#oshiro/城郭記
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Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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虎御前山城-12/木下秀吉陣地跡①
#49 虎御前山城-12/木下秀吉陣地跡① 【小谷編】

織田信長陣地跡から下りて、北にある秀吉陣地跡へ向かって歩き出す。
堀秀政陣地と信長陣地は眼と鼻の先と表現できるくらい近かったが、信長陣地から
秀吉陣地までは少し歩くことになった。

平坦な道を進むと、まず信長馬場というところに出る。


信長馬場

IMG_1015.jpg
▲信長馬場木札が立つ削平地

ここに信長公が馬をつないでおいたということだろうか。ヒヒ~ンっと。
信長や馬廻衆の人間たちがここに馬をつないでいたんではないだろうか?
というような考えで、ここが信長馬場と名付けられているんだと思う。ここまでは
信長も馬で駆け上がってきて、ここからは徒で先程行ってきた本陣へと歩いて
行ったとかそういうことだと思われる。

でも、こんなただの削平地がこういう木札が立つことによって、何かしら考える
キッカケを持たせてくれるのはいいなぁ。なければただの削平地?と考えるか、
もしくは考えることもなく通り過ぎるような気がする。もし、本当にここに馬がいた
のだとしたら、信長は隊列の馬の毛色にも気を使っていたことが信長公記には
描かれているので、さぞや毛色の良い馬たちが並んでいたかと想像出来る。
ただ何頭もおけるスペースはなかったと思うので、近臣者しか置けなかったのか、
それとも信長本人だけだったのか。

他にはこれと言って見るものがなかったので、先へズンズン進んだ。
途中から上り坂となる。

IMG_1022.jpg

写真だと上を見上げて撮っているので、水平に見えるけど、ここが一番急坂だった。
登りつめると、秀吉陣地跡の遺構に出くわす。


木下秀吉陣地跡

IMG_1027.jpg

左右に土塁が高く積み上げられている。(分かりますか?写真左右に盛土があるの。)
“秀吉と信長の間には、犬走りでつながっていた”と資料Ⅳには書かれていたが、
多分この土塁のことを指しているんだろうなぁ~この土塁の遺構があることから、
秀吉陣地から信長陣地までは、当時はずっと続いていたはずと考えられ、土塁上には
板塀などが建てられていれば、その外側部分が『犬走り』だと解釈されているんじゃ
なかろうか。

ちょっと宛てにはならない資料Ⅰ(図説中世城郭辞典)では、この尾根上の両側にある
土塁が約23.5メートルの長さで築かれていると書かれているが、正直そこまで長い
ようには感じなかった。
※宛てにならないというのは、陣地跡の解説が現地とズレているから。この事は
信長陣地で述べたが、秀吉陣地跡は資料Ⅰで柴田勝家陣地と説明されている。

左右の土塁を交互に見てみた。拡大してみると、

IMG_1029_20120614121010.jpg
▲右(東)の土塁

IMG_1028.jpg
▲左(西)の土塁

右ひじ左ひじ交互に見て!ではなく、ここでは右土塁左土塁交互に見て!になるのかな。
右の土塁として載せた写真の左隅は奥へと道が続いているのだけど、これは土塁が後世
削りとられているか何かで本来は土塁が続いていたようだけど、今はここがパックリ
開いている。この道が秀吉陣地の帯郭下の削平地になる。で、秀吉陣地の構成としては、
輪郭式櫓台とされる小さな主郭の周りを下段の腰郭が囲んでいる。今はその囲んでいる
腰郭のやや下の位置にいる。

上の左右の土塁の写真を見てお気づきの人いるかもしれないけど、右(東)の土塁より
左(西)の土塁が高いのが分かるだろうか。落葉の大きさに多少違いがあることから、
納得して頂けるかもしれないけど、実際右は近づけて撮り、左は少し引いて撮っている。

これは資料Ⅳにも記載されていて、左(西)が高いのは、“山本山城を意識している”と
書かれている。本当かぁ~?といつものごとく疑問に思った。まぁここでは反論する話
を持ち合わせていないので、そういう説があるということだけに思い留めて先へ進むことに。

その脇道へは進まず、先程から歩いてきている真っ直ぐの道をそのまま進み、
整備された丸太の階段を登り、櫓台頂上部へと出ていくことにした。

IMG_1039_20120614121009.jpg

櫓台上は平坦な削平地になっており、石碑と現地解説板がある。

>伝木下秀吉陣跡
>秀吉の陣跡と伝えられる。秀吉は虎御前山城の城番に任ぜられており陣跡も小谷城に
>近接していることから、ここが最前線であったと考えられる。三角形の郭を中心に
>小谷城側に土塁を築いた帯状曲輪が設けられている。
(現地説明板より)

信長公記には秀吉が城番に任されていることが記載されているので、特段ここで
つらつらと述べる必要はないと思われる。

信長の陣地跡が虎御前山の中では一番標高が高いとあったけど、一番高いのはここ
ではないかと思う。古砦図には信長陣地が最高所に描かれているから信長陣地の標高が
一番高いと各書籍では書かれていのだろうが、国土地理院の『ウォッちず(地図検索画面)』
で検索したところ、虎御前山の標高最高所は224メートルで、『近江の山城ベスト50』に記載
されている虎御前山城縄張図と照合すると、秀吉陣地が最高所の224メートルと重なる。

つまり、虎御前山城で一番高い場所は秀吉陣地跡となり、信長はこれより一歩南に
布陣し、さらに低い位置にある。本陣が他の陣地より低い場所にあって、徐々に
それ以外の陣地も下っていく様は、小諸城穴城という特徴に似たような感覚を持つ。

秀吉陣地跡が一番高くさらに最前線にあるため一番小谷城から見える陣地跡になる。
そのため、攻められにくいように厳重な防御類を構築すると共に、やはり見せつける
ような形になったんじゃないだろうか。総石垣ではないから石垣山城のような一夜城
とまではいかないだろうけど、そういった相手を無言で威圧する陣城を構築したんだ
と自分の中では解釈した。

ここが最前線。ということは、ここで一番言葉合戦が繰り広げられた場所になるのだろうか。
浅井三代記は読んでいないが、そのような事が書かれていると虎姫館の展示では説明されていた。

「お前の母ちゃん、でーべそ!!」とか幼稚な言葉合戦ではないだろう。
秀吉軍の言葉は汚かったかんじゃないかと勝手に想像。

「おいコラ、デブっ!!!!!」とか言ってたかもしれない。
(すみません。浅井長政好きの人には申し訳ないですが、肖像画のイメージを優先して想像
しています。自分にはゲームなどで美化された戦国武将のイメージはありませんので、予め
ご了承ください。)

さらには放送禁止用語も連発していたかもしれない。
大河ドラマでも描かれない部分だろう。でも、言葉合戦って初めて聞いたのは大河ドラマの
「風林火山」が最初だったような…あれで武田軍が攻める相手に向かって言葉合戦をしかけて
いた気がするんだが、どんなシーンだったかはすでに忘れてしまった。あの時は、そういう
シーンが描かれていたのか、もしくは簡単に「言葉合戦をしかけよ!」とかってセリフを
言わせて、あたかも言葉合戦をしかけている風に見せた演出だったのか…

虎姫館の解説には、言葉合戦の起源が「やあやあ我こそは・・・(どこどこの何がしと
名乗りを挙げる)」にはじまるが、戦国時代になり次第に罵り合いや野次を交わす低俗
な言葉合戦に変化した。とあった。浅井、信長間にあっても揶揄し囃し立てるような感情
の対立がこの長期戦で士気を高めたのであろうと続いて記載されていた。

まぁ、軍記物なので着色されて、そういうことがあったのかもしれないとは思うけど、
相手には届いたのだろうか?テニスプレイヤーのシャラポワ選手が試合中に出す掛け声が
100デシベルちょっとと計測されているけど、この100デシベルって電車が通過するときの
ガード下の音と同じ大きさとされている。シャラポワがそれだけの声を出せたのなら、
戦国時代の雑兵たちも同じような大声を発生できたんじゃないだろうか。だとしたら
小谷城と虎御前山の山裾が400メートルということから、最前線にいた人間たちには
双方の言葉合戦が届いていたと思うなぁ~

とかくだらないことを考えながら櫓台を下りていく。

今回はここまで、次回秀吉陣地跡②へ続く。




To Be Continued...



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