#oshiro/城郭記
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#oshiro

Author:#oshiro
―城郭数寄者
城郭(最近は近世が特に…)と数寄建築・茶の湯が好きで、各地のお城や茶室を巡っています。中世城郭も好きですが、今は写真メインで巡ることが多く、土造りの城より石垣が築かれた城に足を運んでいます。
[注意!!]元々理系なため、文章がメチャメチャ下手糞です。と、ここで保険をかけておきます。



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松江城-27/本質
松江城-27/本質 【松江編 #28】

松江城が描かれた絵図は複数残されていて、今まで書いてきた記事で
いくつか紹介してきた。これらの絵図のおかげで、現在の復元や研究が
進んでいるのは城好きにとって嬉しい話。

『絵図』というのは江戸時代に作られた(古)地図のことで、
多種多様な絵図がこの時代作られた。幕府、藩庁、町人地、村などで。

その中に上で挙げた『城下町絵図』が含まれている。
城下町絵図には、大きく“公用図として描かれたもの”と
私用図として描かれた絵図”の2種類に分かれる。

公用図には、“幕府へ献上する用”と“藩庁用”にまた分かれる。
前者は、これまでに記述した石垣などの修復願い時に添付する絵図や
他には正保期に幕府が提出させた絵図などが挙げられ、後者は築城
際しての計画図・記録図作戦図屋敷割図都市改造計画用図
などがある。

築城の際の計画図や記録図、作戦用図が描かれるのは稀だと言われている。
もしかしたら見つかってない・公表されてないだけかもしれないけど、秘密裏に
事を進めるために作らなかったのかもしれない。

私用図は、まぁコピーの類い。
自分たちが図書館で市史や貸出禁止のものをコピーするように、
武士の間や町人の間でコピーされたもの。

松江藩では、開祖の堀尾氏から京極氏、幕末まで続く松平氏へと3家の
領主交替があるけど、こういった領主の交替の時は、城内に置かれた武具・
年貢
だけでなく、城の請取時に国絵図や郷町などの行政資料が引き継がれる。

現在、国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることが出来る正保城絵図は、
正保年間(1644~48)の国絵図作成にあわせて、諸藩に命じて作成させ徴収
した「城絵図」。この絵図の特徴として、城門などの防御施設、石垣(高さ)、
(幅や水深)などの軍事情報を細かく描かせており、城下町の様子・山や川の
配置なども描かれている。

正保松江城絵図_詳細
[Photo]松江城正保年間絵図から馬溜南部分抜粋、詳細情報が描かれている

松江で販売されている書籍では、堀の水深や幅などの軍事機密を正保城絵図
などに細かく記載した理由を幕府の権力に怯えて描かざるを得なかったと紹介
している。

だけど、武家諸法度による城郭修理の幕府許可制、幕府による転封・改易・断絶
による領主交替、城請取時に幕府の上使が派遣されるなど、これらのことから城郭は
藩主の私用物ではなく、幕府の管理するものであったと言われている。
この解釈を知ったときは、頭を金槌で打たれたような感覚に襲われた。
(言い過ぎか…)

諸藩は地方行政に過ぎないというと言い過ぎかもしれないけど、城の修復を
勝手に行うとお家取り潰し・城郭の修復は控えられることになったと、幕府の
強権性がよく取り上げられる。でも、それは武家諸法度発布後も各城郭で
修復が行われている事例があることからも、許可さえ取れれば修復可能
だったので、幕府怖さに修復を遠慮したと誇張するのは時代遅れな気が
している。

前置き?が長くなったけど、松江城下町絵図も各藩主時代のものがあり
研究が進んでいる。

松江に『雑賀町』という町がある。
これは江戸時代からある町で、名前からピンと来るかもしれないが、
雑賀衆(鉄砲足軽)という松江藩の下級家臣が団地のように
家族住まいで暮らしていた町。

堀尾期、京極期にはまだこの町は整備されておらず、松平氏の
治世になってから配置されたと最近の研究で示されている。

松平期の松江城下町絵図と整合する碁盤目状の町割りが今も残っている。


大きな地図で見る
[Map]松江市雑賀町、碁盤の目がよく分かる

松江は水の都として、今も昔も堀川が生活に密着していた。
松平氏の時代、この堀川を維持するために、主に雑賀町に住む御小人
呼ばれる末端の家臣が毎年5月中旬~8月始めに、堀底の「泥さらえ」など
掃除を行っていた。

泥さらえ以外にも、石垣がない堀の土手の「藪」を結び直したり、
土手筋の竹を伐採せずに留めておくなど、水際の土手の保全も
努めていた。これは外郭の防衛体制で書いた“藪の丁”という
場所辺りのことかもしれない。

自分が社会人になって、今でも思い出す言葉に「人がやりたがらない
仕事にこそ、その会社の本質がある。」というのがある。

実際、自分がこの雑賀町の人たちの仕事を同じように「やれ!」と
命令されたら正直やりたくないというのが本音。だって、5月中旬~
8月始めって一番水が汚くなる時期じゃん。そんな時期に堀掃除って…
だからと言って寒い時期にやるとなると水が冷たいし…

でも、誰かやらなければ堀川に堆積物が溜まってしまい舟の運行に
支障をきたし、また防御機能も弱まってしまう。雑賀町の人たちの
仕事は、まさに城の本質・水運の本質と言える。

京極期・松平期の絵図には幕府に提出されたもの以外でも細かい情報が
描かれている。それは以前外郭の防衛体制で四十間堀川の幅が京極期と
松平期で違っていたと書いた。もしかしたら、それらは城郭の維持管理で
描いていたかもしれない。そこに書かれている幅や水深を維持するよう
堀掃除し、藩に設置されていた城代組が見て回っていたんじゃないか?
と自分は考えてしまった。
※松江藩の家臣団構成の中に“城代組”という城内に居住し、樹木の
手入れ、掃除などの役目を勤め、小人(人夫)を使用する組があると
島根県史にある。


そんな雑賀町から維新後、若槻礼次郎岸清一が世に出た。
若槻礼次郎は首相になり、岸清一は政治家で、また日本スポーツ界の発展に
尽くした人物で、今では松江城三の丸(元藩庁があった場所)跡地にある
島根県庁に銅像が建立されている。

堀掃除とは直接関係ないだろうけど、雑賀町から輩出されたところが
何か思わせる。パナソニックの松下幸之助が研修でトイレ掃除を
させていたのも今では納得できる。

以上

今回はここまで。また次回。



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浜松城-1/歴史学の趨勢
浜松城-1/歴史学の趨勢

人生で嫌なことなんていくらでもある。
440年前の今日、徳川家康も嫌な思いをした。

浜松で。

今、浜松駅に降り立つと『出世大名家康くん』がロータリーで
出迎えてくれる。昨年?だったかな、浜松のゆるキャラとして
誕生した。

そして、浜松城と言えば『出世城』として売り出し中。
天下統一した家康公にあやかって…というのもあるが、江戸時代浜松城
から老中大坂城代など幕府の要職に就くものが多く出たことにも由来する。
水野忠邦なんか自ら進んで浜松城主になったと言われる。

そんな浜松城のHPをググると、『徳川300年の歴史を刻む出世城。浜松城』が
まず目に飛び込んでくる。歴史のページには、ほとんど家康の事ばかり書かれ、
他の城主については、最後に年表で紹介されるくらい。

まぁどこぞの城サイトよりはマシだろう。どんな事情があるか知らないが、
そのサイトでは城主1家しか書かれていない。年表からも築城者などは
全て省かれている。これでは、Wikiを読むほうが勉強になる。

話が逸れたが、とにかく浜松城は“家康色”が強い。

でも昨年面白い企画展が行われた。
浜松市博物館で10/20~11/25の間、『浜松城主 堀尾吉晴』という
特別展が開催された。実はこれに行ってきたわけではないのだが、
松江で堀尾氏菩提寺の圓成寺に行った時、ポスターが貼ってあって、
それで知った。

さて、浜松城に初めて天守を建てたのは誰か?

家康だと思う人がいるかもしれないが、答えは「堀尾吉晴」。
今、歴史学の趨勢では、この堀尾吉晴が浜松城に石垣を築き、
天守を建てたことになっている。

書籍によっては、石垣の増築と表現されているが、近年進められている発掘調査で、
吉晴が本丸と周辺の石垣を築いたことが決定的になった。現地ではまだ「これは、
四百年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。(以下、略)」と案内板が
置かれている。

これが「堀尾吉晴」となるのはそう遠くないと思うけど、
家康推しの今の浜松城では何だか想像し難い。

IMG_4811.jpg
[Photo]浜松城模擬天守のライトアップ

松江城の石垣同様、浜松城の天守台も後年の積み直しがかなりされている。
現在見る天守台石垣は約5メートルだけど、堀尾期にはこれよりも低く、約3
メートルと推測されている。

ここ数年、「天守門跡」「富士見櫓跡」等の発掘調査が行われた。
天守門跡の発掘調査では、石垣の上から礎石が出てきたことから
二階建ての構造、つまり櫓門であることが分かった。ここで出てきた瓦
には堀尾期のものと思われる軒平瓦が出てきたので、堀尾氏時代まで
遡ることが出来る。

そして、昨年の調査では雨落溝と排水溝の接続部分の解明が行われた。
そう、これは今日松江城の記事にも書いた排水溝。

この雨落溝というのは、復元時に大変貴重なデータになる。

もし、消失した門を復元しようと思った時、指図などに正確な寸法が示されて
いないとき、礎石と雨落溝の位置関係から門の軒の長さが推定される。現在、
浜松城ではこのような発掘調査の成果や現存資料を基にして、先日家相学の
記事で紹介した三浦正幸先生の検証及び復元図から、天守門の復元が去年
10月から約2ヵ年計画で進められている


明治初年に撮影された天守門は、櫓門形式ではない普通の城門に見えるんだけど、
今回復元されるものは、それ以前に建てられていたものってことになりそう。

吉晴が築いた松江城、その原点を見ることが出来る浜松城。
松江城同様に、天守台には穴蔵があり井戸があったことが分かっている。
この井戸は復興天守が建てられた今も、地下で見ることが出来、松江城
との共通性を確認できる。

浜松城の前に支配していた居城は佐和山城で、ここも別の武将
イメージがあまりにも強すぎる。

安土城築城に携わった堀尾吉晴が、石垣・礎石建築物・瓦の
築城技術三点セット
を最初に導入したのはどこだったのか。

浜松城より前の佐和山城だったかもしれない。
佐和山城の本格的な発掘調査は行われていないので、
今後の調査研究に期待したい。

以上

今回はここまで。また次回。



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松江城-26/縁雫
松江城-26/縁雫 【松江編 #27】

』と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。

自分の場合、「週末は雨です」と天気予報士が言っていたら、
かなりテンションが下がる。城跡へ行くのもどこかへ出かけるのも
晴れだと気分がいいし、写真撮るのにも晴れのほうがいい。
あと洗濯とかにも影響してくるし。

松江から帰ってきて、秘密のケンミンSHOWを見ていた時、あのドラマで、
新潟の放送局にはるみが行った際、「明日はあいにくの雨」と言って、
周りがドン引きしていた。新潟では雨を恵みの雨だと感謝し、天気予報時に
「あいにく」と言うのはおかしいそうだ。

雨に対する考え方って、人や地方によって異なる。
農業に携わったことがないので、雨の大切さというのをあまり実感した事がない。
夏に日照りが続き農作物がダメになるというニュースを耳にして考えるくらい。
農家に生まれていれば、少なくとも今よりは感謝の気持ちが強かったと思う。

そして、今連載中の松江でも雨に対する考え方は自分と違った。

11月に入ると松江の天気はころころ変わるらしく、『山陰と言えば雨、
雨と言えば山陰』と言われるくらいで、「弁当を忘れても傘は忘れるな」
という格言まである。松江に行った時は、11月末から12月頭までいたが、
確かに天気が崩れやすく、晴れに恵まれたのはほんの一時だった。

2009年から開催され、去年第4回を迎えた「観光甲子園」。
この第1回で、松江市立女子高等学校が優秀作品賞を獲った。

この女子高の観光コースの生徒たちが、縁結びのまち・松江に降る雨を
縁雫”と命名し、梅雨時季の松江の魅力をまとめたプランを甲子園で
発表し、受賞している。

「縁雫」と書いて、“えにしずく”と読む。

「縁結びの地でもあり、水の都でもある松江。松江には雨の似合う
スポットがたくさん。その雨は日常のストレスを洗い流し、心に潤い
を与えてくれることに感謝する気持ちを思い出してほしい。」
という想いから生まれたそうだ。

今では松江観光協会を通して商品開発が行われ、「縁雫」というロゴや
商品をよく目にする。「縁雫ワッフル」や「縁雫カクテル」というのがお店
で扱われており、縁雫カクテルに関しては雨の日だけというメニュー
だったりもする。

何度か記事に出てきた松江歴史館では、ミュージアムショップ名が、
このプロジェクトから「縁雫」とネーミングされている。

“松江の雨は縁を運ぶ”

松江で縁雫に出会うことができれば、素敵な縁に出会うことが出来る…

素敵な言葉だと思った。

雨の城跡巡りは困難を極める。足元が悪くなるため、あまり遺構
見て回ることが出来ず、傘を持っていると写真撮影もままならない。
終いにはテンションの低さから、もういいかという気分になり帰る始末。

だけど、雨の時でしか見れない機能もあるので、雨でも城跡を楽しむ
ことが出来るのはありがたい。そういった意味で、雨の松江城
出会えたことは素敵な縁だった。

雨の日、松江城天守へ行くと、付櫓や天守の軒先から滴る雨のしずくが
雨落受けのに当たる様子を観察することが出来る。これはしずくによって
地上がえぐれないようにするという目的もあるが、軒先から地面に落ちた
雨水を集めるて排水させるのが目的で敷かれている。この場所のように
瓦のものもあれば、石を組んで作られているものもある。別に松江城
限った話ではなく、姫路城や他の城でも見ることが出来る。

松江20121201_772
[Photo]軒先下の雨落受けの瓦

近くで観察してみると、しずくが落ちる箇所が瓦からズレて地上が
えぐれてきていたりする。

こういった主要な建物の周囲に巡らされている屋根からの
雨水を受ける雨落溝と呼ばれる排水溝。

今は軒先に雨樋がついているので玄関から入る時、目の前で滴が落ちる
ことはないけど、天守に入る時には、目の前をボタボタボタボタ…と、
滴が落ちていく。

地面にあるか、屋根に取り付けられているかの違いはあるものの、
「雨落溝」と「雨樋」は同じ役割を果たしている。とすると、雨樋は
画期的なアイデアだったとも言える。

本坂脇の排水溝は、残念ながら近代的なものに変わっていたが、
遺構保護などでこの下には、往時の排水溝が眠っているかもしれない。

松江20121201_768
[Photo]本坂脇の排水溝

松江城では至る所で発掘調査されており、その際、この雨落溝が廻って
いることも確認されている。それによると、ほとんどが来待石製の雨落溝
石列が廻っているというもの。多分、この排水溝の下にもその来待石で
出来た雨落溝があったのではないだろうか。

この来待石というのは、今も採石場から切り出されている。
来待石というのは宍道湖の南岸地域、特に宍道町や来待周辺
から採掘されるため、この名がついたと言われている。

もしかしたら、上の写真に見られる排水溝も現代になって切り出された
来待石が用いられているかもしれない。と、思っていたところ宍道町の
土江石材店が納品例に松江城を挙げている。紹介写真に松江城の上の
写真の排水溝がある本坂が写っているので、来待石製なのは間違い
なさそう。

江戸時代には松平直政公が「お止石」として、他藩への持ち出しを
厳しく制限した特産品「来待石」。

加工のしやすさ、また独特の風合いから300年以上も前から建築造園材
として今も用いられていて、この記事に何度か登場している7代藩主
不昧公は来待石で出来た出雲石灯籠を高く評価している。

先日、お茶処として紹介した記事に、松江歴史館にある“喫茶きはる”からは
日本庭園越しに松江城天守が見えると言ったが、この日本庭園には、特産の
来待石で出来た石灯籠が置かれている。今、出雲石灯籠は経済産業大臣より
伝統的工芸品の指定され、松江城の大手前駐車場横にある島根県物産観光館
では、2Fで来待石製の石灯籠を販売していたりする。

また、歴史館の入口付近には如泥石というものがある。これは不昧公
お抱え大工の小林如泥が考案した事から名付けられた来待石製の石。

今では少なくなっているそうだけど、水害が多かった松江で大橋川
宍道湖の護岸整備に如泥石が用いられてきた。まとまった数が今
見られるのは、宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島。ここでは今も2列に並ぶ
如泥石が見られる。

松江20121127_松江歴史館「如泥石」01
[Photo]松江歴史館に置かれている如泥石

この来待石には天然ゼオライトというものが大量に含まれていて、
宍道湖の水質浄化にも役立っているんだとか。

さすが水の都、松江。
城内の排水溝を来待石にして水質浄化し、それが石樋を通じて
流れ込み、それが宍道湖に繋がっている。そしてその宍道湖でも
水質浄化。

水の循環がスゴい。いや、縁雫の循環と言ったほうがいいだろうか。
当時はそんな事知らずにやってたんだろうけど…

松江20121129_松江城二の丸下の段石垣にある石樋01
[Photo]松江城二の丸の石樋、堀に排水されている

話が大分逸れたけど、石垣が築かれた近世城郭では水の処理が大変重要な
課題だった。石垣にとって内側からの水圧は大敵で、地下にそのまま排水
すると、それが地下にたまって、ゆくゆくは内側から石垣を圧迫して
崩壊たらしめる。

石垣の外にいかに効率よく水を逃すか?先人たちの知恵を伺うことが
出来る遺構。上に載せた石樋の写真も、地下の暗渠排水と繋がっていて、
堀へと排水していくもので、決して“抜け穴”などではない。

石樋は築城当初から石で出来ていたかというと、そうでもなかったりする。
最初は木樋のところが多かった。上田藩では上田城の木樋が腐朽したため、
石樋へ変更するのを、石垣修復願い同様に幕府に願い出ていたりする。

今日、江戸時代の排水システムを超えるものを作るのは難しいらしい。
川に小舟を浮かせてどこまで辿り着くかを観察するように、このような平山城
本丸の排水溝に小舟を浮かせて、二の丸から三の丸へ、さらには堀まで辿り
着くかを雨の日観察できたら面白いけど、まぁ多分辿り着かないだろうし、
許可なくやっちゃいけないだろう。

話は変わって、最後に1つ。

この時の遠征では松江城に何度か足を運んだ。
安来に行った日を除けば毎日行ったことになるが、その度に城内の
清掃を行う人達を見かけた。もちろん、上で書いてきた雨の日でも。

松江20121201_775
[Photo]雨の中、松江城中曲輪で清掃を行う人たち

松江城ではほぼ毎日清掃が行われ、そのため落ち葉などがほとんどない。
紅葉の時期は少し過ぎてしまって、木には葉があまりついていなかったので、
その落ち葉を全て回収していたことになる。

スゴいなぁ~と思わず感心してしまった。

普段会社の清掃員とすれ違っても、挨拶するだけで何とも思わないんだけど、
ここでこうして、雨の日も風の日も清掃活動している姿を見ると、清掃する
人には、口に出さずとも感謝の気持ちは持たなきゃいけないと思った。
お前は何年生だ、とツッコまれそう…でも、今の世の中、感謝の気持ちを
持っている人は少ないんじゃないだろうか、冒頭の雨に対する考え同様。

一方、別の津山城では、備中櫓の人に聞いたけど、落ち葉はなるべく
掃かずに残してくださいと清掃者にお願いしているそうだ。桜の名所
として有名だけど、紅葉シーズンは城内の木々が色づき、地元の
ニュースでは紅葉の名所として紹介している。

「京都の寺院では紅葉の落ち葉は掃かないが、奈良では落ち葉を
掃く」と耳にしたことがある。それと同じようなことが城跡でも
あることを知った。

どちらがいいと思うかは人それぞれ。

個人的には紅葉の時期、落ち葉がある方が好きかな。

でも、城内の清掃には感謝したい。
雨だけでなく、目から涙という縁雫がこぼれそうでしたというお話。

実際にはこぼれなかったけど。

以上

今回はここまで。また次回。



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松江城?-25/カソウタイショウ(仮)
松江城?-25/カソウタイショウ(仮) 【松江編 #26】

今回は家相学について。

家相と聞くと、家を建てるときに気にしたり、
また引っ越す先の間取りを気にする時のもの
という認識がある。

実際、そこまで気にしている人は多くないだろうけど、
現に家相などの風水で飯を食っている人がいるくらい
なので、それなりに需要はあるんだろう。

裁判もあるくらいだしね…。
トイレが鬼門の方角にあるからと言って訴える人がいれば、
Yahoo知恵袋で、「鬼門にあるトイレの運気をよくするには
どうすればいい?」なんていうものまである。

そんな家相学だけど、古代中国からあって、日本でも思想は
少し変わっているようだけど、家の間取りについて発展を
遂げていったらしい。

文和3年(1354)の円覚寺文書の中に、山門を建てる際に風水を勘考したという
ものがあり、これが日本本土における風水という言葉の初出とされている。
江戸時代後期には、家相見が登場したり家相書の出版が流布し、庶民の間に
家相判断が普及していく。しかし、鎌倉時代室町時代の風水については
不詳な点が多いとされていて、まだ研究途上と言ったところだと思う。

そして、その家相学について触れた城の一般書がある。
自分が目にした書籍だと、三浦正幸氏の『城のつくり方辞典』。

この中のコラムでは名古屋城を例に挙げ、城における
家相学を紹介している。

これによると、名古屋城は家相学から見ても優れた城なんだとか。
※先日の記事でも名古屋城を最強の縄張だとか、今回は家相学で
最強だとか、別に名古屋城びいきしているわけではない。


以前、二条城の記事で、すでにこの名古屋城の家相学について
紹介したので、今回で2度目ではあるものの再度取り上げる。

名古屋城では現在、復元中の本丸御殿が間取りを東南から北西に
かけて雁行形に造られている。これは二条城の二の丸御殿とも
同じ形であることから、二条城の記事で取り上げた。家相学では、
この“東南―北西ライン”で建てられた雁行形は吉とされている。
※名古屋城の本丸御殿の形状は慶長期と寛永期で大きく分かれる。
慶長期は御書院までは東南―北西ラインで造られていて、寛永期
(今復原されているのはコッチ)は、家光上洛時に増築された上洛殿
さえ除けば、全体的に東南―北西ラインで造られている。


名古屋城本丸御殿平面図
[Photo]名古屋城本丸御殿平面図、左下が上洛殿

また、玄関は東南と北西にあると大吉だそうだ。本丸御殿は
東南にある玄関の車寄から上がるようになっている。まだ
復元中なので、想像出来ない人は二条城の二の丸御殿を
想像すれば納得頂けると思う。

さらに、本丸全体を見ても、本丸へと入る虎口が東南にある
表二之門からで、また北西にも不明門という虎口がある。

名古屋城案内図
[Photo]名古屋城案内図
※この写真サイズだと分からないかもしれませんので、下記URL(PDF)から
名古屋城の案内図を開いて合わせて確認すると分かりやすいと思います。
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/04_guide/pdf/guidemap.pdf
(↑クリックすると、別ウィンドウで開きます。)

辰巳玄関、戌亥蔵”という言葉があるように、戌亥(北西)の
方角に土蔵があると大吉ともされている。
※辰巳(東南)の玄関は前述済。

これは三浦氏の書籍には書かれていなかったが、名古屋城の戌亥には
何があったか。本丸で見れば「大天守」と答えられてしまうが、そのさらに
北西には何があったか。「戌亥隅櫓(清洲櫓)でしょ」と、言われるかも
しれないが、それだと少し行きすぎで、大天守と戌亥隅櫓の間、そこには
深井丸という曲輪があり、殖産事業として御深井焼という焼き物を生産
していた場所ではあるが、火薬庫などの武器庫があった場所でもある。
つまり、北西には土蔵があったということで、これも大吉。
※現在、深井丸には乃木倉庫という旧陸軍の火薬庫がある。

また、家相学という言葉で触れる城の書籍は少ないけど、“鬼門欠け
という言葉はよく目にするんじゃないだろうか。鹿児島城やみんな大好き
上田城など、鬼門欠けという北東の鬼門を嫌って城内側への隅欠け
あるとして紹介している。

これも家相学の1つ。

家の“張り欠け”というものがあって、張りは吉、欠けは凶。
また、方角によっても吉凶があって、鬼門(北東)と裏鬼門(南西)の
張り欠けは凶、東南と北西の張りは吉とされている。

あれ?これだと鬼門の欠けは凶だから、良くないんじゃ…
と思う人がいるかもしれないが、一応鬼門の欠けが吉という説もある。

ところで、また名古屋城について考察してみると、上で述べたように
本丸から見て、東南と北西の位置に曲輪が張りだしているのである。
東南には二の丸があり、北西には先ほど武器庫があったといった
深井丸が。なのでこれも吉。

さらに名古屋城に1箇所だけ斜めに築かれた石垣がある。“斜め”という
のは石垣の反りを指すのではなく、平面上で見た時の塁線を指す。
他は北―南、東―西と正中線で築かれているのに対し、本丸から見て
鬼門の位置に塩蔵構という曲輪があるが、そこの石垣は鬼門の方角
だけ斜めに築かれている。これは鬼門という方角を失くすといった目的
で築かれているのではないだろうか。確か他の城でも鬼門という方角を
失くしてしまう目的で、斜めに築かれた石垣というのが紹介されていた
(気がする…うろ覚え)。

家相学という観点から名古屋城を見ると、縄張以外でも最強じゃん!!
って思うだろうけど、こういうのって自説に当てはまるように言葉巧みに
展開すれば、「確かにその通りだ」って納得できるような話になって
しまうんじゃないだろうか。家相学に当てはまるところだけ紹介して、
当てはまらないところを伏せておけば、あたかも全部理にかなっている
ように見えてしまう。

家相学は上に挙げた以外にも、たくさん吉凶判断があってキリがない。
天守が北西にあるといいとか…

また、四神相応というのもあるが、それはまた別の機会で扱うとする。

(もうここまで来ると、名古屋城の記事になってる…)

まぁ、でも頭から否定してしまっては、この松江城編で家相学の
話を出してきた意味がないので、松江城でも家相学という視点
から見るとどうなのか?というのを考えていきたい。

松江城について、家相学から見た書籍にはまだ出会ったことがない。
鬼門欠けですら書かれたものはない。なので、これから書くことは私見。

まず本丸で見ると、北東隅が他に比べて大きく欠けている。
なので、これは鬼門欠けとして石垣を城内側へと入隅したと思われる。
また、本丸内の建築物では天守を除けば北東に祈祷櫓があるのは面白い。
コノシロ伝説や以前記事に書いた石垣崩落などの理由で祈祷櫓が築かれた
とされてはいるが、方角に着目するのもありかもしれない。

松江城本丸図
[Photo]松江城縄張図、本丸部分
※分かりやすくするため、北が上になるように画像を回転させている。

本丸へ入る虎口はというと、一之門が東南側から入るようになっており、
また北門が北西にあるので、玄関の大吉に当てはまる。

そして内郭全体を見ても大手口馬溜は東南にあり、これまた大吉。

ただ、土蔵はというと、藩の米を納めたとされる米蔵などは全体的に
見たとき東側(二の丸下の段)に築かれている。北西方向にあったか
どうかは現状把握しきれていない。

二の丸御殿の形はというと、これは名古屋城や二条城の御殿のように
東南―北西ラインの雁行形ではなく、とくに方角を意識した造りには
なっていないように見える。三の丸御殿も同様。

こうして見ると、確かに家相学というものは当てはまるところはあるが
当てはまらないところもある。家相学で優劣がついてしまうのであれば、
確かに三浦先生がいう名古屋城が一番勝っているのかもしれない。

さて、松江城自体の家相学については触れられた記事は見たことがないが
鬼門封じの記事は目にしたことがある。なので、それを最後に紹介する。

松江市内から車で30分行ったところに、「華蔵寺」という寺がある。
車で30分なので、この前の松江遠征時には行けなかった......orz

この寺は、松江城の鬼門とされる北東に位置することから、松江城の
安泰を祈願し、歴代の松江藩主の加護を受けてきたという。

歴史は古く、平安時代からあるらしく、戦国時代には尼子氏毛利氏
合戦で消失してしまったそうだが、松江開府時に堀尾吉晴が鬼門封じの
ために祈願所として、また松平氏時代には手厚く加護を受けて、不昧公
ゆかりの茶室や小林如泥作の透かし彫りなどが残っている。

寺から出てきた棟札から、松平家初代直政が建立したとされる建物が
あるが、実はまだ本堂に関した棟札は見つかっておらず、また棟札も
全部が全部整理出来ているわけじゃないため、未整理の中にもしかしたら
本堂に関する棟札があるんじゃないかとも言われている。そして、本堂が
堀尾氏時代の建立物ではないか?とも考えられている…。

ちなみに、名古屋城にも鬼門封じがある。

それは北東方向にあるお寺・龍泉寺。これは尾張四観音の1つで、
他には北西に甚目寺観音、東南に笠寺観音、南西に荒子観音
ある。

うん?北西・東南・南西?
何から見て?

名古屋城の鬼門(北東)に龍泉寺があると言った。その名古屋城
から見た方角に統一してある。つまり、尾張四観音は名古屋城
の四隅にあり、その四方の寺を名古屋城築城の際、名古屋城
鎮護の守護神と定めたことに由来する。

名古屋城が最強と言われる所以はここからも来ているのかもしれない。
松江城の記事だけど、名古屋城には“家相大賞”を授けたい。

“欽ちゃんの仮装大賞”ならぬ“金ちゃんの家相大賞”

金ちゃんは、名古屋城の金鯱から取った。
世界の金シャチ横丁(仮称)”という名前よりはまだマシな気がする。

以上

今回はここまで。また次回。



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松江城-24/城の“匠”
松江城-24/城の“匠” 【松江編 #25】

大改造!!劇的ビフォーアフターというTV番組がある。

老朽化した家や狭小住宅など、色んな問題を抱えた物件が“匠”という
建築士によって劇的にリフォームされていく姿が描かれる。

毎週かかさず見るというわけではないけど、見るものが
ないときは見るようにしているこの番組。

ここに出てくる“匠”の手際や構想など、聞いていると「はっ」と
させられるようなことを喋るので、案外タメになる。

そんな“匠”という建築士は、この番組で出てくるような“匠”もいれば、
番組には出てこないけど、自分たちが知らないところで今も依頼人の
顔を笑顔にするべく活躍していたりする。

その中には、もちろん私たちが愛する“”も含まれている。

日本には現存する12天守があり、また現存する城郭建築物は日本各地に
ごろごろ転がっている。また、現存するだけでなく復元した天守や櫓・御殿など、
これらを維持する“匠”もいれば、他にも名古屋城では本丸御殿が今復元中で、
世界遺産となっている姫路城では天空の白鷺で大修理中。今も城のために
奮闘している“匠”がいる。

今日、城の美しさを眺めることができるのも、そうした“匠”たちが
城を支えているおかげ。

現在連載している松江城にも“匠”がいて、
今回は、その内の1人を紹介したい。

松江城は、廃藩置県が進む明治8年(1875)に無用の長物と化した櫓や
多門など多くの城郭施設がことごとく壊されていったという解体撤去の
記録が残っている。

松江城に現存として残るのは、日本で12残る天守のみ。
二の丸には今、南櫓・中櫓・太鼓櫓が建っているが、これらは平成の世に
125年の時を経て復元された城郭施設で、ほんの10数年前はまだ櫓が建つ
前の石垣しかそこにはなかった。

いや、正確に言うと松江城とは無関係な茶店があった…。

この櫓や土塀の復元を成功させたのは、建築を指揮した宮大工で
文化財建造物木工主任技術者の後藤史樹さん。
※後藤史樹さんは安来にある有限会社後藤屋の代表取締役で、
出雲大社本殿大工も務めている。


しかし、ここにかつてどんな櫓が建っていたのかを
記した記録は何も残っていなかった…。

櫓を復元するにあたり、後藤さんが手掛かりに出来たものは、
明治8年撮影されたという写真1枚だけだったという。
※解体撤去以前の櫓を三の丸から写した古写真は2枚あり、
上で言う写真は下の写真とは別のもう1枚を指す。


松江20121128_422
[Photo]三の丸から写した古写真
※この古写真は、全く使われなかったかと言うとそうでもなく、
塀が一部軸組が露出している状態で見えるので、復元資料の
1つとして使われている。


後藤さんは復元後、こう語っている。
「この写真(上の写真とは別の写真)を頂いた時に、この櫓(南櫓)を復元するわけ
ですから、今は出来てますけど、ない状態でまず石垣(南櫓下)を見たんですよね。
石垣を“ぱっ”と見たところ、今と全く一緒で石垣自体はいじってないことが分かり
ました。そうすると、今度この石垣のどの石の位置に櫓の幅があるか、それはもう
現地で実測できます。」

古写真に写る南櫓は、2階出格子窓が解体されはじめているが、外観が良くわかり
復元意匠の参考となった。櫓下石垣隅の天端石は特徴の分かる平らな石が3個並び、
現在も残っていて、遺構実測寸法から南面一辺の割合を算出し、棟高さ・軒高さを
推定していった。

松江20121127_南櫓遺構
[Photo]南櫓跡の発掘図

後藤さんは石垣に残されていた基礎から寸法を割り出し、遺構発掘データ
城内建造物の規模や形態を記した古文書、城の縄張図などを照らし合わせて
設計図を書いた。さらに櫓の外観は写真を参考に図面を起こすことで、それと
寸分違わぬ建物を復元した。

「また、瓦の枚数も全部数えて、それで発掘調査で出てきた櫓の瓦の幅でかけると
軒先の長さも出ます。つまり、色んな角度からこの写真から読み取れる寸法を、
今度は尺貫法で建てているから尺に置換して正数が出るはずです。すると、この
高さもきちっとある正数にたどり着くんです。」と、後藤さんはさらに語る。

屋根は本瓦葺で葺かれていることが古写真から分かり、割付本数も数えることができた。

平成10年に始まり、足掛け4年間続いた復元工事。
写真には写っていない北側などは現存している天守の造りなどから
推測し、屋根の構造や内装なども天守を研究して造り上げた。

そして平成13年、ついに南櫓が姿を現した。

明治時代に撮影された1枚の写真、それを頼りに宮大工の後藤さんは
南櫓をかつてと同じ場所に寸分違わず復元することに成功した。

松江20121128_松江城南櫓01
[Photo]復元された南櫓北側

特に苦心したのは屋根の梁の部分だったと、後藤さんは続けて語る。

「お城づくりというのは、仕上げていない造りというのが原則と言いますか。
建った当時の時代背景から言いますと、戦国時代ですから、とにかく急いで
建てる必要があったということです。機能優先で、戦国時代に対応した戦術に
対応した造りを心掛けていますね。ということは、もう当然仕上がりというのは
大雑把なんです。」

江戸初期の柱、ちょうなという道具で荒く表面を削るだけで、仕上げに
鉋をかけることはしなかったと。そこで後藤さんは同じようにちょうなを
用い、柱を仕上げていった。

ちなみに、ちょうなで仕上げている梁などは他の城でもよく見かける。
実はちょうなではつったほうが強度が上がるということを耳にしたことも
あるので、急いで造り上げたためにちょうな仕上げになったのかもしれないが、
強度を増すための創意工夫だったのではないかとも思う。(これ自分の意見)

後藤さんは梁と梁の組み方にも苦心し、天守の梁などに何度も上がって
研究したと言う。天守の木組みを参考にし、複雑に組まれていた梁を
図面に起こしてから、同じように巨大な梁を組み上げた。

さらに戦国時代ならではの荒々しい造りを再現するために、あえて垂木
屋内に残したり、使用した輪釘にしても1本1本鍛冶屋に造ってもらい、
それを使用するなど、工法にも徹底的にこだわっている。現代の技術は
頭から消し、江戸時代の大工になったつもりで建築を進め、天守と同じ
松やクリなど出来るだけ同じ素材を使って完成させた。
※整備事業報告書を見ると、ごく一部だがヒノキやスギなどの部材も
使われている。


「400年前に出来た時も、お殿様はここからやはり見渡されたんだろうなと
考えると、なんか非常にタイムスリップしたような雰囲気はありますね。」

松江20121202_4062
[Photo]左が復元された南櫓、右が現存する天守

松江城の昔の姿を復活させたい。

今、後藤さんは「とにかく写真と同じものを造ろうと取り組んだ。
名誉な仕事に携われて、本当にありがたかった。」と、振り返っている。

屋根工事に左官工事、建具工事や設備工事、瓦製作、木材納入など
復元には他にも色んな職人が関わっている。後藤さんだけでこの復元は
成し得なかったのも事実。

築城時も同じように職人たちが作事に携わって櫓や天守を造り上げた。
残念ながら天守を除く全ての城郭建造物は解体されて、それらの職人が
建てたものはなくなったが、現代の職人がその時の職人に畏敬の念を
抱きながら建てた櫓は“復元した”という一言で終わらせるよりも、
松江城の長い歴史の中で、南櫓の“新たな歴史が始まった”と、そう
捉えるとまた復元櫓に対しての見方が変わってくる。

現在南東方向から松江城を見上げると、往時の姿さながらの
景観を楽しむことができる。

今も日夜、どこかの城で“匠”が活躍している。

以上

今回はここまで。また次回。



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