#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-11/織田信長陣地跡②
#48 虎御前山城-11/織田信長陣地跡② 【小谷編】

さて、前回の続き。
織田信長陣地跡は南北に長い。北から南へ郭1と名付けられ、最南端の郭は4となっている。
それを今は南から攻城しているので、4・3・2・1とカウントダウンのように郭1へと向かって
いる。郭1とされる場所が本陣ともされていて、信長公ご本人様がいたことになっている。

古砦図では信長公御本陣とあるだけだが、虎姫館の手書きのマップでは、郭2以降に
二ノ丸・三ノ丸と名付けていた。

郭4~郭2と前回の記事では見てきたが、全てが削平地のみを残すだけで、
特に虎口土塁・堀と言った類いのものは見られなかった。ただ、郭3に
接続している帯郭から下方にある帯郭へは大土塁があり、これだけは見応えが
あった。もちろん、山の中に削平地が2~3連なっているだけでも興奮してしまうが、
やはり堀や土塁などの遺構を見てしまうと心がそっちにばかり気をとられてしまう。

で今は、郭2に上がり郭1へと近づいていく。途中東下方を覗いていると
帯郭が見える。

IMG_0951.jpg

うーん、結構下になるなぁ…
もう帯郭というよりは別の郭と解釈したほうがいいんじゃないだろうか。
堀秀政陣地跡の記事から東側の防御が多数見られると書いてきたが、藤井尚人さん
の『ドキュメント信長の合戦』では、水攻めしていたんでは?と書かれていた。
果たしてそうなのだろうか?理由はこうある。信長公記では「(要約)虎御前山から
宮部までの道は悪いので、盛土で…水を堰き止め、通行しやすくするよう(信長が)
命じた」とあることから、この盛土によって、虎御前山から雲雀山までの間一帯に
水が溜まったことから、浅井軍の動きを制したと述べられている。

ここに書かれている道は、虎御前山の記事で何度か書いてきた軍用道路のことを
指している。これには小谷城側には蔀となる土塁を築いたとされていたようなので、
高時川から分水した田川(虎御前山南麓にあり、横山との間にある)が堰き止められて
水が溜まっていったという解釈なんだろうが、だとしたらこの水が溜まっていった
東側に防備を固めているのは何故なのかが分からない。

考えられるのは、軍用道路敷設と虎御前山築城のタイミングは同時期だったため、
水が溜まったのは想定外の副産物だったんじゃないだろうか。虎御前山の普請
進める一方、水が徐々に溜まっていくことになり、東側を堅固にしたままになった
というのが1つ。元々浅井氏の支城の1つで、織田軍他敵が北国脇往還と呼ぶ道を
進軍してくることを想定して東側を固めていたのがそのままだったというのが2つ目。

ようやく本陣の前まで来た。今歩いていた郭2も意外と長かった。

IMG_0956.jpg

ここにが施されていたらしい。残っていれば壮観だったに違いない。
度肝を抜かされると同時に、射抜かれる気分も味わえただろうに、今は
そう妄想することしか出来ないのは残念。そういえば、この虎御前山城
小谷合戦後はどうなったのだろうか。廃城になった後、資材は一旦は
秀吉が入城する小谷城に利用され、その後長浜城まで用いられたんだろうか。
木材の耐久年数などもあるだろうから、どこかで朽ち果てたのかもしれない。
今目の前に見えている丸太で整備された階段も当時はなかったと考えられる。
郭4~郭2も南面の切岸にある階段から登ってきたが、当時の登城道は別であった
ということは前回の記事で記述した。

この本陣も同じ。ただ、これまで見てきた郭と違って虎口が技巧的なのは、
麓の陣地跡から登ってきて初。それをこの後、つぶさに観察してみた。

まずは登ってみた。すると、

IMG_0960.jpg

門があったとされる“長枡形虎口”とだけ書かれた札が立てられている。
近世城郭枡形虎口と比べて、正直一目では分かりにくい…

IMG_0958.jpg

別の角度。先ほど階段を登る時に上が見えてきた時が枡形感を感じやすかった。
ただ、元々ありもしない場所に階段が作られているので南側の土居部分が破壊
されているのが否めない。

浅井氏の興亡』では、南側に外枡形が見られるとあったが、ここの事を指すんだろう。
1570年に信長によって築かれた宇佐山城主郭虎口に類似しているというが、宇佐山城に
まだ行っていないので、似ているかどうか分からなかった。縄張図を見る限り、宇佐山城
の主郭南にある虎口と似ていると言っているんだろう。無理矢理織豊系城郭と位置づけ
たいんだろうか。また別の本では虎御前山城には虎口に枡形や馬出等の高度なテクニック
が認められないとあったが、枡形虎口はかろうじてここに1つだけあった。この本が出た
のが大分前だったので、それから整備するうちに枡形虎口というのが明らかになったんだろうか。
その本には続けて、織田系の特徴が見られないのは不思議だとも書いていた。

宇佐山城と比較するのはどうかと思うけど、あれは陣城ではなくて、恒久的に
使われる予定だった城だと言われている。そのため、ここにはない石垣がふんだんに
用いられており、虎御前山城よりも先に築かれた城だが立派な出来具合になったのには
別の意味も含められている。今じゃ新幹線で滋賀から京都に抜けるには、東海道を通る
が、昔は坂本から比叡山を中継する白鳥越えと呼ばれる山越えが主流だったらしい。
つまり今じゃ湖西線で南下して京都に行くルートではなく、坂本から京を真っ直ぐ
つないだルートがショートカットでもあり、一般的だったみたい。

浅井・朝倉が小谷合戦前に行った志賀の陣では、この白鳥越えを朝倉軍が確保したため、
織田軍が京への道を確保するために新たに山越えのルート・山中越えを新設している。
そのルートの途中にあるのが宇佐山城で、関所の役目をしていたとされるから、防御を
固くしたんだと思われる。

虎御前山には石垣がない。『日本城郭体系』で山頂付近に石垣が残るとあったが、
それは間違いだろう、と決めつけてしまってよいのだろうか。今はないように見えるが
この城跡を何十年も見てきたわけでもないし、ましてや今日1回しか見ていないので、
城郭体系が発刊されたときはあったかもしれない。それが何かの理由でなくなったのか
埋もれたのか原因はよく分からないが、今は見当たらない。

枡形虎口を抜けると、そこは…

IMG_0968.jpg

本陣跡とされる削平地になる。資料Ⅴでは先程の長枡形の板塀?土塀?から
ここまで天主?らしきものが続いている。想像の産物なので、二重に
なっているのだろう。

IMG_0974.jpg
▲石碑と現地解説板

>虎御前山城
>伝織田信長陣跡
>信長の陣跡と伝えられる。山の最高所に位置する規模の大きな曲輪で
>北、東、西の三方を切り立った崖で防御されている。ここから南東に
>尾根が伸び、伝信長先兵陣地跡と伝わる曲輪群がある。
(現地解説板より)

そうそう信長先手という陣地跡もあるみたい。ただ、行き方が分からなかったので
今回は行っていない。佐久間信盛陣地跡同様、次回来る機会があれば是非行ってみたいが、
果たして行けるのだろうか…

それはそうと、ここにいたと言われる信長公の前に秀吉久政の首を持って
現れたことを想像すると、ゾクゾクしてくる。ただ、疑問に思うのは信長陣地でも
最北端に位置し、小谷城側に本陣があることが敵陣に向かって突出しすぎている
のではないかと思うのだが。いくらこの城が自然の地形に添って築かれたにしても、
TOPが前面に出るもんだろうか。赤い彗星・シャアじゃあるまいし。

信長公と同じ気持ちを味わうべく、ここでお昼休憩にした。家から持参していた弁当を
ここで広げ、上の写真に写っている木の椅子に腰掛けた。今までは麓からゆっくり歩いて
きたものの、汗を結構かいていたが、この休憩している間に汗が冷えてしまった。なんと
言っても風が強い。お弁当の写真を撮るのにも風呂敷がめくれて何度も抑えながら撮る
ことに成功した。が、ここではそれは掲載しない。

食べ終わると、先へ進もうとした矢先、北側から攻城してきたと思われる人が、ちょうど
自分がいる信長陣地跡に登ってきた。何奴っ!!とは思わなかったが、これまで人っ子1人
見なかったので貸切状態だったのだが、ようやくここで自分以外の訪問者に出会うことに
なった。

それでは、続きを攻城していくことにする。
石碑があった場所から北東側に位置する場所には、資料Ⅳで座敷と茶室・庭があったと
されている。

IMG_0982.jpg

それには玉砂利とも書かれていることから、ここからそれらが発掘されたということだろうか。
そういえば、この虎御前山城は発掘調査はされているのだろうか。そういった記事は虎姫館で
見ていないし、自分が近江の城に興味を持ち始めてからはそういった現地説明会などの情報は
入っていない。(後で知ったけど98年ぐらいに整備に伴い、発掘調査が行われてる。)

虎御前山城に入る前は横山城が最前線だったが、そこでは茶器や湯を沸かすような遺物が
陣城とした場所で発見されている。浅井氏攻めにかなりの時間を費やすことが信長陣営では
最初から分かっていたか、長引くことによって、後で持ち込まれたか。

お茶が武士の間に広まったのが鎌倉時代
会所で唐物を用いた茶会や闘茶(茶を飲んで産地を当てるのを競う)などが行われているから、
城にそういった場所がこの頃すでにあってもおかしくないのだが、陣城にまで持ち込むとは。

ちなみに資料Ⅴでは、茶室は復元されていない。もし、あったとしたら千利休待庵のような
狭い茶室だったのだろうか。(待庵は約2畳なので、トイレの個室2個分と想像出来る。)
そうでなければ、この場所には建てられなかったんじゃないだろうか。庭も併設していたという
くらいなので。織田信長が千利休を茶頭にするのが、小谷合戦があった天正元年だとされている
から、この合戦に呼ばれていてもおかしくはないか。ここに利休を呼んで茶事でもしていたの
かなぁ。利休と信長、ここにあったと思われる茶室で、おもてなしを受ける一方、お市などの
救出作戦はどうするかなどの話をしていたかもしれない。
(後で知るけど、千利休の茶室が2畳に変わるのは、60歳の頃でこの時はちょうど秀吉が
山崎の合戦で明智を下した時に重なる。それまでは武野紹鴎のコピーで4畳半という茶室
だったらしいから、ここで2畳と想像したのはそもそも間違いだったと思われる。)

ただ、この城に信長はどれだけの日数いたのだろうか。
茶をもてなしたりする余裕はあったのだろうか。
寝返った阿閉氏に茶をもてなしたのだろうか。
など、色々と想像してしまう。

信長陣地も後少し。この本人とされる郭1から北に一段下に腰郭が併設されている。

IMG_1003.jpg
▲本陣北の腰郭

階段を下りると腰郭の削平地に出た。復元図にはこの郭から本陣まで上がれるようには
描かれておらず、独立した郭となっているので少なからずこの信長陣地はかなり技巧的
に築かれていることが“復元図によって”理解できる。当時が本当にそうだったかどうか
は疑問だけど…

腰郭からもう一段下りれば、秀吉陣地跡まで続く道になる。

IMG_1006.jpg

ここを下りて、西側に回ってみると竪堀が2条ほどあるというので、
見てみたが

IMG_1009_20120607193128.jpg

あっ、あるかも。という具合しか分からない。

だいぶ話が戻るけど、堀秀政って秀吉の合戦では、前線にたつイメージがあって、
この信長陣地跡南にあった堀秀政陣地跡は虎姫館の解説において、八相山城という
浅井氏の支城だったために南からの攻撃を防ぐ遺構とあったけど、何も南が技巧的
だからと言って浅井氏時代の遺構と考えるのはどうなんだろう…だって、ここ(秀政陣地)
を突破されれば信長の陣地は次なので、技巧的にしていてもおかしくはない。秀吉陣地が
北を守り、南側を堀秀政が守った。そのため、秀政陣地は南側の守りが固くなった
んじゃないだろうか。

話が逸れたけど、次回は秀吉陣地跡。



To Be Continued...



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


コメント
深夜にぬはっす(^^)/
いつも丁寧なブログ記事に感服しています!!
私の城攻めの参考書みたいですよ(^o^)丿
先日の小谷攻城後から虎御前山城に行きたくて仕方ないんです!!
秋には攻城したいので、じっくりと拝読させてくださいね~またお邪魔します(*^_^*)
[2012/06/12 01:32] URL | 流星☆ #- [ 編集 ]

おぉ、ありがとうございます。
お昼にぬはっす(^^)/
ありがとうございますー☆
丁寧だなんて、とんでもない。小谷城に比べたらかなり手抜きで…
でも、嬉しいお言葉♪励みになります。虎御前山城いい城ですよぉ~
秋は紅葉が綺麗でしょうねぇ~小谷城に行った11月末は、麓から見ても
赤々とした虎御前山は美しかったです。
[2012/06/12 11:26] URL | #oshiro #- [ 編集 ]


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