せて撃つことなど到底出来ない。弾込めが終われば、スナイパーの
ように寝そべって撃つことは可能だろうけど…

本当にこういった用途で使っていたんだろうか?
もしかしたら、この凸地の上に盾とかでも配備していたんだろうか。

ただ、資料Ⅳを観る限り、この塹壕が向いている先は奇しくも先ほど
通ってきた土橋を向いている(上の写真で言うと、左方向に土橋がある)。
つまり、ここから先ほどの土橋を通ってきた敵兵に一斉射撃を食らわして
やることが出来るという解釈なんだろう。

ただし、野戦における陣地内の塹壕には別の用途もあり、それは出撃用のものということ。
つまりは敵に対して姿を露出させずに攻撃へと発進するために身を隠す塹壕(仕寄)として
使われ、何もここから必ず攻撃しなければならないと決まっているわけではない。
要は待ち伏せと解釈すればいいのかな。敵が近づいてきたら、ここから出撃して倒す
みたいな用途だったのかもしれない。

と考えると、ここまで浅いのも納得がいく。

IMG_0903_20120523204618.jpg
馬出(手前の木がある場所、奥はこの陣地跡最高所)

その塹壕北側に今度控えているのが、資料Ⅳで“馬出?”と記されている場所
であるが、?と書かれていることから、ただ単に名前を付けた遺構かもしれない。

IMG_0904_20120523204617.jpg

秀政陣地跡最高所は、馬出の脇から登れるように整備されている。
ここを登ってみると、

IMG_0910.jpg
▲後円墳にある石碑

石碑があるが、滝川一益陣地跡同様解説はなかった。
虎姫館で見た肖像画が、面白い顔をしてたのが印象的だったお人。

>天文22年(1553)美濃に生まれる。堀家は斎藤氏に仕えていたが、秀政13歳のとき
>信長に仕える。元亀3年(1572)の小谷城攻防戦において虎御前山に陣を構え、信長の
>命で朝倉氏に決戦を申し入れる使者となる。その後も信長に従って各地を転戦。
>天正6年(1578)頃信長から近江坂田郡の知領を与えられ、秀吉のあと長浜城主となる。
>天正10年(1582)、秀吉が中国征伐の援兵を要請したとき、信長より派遣され、そのまま
>秀吉に属し、山崎の合戦では先鋒を務めた。さらに賤ヶ岳の合戦でも戦功をあげ、近江
>佐和山9万石を領する。天正13年(1585)、越前北ノ庄城に移封、同18年(1590)の小田原
>征伐陣中で病没。38歳の若さであった。
(虎姫館より)

虎御前山南側から最初にあった陣地は多賀貞能がいたが、この人の婿養子に
行っているのが、堀秀政の弟・秀種。一緒に虎御前山にいたのかなと思った
けど、秀政は小谷城攻めの時は20歳。秀種は秀政より12歳下なので、この時8歳。
なので、弟は陣中にはいなかっただろうね。

20歳の頃はというと、今じゃ大学生になりたて。浪人してなければね。そんな年の時に
戦場へ繰り出していたんかぁ~と思うと、なんか今の世の中幸せだなぁ~って思う。

ちなみに龍馬さんは、19歳のときにようやく土佐を出て、江戸に剣術修行に行っているから
どちらかというと、自分達の時代に近い。

話が前後してしまうけど、多賀貞能のお父さんは多賀貞隆という人で、元々は京極氏の被官。
しまいには六角氏に寝返ったりして、浅井氏と六角氏のいざこざが起きて、六角氏の先鋒として
佐和山城を攻め落としていたりする。そんな人の子供がいつの間にか、観音寺騒動・信長の
近江侵攻を経て、織田方にくっついてこの戦場に来てる。堀秀政の弟が多賀家に養子に行って
いるのは調略の1つだったんだろうか。詳しくは動向が追いきれていないので、妄想に頼る
ところがある。

後円墳になっている郭からやや下って北に向かうと、前方後円墳の前方部分だとされている
場所に踏み入る。周囲には帯郭が接続されていることが上から下方を覗くことで分かる。

IMG_0916_20120523204615.jpg

前方部分を下りてから、今歩いてきた郭(南側)を見ると、前方後円墳の形を
しているのがハッキリ分かる。前方部分(上の写真右側)が小谷城側(北)を
向いている。

IMG_0919.jpg

先ほど、古墳の上から見ていた帯郭に解説があった。「犬走り」とあるが、
近世城郭のそれとは違う。よく岸和田城今治城、彦根城などで石垣の下端に
水堀側に人1人歩けるくらいのスペースがあるが、ここはそれらと違って、石垣
がない。石垣の崩壊止めというのではなく、土塁ここでは古墳跡とされる郭の
土留めとする解釈っぽい。本などでは土塁上に設けた土塀の内側・外側で名前を
分け、外側を「犬走り」と呼んでいる。(一方、内側は「武者走り」と呼ぶ。)

犬走りとは城外側のちょっとしたスペースのことを指すんだろうか。
なんにせよ、ここは無理やり名前が付けられた感が否めない。

この遺構(犬走り)は西側にあり、反対の東側にはこの陣地跡最大の竪堀が資料Ⅳには
記載されていたが、自分の目には、これで合ってるのかな?というくらいしか認める
ことが出来なかった。もしかしたら規模が大きすぎて、逆に分かりづらいとか?

IMG_0921_20120527212319.jpg
堀秀政陣地跡北から信長陣地まで続く道

ちょっと名残惜しくも、この地を後にすることにした。
さて、お次は織田信長陣地跡。はやる気持ちを抑え、このまま北へと進んでいく。

この記事をUPした5/27、堀秀政
小田原の役で陣中病没。
※ただし、旧暦の話

亡くなった秀政にこの記事を捧げる。




To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


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